右手の痣(あざ)7

「待って、まだ行かないで!!」


 不意に後ろから声が聞こえた。法眼と政家が振り返ると、そこには泣きそうな顔の紫苑がいた。紫苑の隣には、時子が寄り添っている。

 紫苑には政家の姿も見えないし声も聞こえないはずだが、事情を理解しているようだ。時子が政家の言葉を伝えているのだろう。時子には、人ならざる者の存在を認識する能力がある。


「まだいなくならないで下さい! 父上に伝えたい事が沢山あるんです。……時子様の側に仕えるようになってから、和歌や漢文の書物を読ませてもらったり、宮中の噂話をしたりして、楽しい日々を過ごしています。養子ですが、子供もできました。牡丹は、真面目で可愛い、私にはもったいない程の子供です。……あの時私を助けてくれてありがとう。私をこんな幸せな人間にさせてくれてありがとう。あなたが父親で良かった。あなたに会えて良かった。ずっとずっと、父上の事が大好きです……!」


 紫苑は、涙を浮かべながら言葉を紡いだ。紫苑の言葉を聞いた政家は、穏やかな笑顔で言った。


「私も、お前が娘で良かったと思っているよ。……これからも幸せにな」


 そして、政家の気配は完全に無くなった。



「……紫苑。政家様は黄泉の国に行ってしまわれた。お前が娘で良かったと言っていたぞ」


 法眼の言葉を聞いて、紫苑はぼろぼろ涙を零した。


「……父上、父上……」


紫苑の鳴き声が、夜空に響いていた。



 翌朝、紫苑達は都に戻る為に屋敷の外に出た。茂子と家信が表まで見送りに出て来ている。


「……紫苑、元気でね。忙しいかもしれないけど、たまには文を頂戴」

「はい、母上もお元気で」


 茂子の言葉に、紫苑が微笑んで応える。


「家信、あなたは紫苑に何か言う事は無いの?」


 茂子に促され、家信が無表情のまま紫苑の方を見る。


「……私はお前が辛い目に遭っている時に優しい言葉の一つもかけられない不甲斐ない兄だが、お前の事を大切な妹だと思っている。……元気でな」

「はい! 兄上もお元気で」


 紫苑は、満面の笑みで答えた。

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