「お前は恵まれてていいよな」

三生七生(みみななみ)

努力とは

日差しの差し込む2DK。コーヒー。Yシャツ。

そんな部屋に、俺はいた。

「また一週間が始まるなあ」

新卒で不動産会社に就職して3年。不動産なんて特に興味はなかったが、わざわざ俺はこの仕事を選んだ。

なぜなら、金払いが良すぎるからだ。いちマンションやいち物件は事故物件になったり、某武蔵◯杉のように災害に見舞われたり、個々の不動産としての価値は暴落するものも当然ある。しかし、この業界全体が傾くことはそうない。うちの不動産屋は企業向けの貸店舗からアパートまで、幅広く取り扱っている。営業先の企業なんて腐るほどあるし、住まいはなくてはならないものだし、あの某ウイルスが流行したときも「おうち時間」がフィーチャーされ、より家そのものにお金をかける人が増えてきた。こんなに安定した業界、そして職種もそうないだろう。

時刻は8時25分。そろそろ出よう。

歯磨きをし、ブレスケアを噛み、口臭スプレーを噴霧する。やり過ぎなくらいが営業マンはちょうどいい。

マルジェラのスーツジャケットを羽織って、俺は玄関を出た。


「はい、はい、かしこまりました。ありがとうございます!では引き続きよろしくお願いいたします」

これで今月の目標は達成。5月に入ってまだ1週間だというのに。この調子だと今月もまた俺が売上1位だろう。むしろ俺以外の奴は毎日何をしてるんだ?電話してアポさえ取れればこっちのものだろうが。

「頼岡さん、今月の目標もう達成したんすか!?」

4月に入ったばかりの後輩、笹田がでかい声で話しかけてくる。こいつは営業向きだ。

「ああ、三軒茶屋の物件、ぜひテナントが契約したいってよ。開店花送る準備してほしいから、あとで物件資料送るな」

「うす!任せてください!」

こいつは自分のアポを取るより、俺の開店花を送ってる回数のほうが多い気がするんだが…。まあ、新人なんてそんなもんか。俺だって初成約は確か7か月目とかだったしな。

それはそうと、もう今月の目標を達成してしまったので正直今月はこれ以上営業活動に精を出したくない。今月頑張りすぎたら来月が目標を達成しづらくなって自分の首を絞めるだけだ。今回はうちではなくテナント側の雛形の契約書を使用しての契約だから、入念に契約書に目を通しておくか。

先ほど契約したテナントの担当者から送られてきたメールを開き、添付資料のPDFの契約書を開く。正直他社の契約書は嫌いだ。確認するところが多すぎる。もういっそのこと国か団体が統一した雛形を作成してくれれば楽なのに。

なんて、心の中で悪態をついていると、プライベート用のスマートフォンから、メッセージの通知音が鳴る。普段ならプライベート用のスマホはカバンにしまっておくのだが、目標を達成して気が緩み、今日はしまうのを忘れていた。今日はどうせこのあと暇だし、たまにはいいだろ。

そう考えておれは、あたかもこれは営業用スマホですよといった顔をしながら、プライベート用のスマホを確認する。


「…え」


俺が今スマホを確認する一連の流れを見ていたやつがいたとしたら、でかい契約が反故になったのかと思うだろう。それくらい、俺は戸惑いの感情が顔に現れていたと思う。


『久しぶり!俺のこと覚えてる?高梁だけど笑 急でなんだけど今度飯でも行かねえ?』



俺の勤める会社は新東駅の東口を出て、徒歩2分の場所にある。ターミナル駅でもある新東駅の近くには、飲食店なんて潰れるほどある。職場近くの喫茶店を指定してもよかったが、会社の連中はよく職場近くの喫茶店を利用する。そういった奴らと鉢合わせするのも面倒なので、俺は高梁を新東駅の西口側に呼び出した。新東駅の東口は最近改装工事が行われ、ハイソなオフィスビル街になっている。一方で西口は背の低い雑居ビルが乱雑に立っており、噂では薬物の売買も行われていると聞く。用さえなければなるべく来たくない場所だ。

そんな俺が今回新東駅の西口を指定したのには、他にもわけがある。


「ゴメンゴメン!遅れたかな?いや~あんま来ねえところだから迷った!」

「おつかれ。いや、大して待ってないよ」

「新東駅って東口はすっげー栄えてんのに、西口側はボロいんだな~。あれっ、お前スーツだけど仕事帰り?」

「ああ、東口のほうにある不動産屋で働いてるんだ。ちょうどここから見えるあのビルだよ。ガラス張りの」

俺が窓の外を指さすと、高梁もすぐに俺の指さす方を見る。

「お~~!あのでっかいビル!?すげーな!めっちゃキレイ!」

「良いのは見た目だけだよ。ガラス張りだから暑いのなんの。不動産屋のオフィスがそれって、どうなのって話だよ」

「いや~そういうのはやっぱブランドなんだろ」


この高梁というやつは、俺の高校時代の同級生だ。

そして俺はこの高梁という男が、どうにも好きになれない。

特筆して嫌いと思っているわけでもないが、本当になんとなく、どこかがいけ好かないのだ。

今回、わざわざこいつを新東駅の西口に呼び出したのだって、俺のオフィスビルを見せてやりたかったからだ。東口に出ればそのビルの大きさ、新しさ、そこから出てくる営業マンたちの溌剌さ、そのすべてを見せてやり、スケールの大きさの限りを自慢できた。

だが、あえて西口側から眺めさせることで、自分には手の届かない世界であるということを演出したかったのだ。

そんな小細工をわざわざしてやるほど、俺はこいつが気に食わない。


だのに、俺が今日こいつに会ってやったのは、興味が湧いたからだ。

風のうわさで聞いた話だと、こいつは大学受験浪人したうえに、就職浪人までしたらしい。現在金髪であることから察するに、おそらくまともな就職はしていないはずだ。

あのいけ好かなかった高梁がここまで苦労していることが、俺には愉快な事実だった。


「とりあえず店入ろう。すぐそこのファミレスでいいか?」

「おう!今給料日前で金ねえからむしろ助かるわ!」


新東駅前西口徒歩1分の場所に位置するビルの7階。そこにそのファミレスはある。7階は客の目に留まりにくいため、家賃が低層階よりも低い。全国展開しているこのファミレスは低価格帯のため、これより下の階には出店できなかったのだろう。

エレベーターに乗り込み、7階のボタンを押す。「7階です」と自動音声が流れるが、ノイズがひどい。ちゃんと点検してるのか?こうして不動産を分析してしまうのは、不動産営業職である俺の職業病だ。

エレベーターを降りると目の前にファミレスのドアが現れる。迷いようのない良い造りだ。どうやらこのフロアはこのファミレスしかないらしい。

夕方という飯時ではない時間帯にしては店は空いているほうだ。パソコンを凝視する中年の男、開いた教科書に目もくれず友人とおしゃべりをする女子高生たち、タブレットで黙々と絵を描く若い男性…。客層は様々だ。

従業員は出てこない。お客様名簿の上には「お好きなお席へお座りください」との張り紙がしてある。従業員や客の少ないときの対応あるあるだな。

俺は先導して窓際のソファ席に向かった。ソファが窓と垂直になっている席のため、向かい合って座っていてもお互い窓の外の景色が見える良席だ。席の大きさから察するに4人席だが、今はそれを咎められるほど混雑していないため気にならない。

高梁と向かい合って座ると、高梁は窓の外に見える東口のビル群を眺め、またしても「すげー」とはしゃいでいた。ここは東口側がよく見えるだろ。


「とりあえずドリンクバーでいいか?」

「おう!何か食いたくなったら適当に頼むから気にしないでくれよ」

俺はタッチパネルでドリンクバーを2つ注文する。

「俺持ってくるぜ!何がいい?」

高梁のわりに珍しく気が利くな。

俺はネクタイを緩めながら「アイスコーヒー」とだけ伝えた。コーヒーとかってどうやって入れるんだっけなーと言ってドリンクバーコーナーに向かう高梁を俺は無視して、窓の外の摩天楼たちを見つめた。


数分後、メロンソーダとアイスコーヒーを持って高梁が席に戻ってきた。

「ドリンクバーでアイスコーヒーって初めて入れたわ!アイスって書いてあんのにホット出てきてびびったぜ」

「まぁ、トラップだよな」

お互い数口を口にしたところで、俺は久しぶりに会う人間にする質問第一位を投げた。

「最近は何してるんだ?どこに就職したんだよ」

「あ~実は俺まだ学生なんだよね。院進したんだよ」

大学院?お前が?しかしなるほど、金髪の理由もうなずける。

いや待て。俺はこいつが就職浪人したと聞いている。勘違いだったか?

「そうだったんだ。俺は風のうわさでお前が就職浪人したって聞いてたから、とっくに働いてるんだと思ってたよ。お前がそこまで学問を究めたい学者気質だったなんて、知らなかった」

「あ~、いや、就職浪人したってのはほんとだよ。1年ダブって就職に備えようと思ったんだけど、うまくいかなくて。このまま卒業したらやばいと思って、急遽院進に切り替えたんだ」

なるほど。計画性のないこいつが考えそうな姑息な手だ。


「最近はずっとバイトしてるよ。予備校代も学費も親に出してもらったから、自分の食費分くらいは家に入れなさいって言われちゃって。俺結構食べるからさ、食費がかさむのなんの。バイト代はほとんど食費か、彼女とのデート代に消えてくよ。さすがに院で留年はできないから勉強もしなくちゃいけないし、忙しくて」


チリ、と胸に煽ぎを感じた。が、あくまで煽ぎに過ぎなかったため俺はその違和感を無視することにした。


「お前は不動産勤務か~。いい職に就いたな」

「しかもあのS大の花形の経営学科出身だろ?それもストレートで卒業。からの不動産勤務。超エリートじゃん。俺のバイト先なんか場末の居酒屋だぜ?」

高梁がメロンソーダを口元に持っていく。カラン、と氷が溶ける音がした。

「お前は恵まれてていいよな」

瞬間、頭に血が上るのと、体の全細胞がいっせいに冷静になるのと、矛盾の感覚を味わった。

お前は、恵まれてて、いいよな?

オマエハ、メグマレテテ、イイヨナ?

何度反芻しても、咀嚼しても、脳が理解を示さない。

この俺のどこが、恵まれているというのだ。


「恵まれた」俺は、『浪人』と名のつくものはすべて経験していない。留年だってもちろんしていない。卒業単位を大幅に超えた単位数を取得して卒業した。そのうえでひとつも単位は落としていない。受験生のときにも、受かったら行く予定の大学しか受験していない。残念ながら国立大学には落ちてしまったので学費の高い私立大学に進学したが、学費はすべて奨学金から捻出している。就職先が決まったら、すぐ家を出た。東京郊外にある家具付きの安いアパートを借りて、大学時代はそこで過ごした。当時は車がないと生活できなかったため、安い軽の中古車を買った。


高梁、なんで俺がこんな生活をしているか、わかるか?

俺には、もっと言えば俺の家には金がなかったからだ。

物心ついたときには母親しかいなかった。俺と母親の2人暮らし。母親はいつもパートで忙しそうだった。「うちは貧乏だから」が口癖の母親だった。

それでも俺は、特に不自由を感じたことはなかったし、自分の貧乏を恨んだこともなかった。服は穴が開いていなければ着られるし、ひもじいと思いながら母親の帰りを待ったこともない。たまに電気が止まることはあったが、そうしたら寝ればいいだけだ。幼いながら「うちは貧乏なんだな」とは思ってはいたが困っていたわけではなかったし、どこの家庭もうちほどではなくとも、大体がこんなものだと思って生きてきた。母親の愛情に飢えた覚えもないので、きっと良い母親だったんだと思う。



そんな俺がこの世の不平等を初めて感じたのが、小学校4年生のときだった。


俺は当時、すごくハマったカードゲームがあった。カード自体はコンビニやスーパーで売られているごく一般的なものだったが、いつの時代もトレーディングカードにはSSRやキラカードというものが存在した。俺はたまたまふと通りかかった中古品ショップのショーウインドウに飾られているカードを目にした。俺はそれまで、人生で初めてこんなにも「これがほしい」と思ったことはなかった。それは黒いドラゴンのキラキラしたカードで、能力値的にもちょうど俺のデッキに組み込みやすいものだった。今思えばデザインははいかにも小学生が好きそうなありきたりのデザインだったが、だからこそ俺はそのカードに魅了された。

ただ、やはり中古品ショップのショーウインドウに並べられているだけあって、値段はとても小学生の俺が買えるようなものではなかった。俺の家庭環境から察せるとは思うが、俺の家にお小遣いなんていう制度はない。お盆や正月などの大きな行事のときに親戚からもらうだけだ。当時の俺は、お盆や正月=親戚にお金をもらえる行事だとしか思っていなかった。不躾な子どもだと思わなくもないが、子どもなんてそんなものだろう。だから俺は、数万円かかるものを買うときには年単位で貯金する必要があった。だが当時の俺はそのカードがどうしても欲しくて、年単位など待っていられなかった。母親に交渉して、家事を手伝ったらおこづかいをくれと強請った。母親も少し渋い顔をしたが、月額のおこづかいをあげられていなかったことに負い目を感じたのか、承諾してくれた。ただ、小学生の子どもの娯楽に金を割いてやれるほど俺の家はどうやら余裕がなかったようなので、もらえるおこづかいは数十円、多くて数百円程度のものだった。でも、当時の俺はそれでも本当に嬉しかった。自分が頑張れば頑張るほどお金が貯まっていく。そして目標の金額まであと何円、そのためにはあと何回家事をすればいい、と考えていくのが本当に楽しかった。

目標までの家事の残り回数が10回を切った頃、俺は例の中古品ショップの前を通るのすら楽しくて仕方がなかった。今まで憧れの存在でしかなかったあのカードが、もうすぐ手に入るのだ。今までの俺にはなかった不思議な感覚を得て、心地よかったのも覚えている。俺は単純にあのカードを自分のものにしたいという思いが強かったが、それと同時に「同じクラスの奴らに自慢できる」という野望もあった。クラスでみんながするのはいつもゲームの話。俺だけがついていけないことなんて多すぎて数えられないくらいだ。そんな俺があの憧れのカードを手にしたら、クラスのヒーローになれるかもしれない。俺はあのカードに「人気者になれる」という夢をも託していたんだと思う。


そしてついに、目標の額が貯まった。母親にお金をもらった瞬間、俺は家を飛び出した。もう暗くなった時間帯だったが、母親も俺の家事の理由を知っていたので特に止めることもしなかった。俺はあの中古品ショップに、一目散に駆け出した。これで俺はヒーローになれる。その頃にはその願望のほうが大きかったかもしれない。



中古品ショップに辿り着き、ショーウインドウを覗き込んだ。だが、そこにあのドラゴンのカードはなかった。何回もショーウインドウを確認した。通るたびに見ていたから展示されている場所なんて目をつぶっていてもわかるはずなのに。いつもは通るだけだった中古品ショップの中に入り、俺は店員にあのドラゴンのカードはどこだと詰め寄った。すると店員は「あのカードは2日前に売れた」と返すのみだった。プレミア品のため、在庫ももうないとも言っていた。


俺は中古品ショップに向かったのと同じくらいに、一目散に駆け出した。涙が横に流れるのがわかった。

悔しかった。悔しいなんてものじゃなかった。これまでの努力はなんだったのかと。どうして俺がこんな思いをしなきゃいけないんだと。

それに、俺はあのカードがただ憧れで欲しかっただけなのに、今俺が考えているのは「ヒーローになれなかった」ということだと思うと、途端に自分が恥ずかしくなってきた。俺はあのカードに、何を期待していたんだろう。こんな気持ちはあのカードに失礼だとさえ思った。


どこかで時間を潰してから帰ろうかとも思ったが、母親が心配するのでやめた。

家に帰ったとき、母親は俺を見て察したのか「お風呂、わいてるよ」としか言わなかった。

風呂に入った記憶はない。もうすべてが嫌になってそのまま寝たのか、入ったが放心状態すぎて記憶がないのか、どちらかはわからない。

ただ、次の日が学校であることを恨みながら眠りについたことだけは覚えている。



次の日は、少しだけ寝坊した。

遅刻になるような明らかな寝坊ではないが、わりとホームルームの時間の数分前に教室に着いた。

なぜか、いつもより男子たちが騒がしい気がした。教室のうしろのほうで男子たちが集まっているのがちらっと見えた。俺は正直男子たちの戯れに参加する気分ではなかったので、そのまま自分の席についてランドセルを降ろした。

すると、騒がしい男子たちの中から一人、声をかけてきた奴がいた。

「おはよ!なあ、お前も見ろよ!あいつスッゲーの持ってんだぜ!」

なんだよ、と思ったがそいつが指さした方向に、つい俺は一瞥をくれた。

そこには、あの「ドラゴンのカード」を持ったクラスの男子がいた。俺はすぐその男子たちの集まりに割り入った。

「お前、そのカード、どこで買ったんだよ!」

俺があまりにも血相と目の色を変えて詰め寄ってくるものだから、そいつはタジタジになりながら答えた。

「も、もらったんだよ。パパに。あ、でも確かお前の家の近くの中古品ショップで買ったとか言ってたかも」

もらった、だと…?しかも、買ってもらった…?親に……?

そういやこいつの親は社長だったことを、そのとき思い出した。


そんなの、そんなのずるいじゃないか。

大人の視点から見れば、「仕方ない」とかで済まされることだったかもしれない。だが、当時の俺にはそれが我慢ならなかった。金は、すべての努力を打ち消すのだということを小学4年生の俺は学んだ。幸せは金で買えるのだ。

『資本主義国家ニッポンに生まれた金持ちが、不幸になどなるものか』

小学4年生の俺にそこまでの語彙力はなかったが、これに似た気持ちが今まで俺の心にはずっと居座っている。



それから、俺は努力した。

金がなかったから。

志望校だって、できる限り絞って受験した。

受験料を何校も払えるほどの、金がなかったから。

浪人しないように、必死で受験勉強をした。

浪人させてくれるほど、金がなかったから。

単位を落とさないよう、必死で授業を理解しようとした。

学費をもう半年や一年払えるほど、金がなかったから。

入れるだけバイトのシフトを入れてもらった。

大学生なりに欲しいものに金を出せるほど、金がなかったから。

取りに行ける範囲で、一番安い中古車を買った。

人を乗せて動かせる以外の付加価値を車につけられるほど、金がなかったから。

そんな俺は、就職先が決まってすぐに家を出た。

貧しい母親を近くで見ているのが、辛かったから。


俺は就職先に不動産屋の営業職を選んだ。金払いのいい仕事という理由のほかに、俺がドラゴンのカードを手に入れるために頑張れば頑張るほど金が貯まっていく感覚そのものに高揚感を覚えたという理由もあった。幸せを金で買うために、まず俺は金を努力で買うことにした。怠惰を求めて勤勉に行きつくようなものだった。

『お前は恵まれてていいよな』

この言葉の真意は、つい口から出てしまった俺への羨望などではない。

自分は不幸で仕方がない、努力しても改善のしようがないという諦めや自己肯定、または同情を誘う言葉でしかないのだ。俺を真に羨む気持ちなど、どこにもない。

そんなちっぽけな自己満足のためにこいつは、この瞬間、俺を利用したんだ。

たったひとことだった。

聞きようによっては、「そんなことないよ、」と笑い話で済むことだった。

でも俺は、それがどうしても、許せなかった。

なら言わせてもらうが、浪人し、両親に予備校代を出してもらい、行きもしない公立地方大学を煙に巻いた理由で両親の金で受験し、やっと受かった私立中堅大学の学費をすべて両親に出してもらい、成人しても実家に住みつき、就職浪人を失敗し、その受け皿となってしまった大学院に進学し、両親に買ってもらった新車の助手席に、付き合って5年の彼女を座らせたお前は、恵まれていないのか?こいつがいけ好かなかった理由がやっとわかった。

俺は我慢ならなかった。でも、そこで怒鳴り散らかすのは貧乏だった俺を誇示するようで不愉快だった。このあとアポがあるから先に出る、と言い残して店を出るのが、俺にできる精一杯の人間のふりだった。

高梁、お前は俺が恵まれてると言ったな。ならなってみるか?人間のふりだけやたらと上手くなっていくぞ。



俺はあの頃のように、一目散に駆け出すようなことはしなかった。その代わり、隣駅の居酒屋で酒をすこぶる飲んだ。浴びた。酒でも飲まなきゃやってられないというのはこのことだった。小学4年生だった俺も酒でも飲めてれば、あそこまで歪まなかったかもな、なんて馬鹿なことまで考えた。

千鳥足になりながら、さすがに家に帰った。「営業マンは誰に見られているかわからないのだから、外での行動に気をつけろ」という、うちの会社の社内ルールを思い出したからだ。こんなときにそんなルールを思い出す俺は社畜なのかもな。

玄関の扉を開け、台所まで行きつく。コップ一杯の水を飲み干し、俺はそのまま床に座り込んだ。冷えた床と冷たい水で体の表面と内部の温度が下がったおかげで、少し酔いも覚めてきた。それでも、高梁の「お前は恵まれてていいよな」という声が頭の中をぐるぐると回る。高梁が憎らしいと思うのと同時に、『金で幸せは買える。でも金は努力で掴める。ということは、結局努力で幸せは買える』という図式になることに、醒めた脳みそが気づいた。

俺は今不動産営業として働いて、成績はトップ。金は得た。では、なぜ金を得られた?努力したからだ。俺は客先や客になるかもわからない連中に頭を下げ、媚びへつらった。プライドが傷つくこともあったが、俺はこの行動のおかげで金が得られるなら構わない、むしろ面白いとさえ思えた。では、小学4年生の俺も含め頑張ったら金が得られることをなぜ面白いと思えた?…これに至っては、「自分がそういう性分だったから」以外に何も説明することができなかった。では、なぜそういう性分だったのか?これにはもう答えがない。「生まれつきだったから」だ。

そこまで思い至ったとき、俺は寒気がした。俺が今まで金を得られたのは、努力できたのは、「生まれつき恵まれていたから」じゃないのかと思ってしまったからだ。「ビジネスマンは『なぜ』を5回繰り返せ」と研修で習ったせいで俺は真実に辿り着いてしまったのかもしれない。

俺の家は貧乏だった。でも、衣食住に困った覚えはない。母親も愛をくれた。友達にも恵まれた。彼女ができたこともあった。以前テレビで昨今の社会問題としてネグレクトや若者の孤独といったテーマで特集が組まれていた。俺はそれらを見て感じたことは「大変な人もいるんだな」だった。そう思ったということは、俺は当事者ではなかったということだ。

はは、俺、実は恵まれてたんだな。高梁、お前の言うこと間違ってなかったみたいだ。




カーテンがひかれた2DK。ストロング缶。スウェット。

そんな部屋に、俺はいた。

俺が自分の努力で得たと思っていたものは、言ってしまえばすべて生まれつきのものだったのだ。そう気づいた途端に、俺はすべてのやる気がなくなってしまった。

だって、そうだろう?

何をやっても、何に成功しても、それはすべて俺が努力で得たものじゃない。生まれつき持ってた性分が勝手にやってくれたからだ。努力できる才能を俺が持っていただけだ。俺は案外優越感で行動するところがある。最初にそのつもりがなくても、どんどん目的が「自分が優越感を得るため」に変わってくるのだ。ドラゴンのカードのときだってそうだ。最初は俺がただ憧れたから欲しかっただけなのに、いつの間にか目的が「クラスのヒーローになる」に変わっていた。営業成績トップになったのだって、努力が金に変わる感覚が楽しかったのに「周りからすごいと思われたいから」になっていた。でも、それで得ていた優越感ですら「生まれつきの才能」で得たものでしかないのだ。それなら、俺は頑張る意味がない。

会社も行かなくなってもう1週間になる。一応体調不良ということで連絡は入れてあるが、職場に戻る日はきっと来ないだろう。

ふとスマホを見る。いろんな奴から連絡がきている。すべて見る気になれない。たくさんの通知のうち1つは、母親からのメールだった。母親は電子機器が苦手なため、未だにトークアプリではなくメールでメッセージを送ってくるのですぐわかる。

『元気にやってる?この前押し入れ整理してたら、あんたの自学ノート出てきたよ。何十冊も。いらないのはわかってるんだけど、頑張ってたから捨てられなくてねえ』

母さん、それ、俺が頑張ったんじゃないんだよ。俺の生まれつきの才能が勝手にやっただけなんだよ。


母親に弱音を吐くのはあまりに惨めだと感じた俺は、布団をかぶった。

明日は土曜だから、罪悪感なく一日中眠っていられると思った。




「あれ、お前高梁じゃねえ?成人式ぶりだな!」

「え、あ、中村か!久しぶり!元気そうだな!」

「いや~、なかなか高校時代の友達に会うことも減ったからなんか嬉しいわ~」

「確かにな~、あでも俺はこの間頼岡に会ったぜ」

「あ~頼岡とかめちゃくちゃ懐かしいな!あいつ不動産屋だっけ?」

「そうそう。でも俺さ、不動産屋でバリバリ頑張ってる頼岡がちょっと羨ましくて、嫌味言っちゃったんだよな。あんだけ勉強して一流企業入って。昔から頑張ってたよな。俺、未だにプラプラしてるくせに頑張ってる頼岡に嫌味言った自分がすげー恥ずいわ。あいつこれから先もどんどん出世していくんだろうなあ」

「あいつ、ほんと頑張ってたよな。なのに嫌味言うとかお前…」

「いや、あのあと悪りいなとは思ったよ!俺ひでえことしたと思ったから謝りたくて…。また飯行こうぜって誘ってんだけどさ、連絡こなくて」




「笹田ァ!お前ま~た契約書ミスってんぞ!何回目だよ!営業で成績残せねえなら事務作業ぐらいマトモにやれ!」

「え、間違ってました!?すいません…」

「ったく…、頼岡がいねえんだからって気ィ抜くなよ」

「すいませんすぐ直します…。ところで頼岡さんってまだ出てこれなさそうなんですかね?

「そうだなあ、最近ちょっと連絡もつかないから心配ではあるんだよなあ。あいつ最近結構頑張ってたから長期欠勤が理由でペナルティ与えるとかは別にねえから安心してほしいんだけどなあ」

「先月頼岡さんが受けた昇進試験ですけど、あれ確か受かってたんでしたよね。直接伝えてあげたいなあ。俺、頼岡さんに憧れてるんですよ。契約取ってこれない僕なんかにもなんだかんだすごく優しいですし、営業成績もトップで!僕も頼岡さんみたいになりたくて!」

「だったら契約書ぐらいミスするな!」

「わ!ごめんなさい直しますってば!」




「頼岡さん、早く戻ってこないかなあ」






*あとがき*

「努力できることも才能」とは言いますが、一概にそうとも言えないですよね。頼岡は自分が掴んだものはすべて「生まれつきの性分によるものであって、自分自身の努力の結果ではない」と感じてしまったようです。たとえ頼岡に努力できる才能というものが備わっていたとしても、努力して一流大学に入って仕事でも成績を残して…。そうそうできることではありません。しかも頼岡の周りの人はみんな頼岡の努力をちゃんと努力として評価してくれていたんですね。高梁は嫌味を言ってしまいましたが、それも頼岡がちゃんと努力しているのがわかっていたがゆえに出てしまったのでしょう。等身大の自分を認められるようになりたいですね。

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「お前は恵まれてていいよな」 三生七生(みみななみ) @miminanami

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