右手の痣(あざ)2
紫苑は、赤子の頃に親に捨てられ、寺に預けられた。成長するにつれて自分に親がいない事を寂しく思う事もあったが、寺には他にも同じような境遇の子供達がいたので、それなりに楽しい日々を過ごしていた。
紫苑が六歳の時、寺にとある夫婦が訪れた。夫は
そんなある日、政家が穏やかな笑顔で紫苑に言った。
「……紫苑、お前、私達の子にならないか?」
「え……?」
紫苑は、何故自分が望まれているのか分からなかった。紫苑は勉学の飲み込みが早いと褒められていたが、紫苑より優秀な子供もいたし、器量もそんなに良くはない。
「……私で良いのですか?」
「ああ……お前が良いんだ」
その言葉を聞くと、紫苑は涙を浮かべて言った。
「ありがとうございます……私を、政家様の娘にして下さい」
こうして、紫苑は鎌田家に迎えられた。鎌田家には、
「兄上、何を読んでいるのですか?」
「この国の歴史について書かれたものだ。……お前も鎌田家の子になったのだから、和歌の勉強でもしたらどうだ。……まあ、父上はただの文官だから、勉強したからと言って貴族のような生活は出来ないかもしれないが」
家信は、書物から目を離す事もなく紫苑にそう言った。素っ気ない態度だったが、紫苑は知っている。家信は、紫苑が将来困らないよう、今から勉強して欲しいと思っているのだ。なんだかんだ言って、紫苑を妹として大切に思ってくれている。
「分かりました、兄上。私、勉強を頑張ります!」
紫苑は、笑顔で応えた。
それから、紫苑は和歌の勉強に勤しんだ。和歌の書物を読むのは楽しく、書庫にある書物を読み漁った。それだけではなく、裁縫や楽器の稽古など、女性が嗜むべき事に真剣に取り組んだ。
そして月日は流れ、紫苑は八歳になった。紫苑は和歌と楽器の演奏が得意な少女へと成長し、家信も将来貴族になるだろうと言われる程優秀な少年に成長した。
ある日の朝、紫苑は川に出掛けた。川原に咲く花を摘み、部屋に飾ろうと思ったのだ。
「あ、あった」
川のすぐ側で綺麗な白い花を見つけ、紫苑は屈んだ。
「危ない!」
遠くでそう叫ぶ声が聞こえた瞬間、紫苑は体勢を崩し、川の中に落ちた。
「た、助け……」
声にならない声を出しながら、紫苑の身体は水の中に沈んで言った。意識を失う直前、紫苑は誰かに身体を抱えられた気がした。
「……紫苑、目が覚めたのね!」
紫苑が目を覚ますと、目の前には心配そうに紫苑を見つめる母親と兄の姿があった。どうやら、ここは屋敷にある寝室のようだ。
「……私……川に落ちたのですよね……助かった……のですか……?」
「ええ、あなたは助かったのよ……」
母親の茂子が、優しい顔で紫苑に話し掛ける。
紫苑が横になったまま辺りを見回すと、もう外は暗いようだった。
「……心配させてしまい、申し訳ございません。……そう言えば、父上は私が川に落ちた事を知っているのですか?」
紫苑が問い掛けると、部屋に沈黙が流れた。そして、茂子は苦し気な顔をして答えた。
「……あのね、紫苑。落ち着いて聞いて欲しいのだけど、お父様は……亡くなったわ」
「え……」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「どういう事ですか? 父上が亡くなったって……」
困惑する紫苑。茂子は、言いにくそうにしながらも答えた。
「川で溺れているあなたを助けたのは……お父様なの。それで、あなたを助けた後、あの人は溺れて……」
「そんな……」
では、あの「危ない!」という声は、政家のものだったのか……。理解した途端、紫苑の身体は震えた。自分が川に近付いたせいで。花を摘もうとしたせいで、政家は亡くなった。
「あ……ああ……うあああああ……!!」
紫苑は、ただ叫ぶしか出来なかった。
その後、紫苑の体は回復し、また書物を読んだり裁縫をしたりする日々が訪れた。しかし、紫苑が以前のように笑う事は無く、ただ生きているだけの日々が過ぎて行った。
それでも時の流れは紫苑の心の痛みを鈍くしていき、紫苑が十六で芦原家に仕えるようになると、少しだけ時子に微笑む事もあった。
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