黒い靄(もや)1

 良く晴れた日、時子は父親である芦原時長の部屋を訪れていた。


「父上、お体の具合はいかがですか」

「ああ、だいぶ良くなってきたよ。屋敷の中を歩き回れる位には」


 時長は、優しい顔で微笑んだ。


 毒を盛られた事件が解決してから半月が経った。まだ登庁は無理なようだが、穏やかな日々を送っている。時長の見舞いに来る者も多く、時長の人望の厚さを物語っている。


「失礼致します。時長様にお客様がお見えです」


 時長の従者が声を掛けてきた。


「どなたかな」

橘直通たちばななおみち様でございます」

「お通ししなさい」


 直通は、芦原家の親戚筋に当たり、時子より二歳年上の十九歳。昔から時子と付き合いがあり、幼い頃はよく一緒に遊んだ。


 部屋に入ると、直通は礼儀正しく挨拶をした。髪をきっちりと整えており、青藍せいらん色の着物の着こなしにも隙が無い。


「時長様、お加減はいかがですか」

「良くなってきているよ、ありがとう」


 時長と直通はしばらく仕事の話をしていた。直通は優秀で、若くして宮中の行事を取り仕切る事もあった。


「長居をし過ぎましたね、思ったよりお元気そうで良かったです。それでは、失礼致します」


 そう言うと、直通は立ち上がった。時子も、直通を門まで見送る為に立ち上がった。



「済まなかったな」


 門までの道すがら、直通は時子に謝った。


「何故謝るのです?」

「私はつい先日まで仕事で都を離れていた。仕事には私が信頼する陰陽師も同行させていた。加茂光明かものこうめい、お前も会った事があるだろう?同行させていなければ、彼に時長様の体を診て貰えていたかもしれない」

「謝るような事ではありません。……相変わらず、律儀な方ね」


 時子はフフと笑った。時子と別れる際、直通は時子に聞こえないように呟いた。


「そう見せているのは時子の前だけかもしれないがな」



 翌日、時子は侍女の紫苑しおんと共に町に出掛けた。商人を屋敷に呼んでも良いが、店に並んだ実物を見て買い物をしたかった。

 牛車に乗って、御簾の隙間から外の景色を眺めていると、時子の目に一人の少女が映った。


「止めて!」

「どうされたのですか?」


 紫苑の疑問に答えず、止まった牛車から時子は飛び降り、駆け出して行った。


「待って、あなた!」


 時子は少女に話しかけた。


 振り向いた少女は、まだあどけない顔をしている。七、八歳くらいだろうか。少女は、ぼさぼさの髪を背中まで垂らし、みすぼらしい草色の着物を着ていた。


「えっと……急に呼び止めてごめんなさい。あなたのお名前は?」


 時子が聞くと、少女は戸惑いながら答えた。


「……牡丹ぼたん


 名前を聞いたものの、時子は次に何と言ったら良いのかわからなかった。とりあえず、言葉を紡ぐ。


「変な事を聞くようだけど、最近、あなたやあなたの周りで変わった事は無かったかしら。例えば、体の調子が悪くなったりとか、不幸が続いたりとか……」

「……別に、いつもと変わった事は……」


「この子が何か致しましたか」


 少女の保護者と思われる女性が慌てて駆けてきた。商人のようだ。彼女は浅葱と名乗った。


「申し訳ございません。この子は親を亡くしており、親戚筋の私が引き取ったのですが、躾が行き届いてないところがございまして……」

「いいえ、そんな、この子が悪さをしたとかではないのです。その……そう、私の親戚の子供の遊び相手を探していまして。私の周りには、その子と同年代の子供がいないのです。それで、今たまたまそこにいる牡丹を見かけまして。牡丹は顔立ちもかわいいし、遊び相手に良いのではないかと声を掛けた次第でして……」


 真っ赤な嘘である。牡丹はよく見れば整った顔立ちをしているが、みすぼらしい身なりもあり、遠目にはそうは見えない。苦しい言い訳だと思ったが、時子に追いついていた紫苑は何も言わない。賢くて気が利く娘なのだ。


「しかし、この子にも仕事をしてもらわないと生活していけません」


 浅葱は困ったように話した。それを聞いて、時子が提案した。


「そうですか、では……この子を私が雇うというのはどうでしょう」

「雇う……ですか?」

「ええ、夕刻までの時間、これくらいの報酬で」


 時子は、懐から銅銭を何枚か取り出した。


「こ、こんなに……」


 浅葱は目を丸くした。


「わ、わかりました。どうぞこの子を使ってやって下さい」


 そうして、時子は牡丹の手を引いて牛車に乗せた。紫苑を含めて三人を乗せた牛車は、町を後にした。


「買い物は、中止という事で宜しいですか、時子様」

「ええ、そうね……。紫苑、悪いけど、もう少し私に付き合って」


 そう答えて、時子はちらりと牡丹を見た。牡丹は、無言で外の景色を眺めている。


 牡丹が時子の目に留まった理由は、牡丹がかわいいからでもみすぼらしい服装をしているからでもない。


――牡丹の周りに、黒いもやのようなものが見えたからだ。


 そして、それは、他の誰にも見えないようだった。

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