右手の痣(あざ)1

 ある日の朝、時子の部屋を牡丹が訪れていた。以前黒いもやまとっていたその少女は、今は梅重うめがさね色の綺麗な衣を纏っている。

 牡丹は、真剣な表情で机に向かい、筆を走らせていた。


「そうそう、上手よ」


 時子が、牡丹の書いた文字を見ながら微笑んで言う。今、時子は牡丹に読み書きを教えているのだ。側にいる侍女の紫苑も穏やかな表情をしている。


 牡丹が紫苑の養子になって二十日程経つが、今の所二人は上手くやっているらしい。本当は紫苑が牡丹に読み書きを教えても良いのだが、牡丹は好奇心旺盛で、言葉の使い方や語源まで聞いてくる。

そうなると、紫苑では対応が難しくなる為、時子が読み書きを教える事になったのだ。


「そろそろ休憩しては如何ですか?お茶をお持ちしますね」


 紫苑が立ち上がって部屋を出て行く。二人きりになると、時子は牡丹に聞いた。


「牡丹、紫苑はあなたに良くしてくれていますか?」

「はい。あの方は私の体調が悪いと気遣ってくれますし、貴族の礼儀作法も私に会わせてゆっくり教えて下さっています」

「そう……良かった」


 時子は、穏やかに微笑んだ。


「お待たせ致しました」


 紫苑が部屋に戻って来た。紫苑は、三人分のお茶を折敷おしきに乗せていた。

 時子と牡丹がお茶を手に取った後、紫苑もお茶を手に取ろうとしたが、茶碗が紫苑の手から滑り落ち、熱いお茶が床を濡らした。


「ああ、大丈夫?紫苑」


 時子が慌てて、近くにあった布で濡れた床拭く。しかし、時子が床を拭いている間も、紫苑が動く気配が無い。


「……紫苑?」


 時子が不審そうに紫苑の方を見ると、紫苑は驚愕の表情を浮かべて、自身の右手を見ていた。


「どうしたの?紫苑」


 時子が聞くと、紫苑は震える声で呟いた。


「……右腕が……全く動かないのです……」

「え……」


 見ると、紫苑の右腕がだらりと垂れ下がっている。そして、紫苑の右手の甲には、赤黒い痣が出来ていた。その痣は、蝶の形に見えた。


              ◆ ◆ ◆


「成程……右腕が……」


 紫苑の身に異変が起きた二日後の朝、鬼ヶ原神社で加茂光明が難しい顔をして呟いた。今、鬼ヶ原神社には時子、紫苑、牡丹、法眼、光明の五人がいる。


「はい……昨日医師に診てもらったのですが、原因が分からないとの事で……」


 紫苑が、目を伏せながら言う。


「それで、先生に相談する事にしたと……それは良いが、何故皆当然のようにこの神社に集まっているんだ」


 法眼が腕組みをしながら聞くと、光明が微笑んで言った。


「それは、紫苑殿の病の原因が呪いだった場合、お前に治療を手伝ってもらうつもりだからです」

「……ああ、うん。そうじゃないかとは思っていた」


 法眼は、溜め息を吐いて頷いた。


「それで、病の原因はお分かりになりますか? 光明様」


 時子が、心配そうな顔で聞いた。光明は、目を細めて紫苑の方をじっと見つめた。


「……呪いの気配がしますが、まだ呪いが強くない為、詳しい事は分かりません。何か情報が欲しいところですね。……紫苑殿、このような事を聞くのは心苦しいのですが、何か人の恨みを買うような事に心当たりは?」


 紫苑は、苦しげな表情で自身の右手に出来た痣を見つめて答えた。


「……一つだけ、心当たりがございます」

「詳しく聞いても?」


 左手をぎゅっと握り、紫苑は言った。


「はい、私は子供の頃……人を死なせたのです」

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