君を自由にしたかった

藍ねず

君を自由にしたかった

「この部屋から出てはいけない」


 なんて、低い声を合図に。


 私の意識が明瞭になる。


 白と茶色の家具しか置かれていない部屋の中で。


 霧深い森を歩いていた意識は唐突に「私」を認識し、自分が見知らぬ部屋に直立していると徐々に理解した。


 私に声を掛けたのは屈強な異形。下半身は筋肉がよくついた鹿の足、四本。上半身は人間と同じ形だが、真緑の鱗が生えている。顔は見えない。うねりのある黒髪が長く伸ばされ、異形の顔も首も、上半身の一部も隠してしまっているから。


 私は、異形の丸い頭に生えた四本の角を見上げていた。


「何も聞かず、ここにいてくれ」


 そう言い残した異形はたった一つの扉を閉めてしまった。部屋は暗くならないようにランプが多く置かれ、青空が見える窓もある。しかし近づいてみれば、内開きの窓は壁に接着していた。空かと思ったのは絵である。上手いな。


 何度も瞬きを繰り返すうちに意識が輪郭を取り戻してくる。けれども、この部屋に来るまでに何があったのかはとんと思い出せない。なんなら自分が誰なのかも分からない。名前も生まれも。私って誰だ?


 着ているワンピースは白に金の刺しゅうが入って上品なイメージ。両足首には金のアンクレットをつけている。飾りもついているので、歩く度にしゃらしゃらと音がする装飾品だ。それ以外は特にこれといった物を身に付けていないっぽい。


 部屋の隅を覆うように閉じられたカーテンを開くと、お手洗いとシャワーが備え付けられていた。なんとも簡易的で心許ないけど、異形が閉めた扉は外から何重にも鍵がかけられる音がしていた。だから、まぁ、覗かれたりすることはないんだろう。


 物や家具の名前は分かる。これはカーテン。あれはベッド。それは窓。使い方も分かる。


 でも、私は私を思い出せない。


 私は誰だっけ。どうしてここにいるんだっけ。


 何も、思い出せないな。


 綿がふんだんに使われたベッドに仰向けに倒れ、白い天井を見上げる。木のぬくもりがあるチェストには着替えが揃っていた。あの異形が準備したのだろうか。金の刺しゅうは施されていない、簡素な白いワンピースばかり。


 どうして私はここにいるんだろう。どうして私はここに連れて来られたんだろう。


 無駄だとは分かりつつ、異形が閉めた扉を一応押したり引いたり、横に動かしたりしてみる。勿論のこと開くことはなく、私は再びベッドに倒れ込んだ。今度はうつ伏せで。


 薄い小麦色の髪が視界を埋める。指を通すとするすると落ちていった。指通りがいいな。これ、私の髪なのか。


 ふと、私は自分の顔が思い出せないと気が付いた。肌の色は手を見れば分かる。白い。頬の膨らみ具合や鼻の高さは触れることで想像できる。しかし実際の顔は分からない。睫毛の長さも目の色も、何も思い出せないから。


 この部屋には鏡がなかった。私を映してくれる物がなかった。


 ランプの光を透かした小麦色の毛先を、視線でなぞる。


 私の目も、この髪と同じ色をしているのだろうか。


 ***


 ここに連れて来られて何日経ったのか。青空の絵が描かれた窓では分からず、時間経過を教えてくれるのはランプだけだった。


 部屋中を照らしている幾つものランプは、時間と共にその明かりを弱めていく。初日は溜められた魔力が減ってきたのかと手をかざしかけたが、アンクレットの飾りが音を立てたので動くのをやめた。


 真っ暗になった部屋の中では目を閉じることしかできない。そうすれば肌と耳が鋭敏になり、木製の家具が息をしているような空気を拾うことが出来た。気づけば意識も微睡んでいたので、私はなかなか順応性があるらしい。


 次に瞼を照らしたのは、やはりランプの明かりだった。


 徐々に日が昇るように光を強め、連れて来られた時と同じ光量になる。光につられた私は目を覚まし、物の少ない部屋で息を吐いた。


 ランプが教えてくれる一日の始まりと終わり。


 その間に、毎日三回、異形がやって来た。


 料理を乗せた木製のお盆を手に持って。


「どうぞ」


 異形は決して部屋に入らない。外から届く距離にある丸いテーブルにお盆を置き、私の方へ顔を向けたまま立っている。私はアンクレットの飾りをしゃらしゃらと鳴らしながらテーブルへ近づき、ふかふかのパンと、艶めく果実と、湯気立つスープにお腹を鳴らした。


 椅子に座って食事をしている間、異形は開けた扉を塞ぐ位置に立っている。外の天気も気温も分からないので、ここは地下なのだろうか。ランプが無ければ真っ暗になってしまうし。と思ったのは最近である。


 外の音が聞こえない。私がスープをすする音だけが耳につく。それでも、私はこの無音を恐れていなかった。


「静かすぎるか」


 異形に問われても、首を横に振った。静かすぎることなんてない。これくらいが私にはちょうどいい。今までは周りがうるさすぎた、か、ら?


 パンを千切った手を見下ろす。何度か瞬きを繰り返してから異形に視線を送れば、今日も黒い髪で表情は確認できなかった。


「不便はないか」


 また問われた。不便だと感じている点は今の所ない。毎日決まった時間に食事して、準備された本で時間を潰し、ランプが弱くなってきたらシャワーを浴びて寝る。それだけの日々だ。


「なにか欲しい物はあるか」


 などと聞かれても、私は何も思い浮かべることができない。首を傾けながらパンを咀嚼していたが、仄かな口内の甘さ以上に望むものがあるだろうか。


 私はいつも首を横に振る。異形に何を問われても。この静寂のままでいい、何も不便はない、これ以上求めるものはない。


 そうすれば、異形はいつも最後に黙ってしまう。かの異形が黙ってしまえば部屋には再び静けさが広がり、私の喉が水を胃へと落とした。


「いまの君は、幸せか」


 ある日、いつもと同じ食事をしていると、異形は私の方へ少しだけ体も向けた。私も異形へ両目を向け、食事の動作を止める。


 幸せ、と問われても。なんと答えればいいのか。というよりも、私はこの部屋に来てから一言も発していないのではなかろうか。


 ふと気づいた事実に喉を触ってしまう。そうすれば異形の蹄が微かに音を立て、部屋と外の境界線を踏んだ。


「喉が、痛むか」


 首を横に振る。自分が暫く喋っていないと思い出しただけなのだ。それを伝えようと口を開きかけたが、喉が強張ってしまった。


 声を出そうとすれば喉に蓋が落ちた感覚になる。声の出し方ってどうだっけ。なんでこんなに息がしづらいんだっけ。


 喉を触っていた手を胸元に下ろして、服に皺が入るほど握り締める。自然と顎を引いて目を瞑れば、頭の奥底で針が生まれるような痛みが響いた。


 額から汗が滲む。呼吸の仕方を思い出すには、眩暈の始まった視界はうるさすぎる。手が細かく震えるのは、酸素が足りないせいだろうか。


「すまない」


 影がさす。ランプの光を遮って。


 久しぶりに自分以外の体温を感じたかと思えば、目の前には異形が立っていた。


 決してこの部屋には入らなかった存在が、私の前に四本の足を折ってしゃがんでいる。その体勢になっても頭は私より高い位置にあって、鱗の生えた両手が私の両頬の近くで彷徨っていた。


「苦しめる質問をするつもりはなかった。思い出さなくていい。食事に戻っていい。だからどうか、苦しまないでくれ」


 低い異形の声に促され、私の顎が上がる。そうすることで気道の確保が出来たのだろう。ほぼ正面にある異形の顔部分を凝視しながら深呼吸をすれば、少しずつ鼓動が落ち着いていった。


 瞼を閉じて額の汗を拭う。曲がっていた背中を伸ばせば、異形と頭の高さが揃った。


 宙で惑っていた鱗の手が下ろされる。そのまま足音もなく境界線の外へと移動した異形は、扉の持ち手を握った。


「また、次の食事の時に来る」


 扉が閉められる。何重にも鍵がかけられる音がして、一人の空間に戻される。


 残っていたスープを口にしたが、既に冷めてしまっていた。


 ***


 あれ以降、異形は変わらず境界線の外に居続けた。私との距離を詰める様子は見られない。私に質問することもなくなって、食事がちょっとだけ味気ない。


 私は一人でいる時に喋ろうとしてみたが、動悸がして駄目だった。内臓も細胞も、全部が喋ることを拒否しているようだったから。


 どうして私はこんな状況に陥っているのか。アンクレットをしゃらしゃら鳴らしても分からない。ちなみにこのアンクレット、外し方が分からず、この部屋にやって来た時からつけっぱなしである。水に強い素材のようだからいいけどさ。


 私は誰なんだろう。私はどうしてここにいるんだろう。あの異形はなんなんだろう。


 ベッドに寝転がっていても思い出せない。ランプの光は徐々に弱くなり、完全に消えたので眠る時間だ。


 布団を被った私は目を閉じるが、疲れていないのでいつも入眠には時間がかかる。目を閉じてさえいればいつか眠れるのだが、今日はいつにも増して時間がかかりそうだった。


 瞼を開けても閉じても真っ暗闇。音ひとつしない空間。普通はこんな空間には耐えきれないのだろうか。私はこの静けさに体の力が抜けるのだけど。


 明日、異形が来たら、少し体を動かせるようにしたいと告げてみようか。喋れるかは分からないけど、文字は覚えている。部屋の中でいいからちょっとした遊び道具でも欲しい。


 何があれば体を動かせるか、目を閉じて、考えて、どれ程の時間を消費したか。


 不意に、扉が開く感覚がした。音はしない。空気の動きで察してしまった。


 思わず寝たふりを決め込めば、やはり空気の動きだけを肌が拾う。閉められた扉。足音を立てないように近づいて来る気配。ベッド脇に佇む、大きな影。


 目を開けなくても分かる。あの異形だ。私をこの部屋に連れてきて、食事を運んで来る、異形だ。


 鼻が微かに鉄の混じった匂いを嗅ぐ。目を開けかけたのをぐっと堪えたところで、異形がベッドの傍に膝をつく動きを感じた。


「今日も、君に安眠を」


 それはまるで、天へ捧げる祈りのように。


「君が歌わなくていい明日を」


 懇願する声には震えが混ざっている。


「本当の幸せまで、もう少しだけ、待っていてくれ」


 それは謝罪か、告解か。


 聞いた方がいいのか、聞かないふりをした方がいいのか。


 強くなった鉄混じりの香りに気づいた方がいいのか、気づかないままがいいのか。


 私はどうすればいいのだろう。どうしてあげるのが正解なんだろう。


 自分では答えが出せず、目を閉じたままでいることを正解とした。


 真っ暗闇の中、異形はしばらくベッドの傍に座っていた。何分居座ったのかは分からない。この部屋には時計がないから。自分が何回息を吸って吐いたかも分からない。


 気づけば意識がふわふわしてきて、瞼を透かすランプで起きた時には、異形は部屋にいなかった。


 匂いも痕跡も何も残っていない。あの気配は夢だったのかもしれない。寝付けないと思っていた私が見た、どうしようもない夢。


 それでも、そう思いきれない自分がいたから、今日異形が来た時に聞いてみると決めた。


 毎晩様子を見に来ているのか。君は何を知っているのか。どうして、怪我をしていたのか。


 どうせ明日も明後日もその次も、同じ日々が続くのだ。少しだけ変化をつけたっていいだろう。異形が教えてくれなければそれまでだ。


 私は食事が運ばれてくるより先に椅子へ腰かける。いつもは異形が扉を開けてから近づくようにしているのだが、今日はこちらが先手を取ってみた。いつもと違う動きをしていると、異形は驚くだろうか。


 あの大きな肩がびくつく様子を浮かべて、鼻で笑ってしまう。


 少し高めの椅子で、足を揺らして待っていよう。昼間は怪我をしている様子など一度も見たことがない、というより感じたことがないから、昨晩の香りはたまたまだろうか。そうだといいな。


 足を揺らせばしゃらしゃらと音がする。私が動く度に音がする。それがなんだか耳につくので、足を止めて、いつもの静寂の部屋に戻しておいた。


 そろそろ異形は来るだろうか。もう来るだろうか。今日も朝ご飯はいつも通りのメニューだろうか。


 色々と考えながら待って、待って、待った……のだが。


 待てども待てども異形はやって来ず、私はまた足先を揺らしてしまった。


 変わらない青空が嵌った窓。正確な時間を教えてくれないランプ。いつも通りの服を着た、記憶のない私。


 部屋の中を歩いてみた。そういえば、脱いだ服は毎朝無くなっているし、チェストに入っている服が足りなくなったこともない。やはり昨晩のことは夢ではなく、異形は夜中に私の身の回りを整えてくれているのだろう。


 今までぼんやりしていて気づかなかった。起きていた筈なのに、この無機質な部屋の中のことすらちゃんと把握できていなかった。


 部屋を一周して、二周して、三周したところでお腹が鳴る。腹部を摩ってランプを見たが、やはり時間は分からない。


 私は机に置かれている水差しからコップへ水を注ぎ、冷たい飲み物を口にした。そういえば、これも毎朝いっぱいに入れ直されているんだった。


 今更気づくことが多すぎて、今更聞きたいことが増えてしまう。


 異形はいつ来るだろう。いつ来てくれるだろう。


 しかし、どうして、なぜか。


 どれだけ待っても、異形が来ない。


 腹の虫は何度か鳴き、水で誤魔化していたが口寂しい。


 歩く度にしゃらしゃらと音が鳴るのが不快に思えたのは、空腹のせいだろうか。


 異形に見捨てられたら、私はここで餓死するのかな。


 いつも食事が置かれる席に戻り、水の入ったコップを握る。木製のコップは割れる素振りなどなく、私の唇は勝手に曲がった。


 胸の奥に靄がかかる。靄がかかってモヤモヤして、踵で椅子の足を蹴ったら自分の方が痛かった。


 机に頬をひっつけて上体を倒す。お腹が空いた。


 いつもあの扉を開けてくれる異形は、どうして今日は現れてくれないのか。


 足を揺らせばアンクレットが鳴る。不快だ。今までこの音を、ここまで不快だと感じたことはない。


 しゃらしゃらとした音が頭の奥で木霊する。足を動かすたびに音がして、私が動けば音がして。これではかくれんぼだって出来やしない。


 私は開かない扉へ目を向ける。何個もついているであろう鍵を開けて、ゆっくり扉を開けてくれる異形は、まだ――


「――だ!!」


 不意に。


「とび――ある!!」


 扉の外から声がした。


 同時に、私の頭に痛みが走った。


 ズキン、ズキンと小さな痛みが急速に育っていく。


 扉が勢いよく叩かれた。扉が震えた。部屋が振動した。鍵が壊されていく音がした。


 頭の奥に埋まった針がどんどん育つ。私の意識を内側から刺して、刺激して、考えることをやめさせようとしてくる。


 何の音、これはいったい何の音。


 外にいるのは誰。誰がいるの。異形じゃない。あの異形は、こんな音で、私を驚かせたりしないから。


 耳の奥で誰かが歌っている。この声は誰のもの。


 その歌をやめて。どうか歌わないで。もう、歌わせないで。


 ズキン、ズキン、ズキンと痛んで。


 扉が外から壊される。


 部屋のランプが一斉に消えて、吹き込んで来た風はきな臭い。


 静かだった部屋を踏み荒らしたのは、鎧を着た男達。その先頭に立っていた金髪の彼の顔に見覚えがあって、私の脳みそが尖りを覚えた。


 黄金の瞳と目が合った。正義を掲げた瞳に映された。


 それが私に、吐き気を思い出させる。


「あぁ、やっと見つけましたよ! 我らの!」


 先頭の男の声を皮切りに、修道服を着た者達に囲まれる。腕を掴まれ担がれて、荒らされた部屋から外へ運ばれる。


 鼻は焦げた空気を吸い、ここが森の奥の洞窟の、深い地下に位置していたと初めて知った。


 久しぶりに見た太陽が目の奥を焼いた。燃えて斬られた芝や木々に胸を刺される思いがした。首を狩られた動物達に鳥肌が立った。


 洞窟の前に倒れているのは、何本もの槍で体を貫かれた、血みどろの異形。


 分厚い体を兵士に踏まれ、首に縄をかけられている。鱗の指先は切り落とされ、息をしているのかも分からない。


「見てはいけません。あんなおぞましい存在」


 修道服に視界を覆われ、その瞬間に体の熱が一気に上がった。どうして私が見るものを貴方が決めるの。どうして私の視線を貴方が勝手に遮るの。


 熱で震えた私の腕は、自分を抱えた者達の顎や顔を殴りつけ、体を蹴って、拘束がなくなった隙に芝生を踏んだ。


 誰も私を抱えないで。誰も私を掴まえないで。


 誰にも私は、捕まりたくないの。


 数多の手を避けて異形に駆け寄る。咄嗟に動いた兵士の腕を躱して、抱き締めた異形の体はなまぬるい。


 いつも静かに歩いてくれた四本の足。それらは矢に射られ、立とうと藻掻く様子が窺えた。


 いつも食事を運んでくれた二本の腕は、鱗が剥がれて切り傷だらけ。


 体に深々と刺さった槍は異形の内臓を傷つけているだろう。折れた角は芝に落ちて転がっていた。


 重たい頭をなんとか肩に乗せ、周囲の声には決して耳を傾けない。こんなにうるさくて、こんなに私の頭を痛ませる音に、傾けてやる耳など無い。


「汚れてしまいます」「どうか離れて」「帰りましょう」「貴方の歌を待つ者達が大勢いるのです」「どうか癒しを」「祝福を」「歌ってください、民のために」「歌いましょう、勇者のために」「貴方の声を」「皆が求めています」「だから帰りましょう」「迎えに来たのです」「悪しき異形は討ちました」「聖女様」「聖女様」


「聖女様」


 濁流のように押し寄せる声に頭の痛みが強くなる。意識の霧が深くなって、私を隠そうと広がりを見せる。


 やめて、やめて、私をそっちへ連れて行かないで。


 思い出したくない。思い出したくない。思い出せないままがいい。


 私は、私は、ッ


「このこは、じゆうだ」


 私を覆いかけていた霧に、切れ目が入る。


 いつも問いかけてくれた声が、私の痛みを弱めてくれる。


「うたうだけの、存在じゃ……ない。癒すための、どうぐでも、しょうひんでも……奴隷でも、ないんだ」


 金切り声がした。罵倒が響いた。でも、それらを私は拾わない。


 私の後頭部を撫でてくれた、鱗の手が、多くの声を遮ってくれたから。


「すまない……もっと、きれいにしてから……だしてあげたか、た」


 なまぬるい異形の体が力を込めたと感じる。


 筋肉が盛り上がり、傷だらけの足で立ち、私には折れた角を持たせてくれた。


「いってくれ」


 体を押される。行けと、行けと、背中が言ってる。


 静寂を踏み荒らした人間達の前に立ち、まだ息をしていた動物達を引きつれて。


 多くの罵声を浴びる異形は地面を蹄で蹴り、周囲の植物が一気に成長した。


 それは、私と人間を隔てる柵のように。


 私と異形を引き離す壁として。


「生きてくれ」


 言葉が私の背中を押して、走らせる。


 道も分からない森の中。方角も分からない森の中。


 振り返ってはいけない。


 振り返ってはいけない。


 振り返ってはいけない。


 そう分かっていても、私は少しだけ、振り返ってしまって。


 遠くなった植物の壁の隙間、ツルや芝で縫われた柵の向こうで。


 金の髪の男が、異形の首を落とす瞬間を、目に焼き付けた。


 ***


 とある国で聖女と呼ばれていた人間がいたらしい。


 その美声はどんな傷も癒し、どんな病も治し、教会には常に歌声が響いていたのだという。


 人間以外の生き物を悪とした勇者達が戦えるよう、いつも歌って見送った聖女。

 傾きかけていた教会を再建できるほどに、人々を集めた聖女。

 聖女としてその声を見出されてしまった、小さな村の孤児。


 忘れた私はあらゆる情報を拾った。木々の葉で髪を染め、太陽の下で肌を焼き、誰かが落とした上着の下に異形の角を隠し持って。森を抜け、村に立ち寄り、町を歩いて、都市を視界に入れながら。


 都市では一時期、夜ごとに異形が暴れていると噂立っていたとも、耳にして。


 上着のフードの下から都市を見る。中央に立派に構えられた教会を確認する。


 そこには人々が集まっており、私を追い越して歩いた人の声が頭に入ってきた。


「聞いたか、新しい聖女様がみつかったそうだ」「この傷を治してくれるだろうか」「これだけ金があれば一節くらいは歌ってくれるだろう」


 教会へ歩いていく人の背中から視線を外す。


 歓声と拍手と共に、教会から出てきた金髪の男の一行を見る。


 私は上着から異形の角を出した。


 石で研いだ角の先は鋭利な刃になっている。


 もう、あの温かなスープは飲めないから。

 もう、あの不器用な質問は与えられないから。


 私は力強く角を振り上げ、まずは自分のアンクレットを、破壊した。

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君を自由にしたかった 藍ねず @oreta-sin

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