ゆうくん

小紫-こむらさきー

ゆうくん

「ねえ、結也ゆうやまた浮気したでしょ?」


 シャワーから出るなり、俺のスマホを右手に持った瑞樹みずきがつり目がちな目を更につり上げながらそう問い詰めてきた。俺と瑞樹みずきのツーショットが設定されたロック画面には皮脂がべったりと付いているだけで、ロックを突破された形跡はない。

 怒っていなければ猫みたいな顔をしていて可愛いのにな。そう思いながら俺は髪の毛をタオルでわしわしと拭きながら「は? なんだよ。してねーよ」と反射の様にそう答えた。


「ドンキホーテ新宿明治通り店!」

「ああ?」

「ドンキホーテ新宿明治通り店って電話に登録してる女、いるでしょ!」

「勝手に電話に出るなって言っただろ!」


 ドンキホーテ新宿明治通り店の名前が出た時点でぎくりとした。ハッタリでどうにかならないかととぼけてみたが、どうやら瑞樹みずきはかかってきた電話に勝手に出て相手の女と何か話したらしい。その結果、めちゃくちゃに怒っている。

 風呂に入るときにスマホを置いていくんじゃなかったと後悔しながら、俺はタオルをその場に落とし瑞樹みずきを抱き寄せる。

 付き合ってから七年。そろそろプロポーズもしようと思ってるし、こいつを手放すつもりはない。


「なあ、瑞樹みずき、怒るなって。ドンキの名前で登録してる女なんて本命なわけないだろ?」

「でも、ドンキホーテ新宿明治通り店は結也ゆうやのこと彼氏って言ってたよ」

瑞樹みずきならわかってくれるだろ? 仕事柄、ちょっと面倒な子に俺が好かれやすいってこと」

結也ゆうやがバーテンダーってことは、私もわかってるけどさぁ」


 頬を膨らませて俯く瑞樹みずきのゆるくパーマがかったアッシュブラウンの髪が揺れる。

 本当にちょろくて可愛い最高の本命彼女。それに比べて亜希穂ドンキホーテ明治通り店は電話を掛けるなって言ってきたのにかけてきやがって。さっさと切っておこう。


瑞樹みずきが嫌なら、連絡先も消すからさ? ほら」


 真っ暗な画面にはトップが長めのウルフカットの自分が映っている。今日も相変わらず顔だけは良いなんて思いながら顔認証でスマホのロックを解除した。

 それから電話帳を開いてドンキホーテ新宿明治通り店を削除する。せっかくバレにくいようにLINEを使わずにわざわざ電話番号にしたのにな。亜希穂ドンキホーテ明治通り店、性格はともかくおっぱいは大きくて好きだったんだよな。でもまあ俺が大切なのは本命の瑞樹みずきだ。

 ちょっと短気なところもあるが、押しに弱く、流されやすく、実家が太くて、本人もそれなりにちゃんとした企業の正社員で金も貯金もある。

 こうして彼女のマンションに転がり込んで、良い生活を出来ているのだから彼女のを最優先にするのは当たり前のことだ。


結也ゆうや、なんか、ごめんね」

「いや、俺も瑞樹みずきって大切な人がいるのに勘違いさせるような真似してごめんな」

「仕事が仕事だからしょうがないよ。私の理解が足りなくて、いつも結也ゆうやを困らせちゃう」

「困らせていいんだって。売り言葉に買い言葉でキツく言っちゃうけど俺は瑞樹みずきが不安を言ってくれること自体はうれしいんだから」


 我ながらよくもまあこんな歯の浮くようなセリフがすらすらと出てくるなって思う。でもまあ、これで俺の生活が守れるのなら吐きそうなくらい甘い言葉なんていくらでも言える。

 瑞樹みずきを抱き寄せて、そっと額にキスをする。彼女は俺の気配を察してそっと目と口を閉じるのだから、可愛いなと思う。瑞樹みずきの望むまま、瞼、頬とキスと落としてから唇にそっと触れるだけのキスをして顔をすぐ離した。


結也ゆうや?」


 軽くついばむようなキスだけで終わったことに不安を覚えたのか、目を開いて小さな声で俺の名前を呼ぶ彼女に笑いかけ、細くて白い彼女の手首をそっと握る。


「ベッド、いこ?」


 そういって瑞樹みずきの腕を引いて脱衣所を出る。手にしたスマホの電源を彼女にバレないように切ってから、二人くらいは入れそうなクローゼットの前を通り過ぎて、いつも二人で寝ているクイーンサイズのベッドまで辿り着いた。

 スマホを枕元に投げながら愛しい彼女を抱き寄せて、今度は深く口付けを交わす。

 瑞樹みずきの温かい口内を舌でなぞると、甘い吐息が早々に漏れ始める。下腹部に手を伸ばすと、そこは既に十分に潤っていたので控えめに主張をしている突起を軽く撫でてやると、彼女は俺にしがみついてきながらくぐもった声を漏らす。

 感じやすくて濡れやすいのも彼女の好きなところの一つだ。


「愛してるよ。本当に……瑞樹みずきがいるなら他の誰もいらないから」

結也ゆうや……、私も結也ゆうやの顔が一番大好きだよ」

「なんだよそれ。まあいいや、しよ?」


 唇を離し、愛を囁き合った後にもう一度深いキスをして、彼女の内部に手早くゴムを付けてから熱を持った自分自身を挿入する。

 交わる水音と、彼女の嬌声を聞きながら何度も何度も瑞樹みずきの名前を呼んだ。お互いの口内を貪るような口付けを交わして、見つめ合う。彼女は熱に浮かされたように「ゆうくん」と普段言わないような言い方で俺の名を呼んでから体を震わせる。キュウ……と求められるように締め付けられて、耐えられずにそのまま少し激しく動いて俺も彼女の中に熱を放ってそのまま果てた。

 そのまま汗ではりついた瑞樹みずきの前髪を手で整えてあげながら額にキスをして自分自身を彼女から引き抜いて、ゴムを外してゴミ箱へ雑に放り込んでから彼女の隣に横になる。


「愛してるよ瑞樹みずき

結也ゆうや、私も愛してる」


 そう言ってくれながら微笑んだ可愛い彼女を抱きすくめたまま眠りについた。


「……でさあ、ゆうくんはどうなの?」


 誰かと話している瑞樹みずきの声が聞こえて目を覚ます。俺と話すときみたいに甘ったるい声。誰かに話しかけているらしいことに気が付いて、寝たふりをしながら薄目を開けた。

 見えたのは瑞樹みずきの背中だけ。でも誰かと通話をしているのはわかる。


「ええ? 家に? 22時までなら平気だよ。あの人は帰ってこないから」

 

 その時間に家にいることが少ないのは俺だ。瑞樹みずきが呼んでいる『あの人』が俺のことなら、ってのは誰のことだ?

 まさか、浮気か? 俺のことを大好きで、押しに弱くて、ちょろい瑞樹みずきがそんなことを出来るか?

 今すぐに起きて彼女からスマホを取り上げたくなるけれど、それは耐えて布団の中で拳を握りしめる。

 瑞樹みずきは、後ろを向いたままで俺が起きていることに気付いた様子はない。


「じゃあ、明日なら来ていいよ。……うん、ゆうくんに会えるのが楽しみ。それでね、この前話してたドレスのことなんだけど」


 良いことを聞いた。明日は平日だし、急に休んだところで文句も言われないだろう。それに、用事が出来たから帰れないと瑞樹みずきに伝えたら、とやらをこの目で見ることが出来るんじゃないか? 浮気の現場に踏み込んで間男にきっちりと自分の立場をわからせてやろう。そう思いついた。

 通話を終えたらしい瑞樹みずきがこちらを振り向こうとするので慌てて目を閉じた。衣擦れの音とベッドが彼女の体重で軋む音が耳に入ってきて、少しひんやりとした瑞樹みずきの肌が俺の腕に触れる。

 寝ぼけたふりをして彼女を後ろから抱きしめながら、まだ見ぬ間男ゆうくんに対してどう立場をわからせてやるかを想像したまま眠りに落ちた。


結也ゆうや、仕事行くからごはん食べてね」


 朝八時半。いつもの時間に瑞樹みずきは俺にそう声をかけて会社へと出掛けていく。

 昨日、間男と電話していたことなんて俺が勝手に見た悪夢みたいだ。

 めずらしく情事の最中になんて可愛い呼び方をされたせいで見た夢なのかもしれない。そんなことを考えながら二度寝をし、再び起きたのは昼過ぎだった。

 瑞樹みずきが作ってくれた飯を食べながらマスターへ「今日は体調不良なので休みます。すみません」とLINEをする。それから瑞樹みずきにも「今日は店に泊るかも」とLINEをしておいた。これで油断をした瑞樹みずきは家にとやらを泊めるかもしれない。もう終電もないような時間に踏み込めば、あわよくば言い訳すら出来ない状況に出くわせるかもしれない。俺は優しいから瑞樹みずきに暴力なんて振るわない。ゆうくんとやらを軽く脅してやって小遣いでももらってから終電もない住宅地に放り出してやろう。

 瑞樹みずきとの愛の営みを目の前で見せてやるのもいいかもしれない。

 昨日、彼女が間男と話しているのを見た瞬間に感じた不快さを上書きしたくてそんなことを考えながら飯を食い終わらせた。

 時間を潰していつもの出勤時間に家を出て、それから適当にネカフェで時間を潰す。終電がなくなる時間を見計らって玄関の前に立つ。

 鍵を取り出してドアへ差し込もうと思ったら、玄関のドアがひとりでに開いた。

 視線をあげた先にいたのはスーツの男だった。少し癖っ毛だが清潔感のあるマッシュウルフの黒髪とタレ目がちなのに強気そうな印象の笑顔を浮かべたそいつは「はじめまして」と玄関の前にいた俺を怪しむことなく声をかけてきた。


「はじめまして。僕は結羽陽ゆうひっていいます」


 まるでビジネスマンみたいに爽やかに自分の名を告げた男――結羽陽ゆうひは、俺の顔を見ても笑顔を崩さない。何かを言おうとするけれど、頭が回らないし、喉がひっついてしまったみたいに上手く声が出ない。バカみたいに掠れた声で「瑞樹みずきは?」とだけようやく言えた。


「みーちゃんなら、今コンビニにゴムを買いに行ってますよ」


「は?」


 爽やかなビジネスマンじみた格好をした男からはとうてい聞けないような単語を聞いて、思考が停止する。俺の瑞樹みずきを「みーちゃん」なんて馴れ馴れしく呼びやがって間男のクセに。そんなことをぐるぐると考えていると、柔ら無くて聞き心地の良い声で「間男の、結也ゆうやさんですよね?」と問い掛けられた。


「あ? お前が間男の間違いだろ。図々しい」


 俺の名前を知っていることよりも、こいつに間男呼びをされたことが腹立たしい。

 反射的にそう言い返しても、結羽陽ゆうひの柔和な笑みは一ミリたりとも崩れていない。気持ち悪いやつ。


「ははっ、本当に何も聞いてないんですね。僕はみーちゃんの婚約者ですよ。先日、彼女のご両親にも挨拶をしましたし」


「は?」


 婚約者?

 混乱して動きを止める俺の肩を抱き寄せた結羽陽ゆうひはスマホの画面を開いてカメラロールを見せてくる。


「これ、ブライダルフェアに二人で行ったときの写真です。こっちが式場の下見に両家で行ったときの写真」


 最後にいつ見たのかわからないくらいはしゃいだ瑞樹みずきの笑顔がそこには写っていた。写真は夏のようだったから恐らく今から三ヶ月ほど前……。口からは自分の意思とは無関係に「嘘だろ?」という言葉が漏れていた。


「みーちゃんと結也ゆうやさん、七年も付き合ってるんですって? いやあ、半年前から付き合いはじめた僕みたいなつまらない男があなたみたいな綺麗な人から恋人を奪ってしまってすみません」


 喉から漏らすような「ククク」という抑えたような笑い声を出しながら、結羽陽ゆうひは俺にそう言って頭を軽く下げた。それから、腕を組み、右腕を顎に持っていって少し考えたように首を傾げてから「こういうのってNTRっていうんでしたっけ?」と俺を嘲るように言って見せた。


「お前……」

「……あ、みーちゃん、そろそろ帰って来るみたいですよ。ほら、こっちにきてください」


 殴ってやろうかと思ったが、結羽陽ゆうひのスマホからLINEの音が鳴り、そう伝えられて怒りをなんとか抑える。このままいったんどこかへ行こう。そう思って玄関から離れようとした俺の腕を自称婚約者が引っ張って止めてくる。


「NTRって言えば見抜きでしょう?」


 笑顔のまま、両目をきらきらさせた結羽陽ゆうひがそんなことを言ってくるので思わず「頭おかしいのか?」と返してしまう。


「このまま出ていけばエレベーターで彼女と鉢合わせしますよ。僕の目の前で惨めにみーちゃんから別れを告げられます?」


 腕を振り切って出直そうと玄関のドアの前から離れようとしたが、そう言われて足を止める。少しだけ考えてから意を決して俺は家の中へ入ることを決めた。予想外のことの連続で冷静な判断を出来ていないと気が付いていたが、もうどうすることも出来ない。


「ほら、急ぎましょう。あ、靴はちゃんとクローゼットの中に持っていってくださいね」


 脱いだ靴を片手に勝手知ったる我が家の廊下を通って寝室へ向かう。それから大きなクローゼットを開いて中へ入った。

 俺がクローゼットの中へ入ったのを確認して、結羽陽ゆうひが離れていったすぐ後に玄関のチャイムが響く。


「ゆうくんのサイズ、なかなかないんだから忘れないでよね」

「でもさ、僕たち結婚するんだからいつもみたいに生でよくない?」

「せっかく出来てないんだから、ドレスを着るまでは避妊するの!」


 胸が痛くなる。俺の知らない男と親しげに話す瑞樹みずき。なにより俺とは避妊をしなかったことはないのに、こいつとは生でやってることが本当に自分が間男なのだという現実を叩き付けられた気がしてじわじわと吐き気が込み上げてくる。

 思わず口を右手で抑えながらクローゼットの扉に顔を押し付けて、隙間から外を見ようとする。心臓の音がうるさいし、走ってもないのに呼吸が浅くなる。

 何を話しているのか聞いているはずなのに頭に会話が入ってこない。穏やかな笑みを浮かべた瑞樹みずきが、結羽陽ゆうくんと深く口付けをして、ベッドへ押し倒される。俺たちが普段使っているクイーンサイズのベッドが、聞き慣れた軋んだ音を立てる。でも、その上に乗っているのは俺たちではない。


「ゆうくん、愛してる」


 俺には言わない言葉が聞こえて、今すぐ出て行ってやろうかと思った。思っただけで俺の足は動こうとしない。


「みーちゃん、愛してるよ」

「ゆうくん、私も! ゆうくんのこと誰よりも愛してる」


 ベッドに横たわった二人の姿はここからはよく見えないけれど、衣擦れの音、不愉快な水音が嫌でも耳に入ってくる。瑞樹みずきの控えめな嬌声は、徐々に熱を帯びていき、俺が聞いたことも無いやがて獣のような淫靡な声に変わっていく。

 暗がりの部屋でクローゼットの中から見えるのは激しく背中を仰け反らせて体を痙攣させている瑞樹みずきの後ろ姿だった。股間は痛いほど張り詰めていて、でもここで自慰行為をするなんて……結羽陽ゆうひの言っていた見抜きじゃねえかよってムカついて出来なかった。

 ただただ惨めに自分の股間に熱を持たせたまま、朝まで続く二人の行為を見ているだけしか出来ないでいた。


結也ゆうやさん、昨日はお疲れさまでした」

「……あ」


 呆然として、そのまま寝てしまったのか、忌々しい柔らかな低い声と柔和な笑顔で起こされる。慌てて寄りかかっていた体を起こして辺りを見回していると「みーちゃんならもう仕事にいきましたよ」と言われて、安堵する。


「なんだよ。間男の俺をあざ笑いに来たのか?」


 ニコニコこちらを見ながら俺に声をかけてきたムカつく男にそういうが、結羽陽ゆうひは相変わらず笑みを崩さないまま俺に「いえ、みーちゃんは性欲も強いですし結婚するまでの間、あなたがディルド代わりになってくれているのは正直助かります」と言ってきた。


結也ゆうやさんみたいにお顔が綺麗な人が間男というのは僕も気分がいいですし」


 と付け加えて、俺から離れていく。


「……変態野郎」

「ふふ。そうやって罵ることであなたの溜飲が下がるのなら、なんと言ってくれても良いですよ」


 クローゼットの中からようやく出て、部屋を見渡したが、昨日あれだけ乱れていたにもかかわらず部屋は整然としていた。ゴミ箱の中もチラ見してみたが昨日の情事を思い出させるようなものは一つも残っていなかった。

 昨日以外もああやって俺たちのベッドで交わっていたのかと思うと、再び吐き気のようなものが込み上げてくる。

 何も言えずに、玄関に向かう結羽陽ゆうひの後を追う。せめて、こいつが出て行ってからすぐに施錠をしてやろう。それくらいの腹いせしか出来ない自分が惨めで仕方ない。彼女と別れようにも瑞樹みずきの家に居候をしている身だ。すぐに放り出されるのも困る俺は、あいつの言うとおりディルドとしてこの家にしばらくいるしかない。今のうちから、家も見つけておかないとな……。そう考えながら玄関で靴を履いている結羽陽ゆうひの後頭部を見下ろしている。このまま鈍器でもみつけて頭をかち割ってしまいたいと思うのに、へたれな俺はそれすらも実行することが出来ない。

 玄関を出て行く直前に、結羽陽ゆうひは俺の顔に自分の顔を近付けてきた。


「ああ、それとみーちゃんと結婚後、この家の名義はあなたに譲るので新居を探す必要は無いですよ。今後の家賃は払えるくらいの稼ぎはありますよね?」


 ただただ惨めな気持ちのまま、去って行く爽やかな雰囲気のカス野郎の背中を見送ることしか出来なかった。

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ゆうくん 小紫-こむらさきー @violetsnake206

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