残り香

 ようやく残暑も去り秋が深まったかと思えば、瞬く間に冬の風が肌を粟立たせるようになった十二月。俺は冷気の棘に突き刺されながら、大学の屋上の喫煙所で煙草を吸っていた。ほったらかしにしていた就職活動をそろそろ再開しないと、とぼんやり思っていた時。

 俺のスマホに飛び込んできたメッセージは、俺の思考までも凍てつかせた。


『別れよっか』


 動揺のあまり手に持つものを取り落とすということが実際にあるのだと、俺はその時初めて知った。指に挟んでいた煙草は俺の手を離れ、ズボンに焦げ穴を作って地面に落ちた。

 俺は震える指先で電話の発信ボタンを押したが、すぐに電話を切られ彼女に繋がることはなかった。

 呆然とスマホの画面を眺めているうちに、彼女から次々とメッセージが送られてきた。


『ごめん、もう好きじゃないみたい』

『■■くんと話す時、ずっと私から喋ってたよね。電話もそう。君からかけてくれたことって何度あった?』

『君って根本的に受動的で、他人との関係の矢印がぜんぶ相手から自分向きなんだよ』

『■■くん自身はそんなことないって思うだろうけど、結局のところ君は自分しか見てないんだよ』

『自分の気持ち、自分が思ってるだけじゃ意味無いから。表に出さないと伝わらないから』

『好きって何度言ってくれた?私に合わせるんじゃなくて、自分がやりたいことっていつ聞かせてくれた?』

『そういう引っ込み思案なところ、我慢してたけど合わなかった』

『ごめんね』


 俺は何を打ち込めばいいのかわからず、支離滅裂な文章の羅列を送っていった。しかし「なんで」だとか「待って」だとか「ごめん」だとかが含まれた拙いメッセージの群れは、ひとつとして既読が付くことはなかった。


「よお、やめてやれよ」


 唐突に、誰かが後ろから俺の肩に腕を回した。俺は驚きで体を跳ねさせたが、その動きさえ男の筋肉質な腕に抑え込まれたようだった。

 俺はおそるおそる横を向いた。その金髪の男には、ぼんやりと見覚えがあった。確か先月、大学で彼女と話していたような。


「オレ、その子の友達なんだけどさあ、あいつ困ってるわけよ。君のせいでさ」


「ずっと言ってたよ?君がつまんねえ奴で別れたいって。今日別れるって言うからさ、君が変なこと考えないようにオレからもガツンと言ってやるって話したんだよ」


 男は右腕を俺の肩に回したまま左手でポケットから煙草の箱を取り出すと、一本だけ親指でスライドさせ口に咥えた。俺や彼女と同じ煙草だった。

 男は煙草に火を点け、言葉を続けた。


「10月の終わりくらいだったかなあ。初めに愚痴を聞いたの。君、あいつの変化に気づかなかった?」


 確かに会う頻度は減った。だが、それは彼女が就職活動を始めたからだと。


「就活?ははは!あいつリクルートスーツだって買ってないよ?そりゃオレと会う時間を作るための口実だね」


 男はさも愉快そうに、煙とともに笑い声を吐き出した。男の煙が俺の顔を覆った。


「ま、スパっと身を引きなよ。もうとっくに別れてるようなもんだったんだからさあ」


 俺の肩から男の腕が離れた。男は煙草を口に咥えたままスマホを操作し、イヤホンを俺の耳に装着した。

 イヤホンから流れてきたのは、獣のような嬌声だった。正気を失ったかのように喘ぐ声。俺はスマホの画面を見て、それが彼女の声なのだと初めて理解した。画面の中で男に跨っていたのは、紛れもなく彼女だった。

 俺は弾けるように体を動かして男から距離を取った。衝撃でイヤホンが耳から抜けた。その動画をもう一秒たりとも視界に入れていたくなかった。


「これはあいつに聞いたんだけどさ」


「君、ちっちゃいんだって?」


 全身の血が沸騰する思いだった。男を殴ってやろうと思った。その激情すら、怯えと恥辱と悲哀のあまり急速に萎んでいった。そんな自分が何より情けなかった。


「んー?怒らないんだ。怒れないのか。そういうとこだよ君」


「あー、あと君が吸ってる煙草さあ…いや、なんでもない」


 男の煙草はフィルターの付近まで燃え尽きていた。煙草は灰皿へと投げ入れられ、水に触れて吸い殻へと変わっていった。


「じゃあな。元気に早死にライフ送っていこうぜ」




 結局、あれから一度も彼女と話すことは無かった。大学で顔を合わせても、俺の方から顔を逸らしてしまった。

 あの出来事から、人と関わることを避けながら漫然と残りの大学生活を過ごした。卒業後はバイト暮らしで死人のような生活している。就活は彼女のせいで出来ず…とまで進めた思考を打ち切る。

 インスタで、彼女が結婚したことを知った。相手はあの男ではなかった。幸せそうな彼女の姿を祝福できない醜く捻じ曲がった心に嫌気がさす。汚泥のような嫉妬心が、彼女の横に立ちたかったと化け物じみた声を頭に響かせる。あんな目に遭ってなおも。愚鈍な話だ。


「煙草って、緩やかな自殺なんだって」


 不意に、彼女の声が脳裏に響く。


「この煙でさ、いっしょに少しずつ死んでいこうよ」


 …俺は、一緒に死ぬに値しなかったらしい。

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肺に残った紫煙 ぴのこ @sinsekai0219

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