落果のころ

クニシマ

◆◇◆

 橋の上に立って川の流れをじっと見ていると、自分の足元さえもゆっくりと動いていくような気になる。川べりには紅葉もしないつまらない木ばかりあって、秋の夕日を受けてはその影を長く伸ばしている。おう、ねえちゃん死ぬなよ、いい女だからよ。やや酔っているらしい陽気な高齢の男が、通りすがりざまにそう声をかけてきた。なんとなく笑えた。

 先週まであたしはここから電車で一時間の小規模な都市にいて、適当な仕事をやりながら毎晩のようにいろいろな女と遊んでいた。あたしは女がとっても好きだ。女は美しく煌めく光を持っている。けれども遊び方が悪かったのか、ついにその街の誰からも相手にされなくなってしまったのだった。

 生まれ育った記憶以外には何もないひなびた町、ここより他に行くあてがないわけではない。それでもあたしは、父が介護施設に入ってからというもの悠々自適の生活をひとり送っている母に頭を下げ、すぐに働き口を見つけるという条件で実家に戻ってきた。父と離れてからこちら、母は以前よりも元気な振る舞いを見せ、うっとうしいのがいなくてせいせいすると言い張っていたけれど、電話口の声は連絡をとるたびだんだんと不明瞭になりつつあって、それがなんだかひどく怖かったのだった。

 家の中は薄暗い。洗面所の電球が切れていたからそれが原因かと思い、帰ってきたその日に換えたものの、たいして変わりはしなかった。母と顔を合わせているときにはなるべく長いこと会話をするようにしているけれど、そうするたびにその話し声の衰えが一朝一夕に改善するものではないとわかるのが嫌だ。ただひとつ、朝が早い母は、午前六時半にはあたしを起こして朝食を出してくれて、その味は昔とほとんど変わるところがないから、それだけは安心できる。

 職を探すと自分から条件を出した手前、やはり日中は家にいづらくて、昨日も今日も昼ごろから散歩がてら仕事を探して町をうろついていた。二日間そうした結論として、今、あたしは川を眺めながら、公民館の受付かスーパーのレジ打ちのどちらかに決めようと考えている。

 ひるさきさんこれからどうするんだろうね。ふと、そう話す女の声がすぐ後ろを通り過ぎていって、あたしは何とはなしに振り返った。葬儀帰りらしい喪服姿の男女が四、五人、連れ立って駅の方角へ歩いていくところだった。そのうちのひとりと視線がぶつかり、しばしそのまま見合っていると、相手が「あっ」と短く声をあげてあたしの顔を指差した。ほとんど同時に、あたしも相手の集団が誰なのかを思い出していた。それは小中学校のころの同級生たちだった。

 駅の裏手にある小汚い居酒屋で、あたしは彼らと膝を突き合わせてビールジョッキを鳴らした。ほんと久しぶり、と言って、あのころ新体操クラブだった女が懐かしげに目を細める、その左手の薬指に華奢な指輪が嵌まっている。ふうん、と思う。当然だ、とも思う。

「同窓会来なかったでしょ、こないだあったんだけどね。」

 さっきあたしを指差した男がえびす顔でジョッキを傾けたのをきっかけに、彼らは数ヶ月前の同窓会で語りそびれたことを口々に話し出した。つまらない話題ばかりだった。同窓会もきっとつまらない集まりだったのだろうと察された。けれどもひとつ、晴実はるみさんという人の噂話だけ、それだけはどうしてだか気にかかった。晴実さんのとこ、お兄さんがなんか宗教入ってるらしいよ。誰ともなく声をひそめて、かすかに笑うような調子で、その話は始まったのだった。

「晴実さんって——」

 誰だったっけ、と言いかけて、ふとよみがえってくる記憶があった。中学二年生のときこの町に引っ越してきた、おとなしくて地味で色白で小柄で、体育のジャージがぶかぶかだった子。多分、あの子だ。望月もちづき晴実。美術の時間に隣の席だったことがあって、奇妙な絵を描いていたのを覚えている。当時はどうとも思わなかったけれど、数年前、よく一緒にいた女の趣味で美術館に通っていた時期があって、だから今になって考えてみればわかる、それはクレーの絵に似ていた。

 その後、二、三回ジョッキを空けて解散した。まだ早い時間だったけれど、そんな歳になったのだと全員が知っているようだった。帰りがけ、あたしは居酒屋の二軒隣の安ホテルで清掃のアルバイトを募集しているのを見つけた。これでいいかなと思った。諦めたのかもしれない。

 翌日に簡単な面接をして、翌々日から出勤を始めた。ちょうどよく疲れる仕事だった。不十分なことは何もなかった。毎日、母に見送られて家を出て、働いて、母のいる家へ帰って、それだけの暮らしをこれからずっと続けても、困ることなどひとつとしてないような気がした。都市を離れたとき同時に欲も失ったのだろうか、そう考えて、それならどんなに楽になることだろうと思って笑えた。そんなものは錯覚だとわかっていた。

 ある日の勤務中、女のふたり連れを見かけた。その片方の顔には見覚えがあった。晴実さんだ。中学生のころからたいして変わっていない。まだこの辺りに住んでいたのかと少し驚いた。それともあたしと同じように一度はよそへ出て戻ってきたのだろうか。いずれにせよ、このホテルの役割からして、彼女があたしと同類であるのはほとんど確かなことだった。

 そういえば、と思い出す。中学三年生の、あれは夏休みが明けたころ、あたしの女好きが周りにばれて、ちょっとの期間そのことで話題が持ちきりになったのだ。好奇心の強い同級生たちはあたしの行動に注目するようになったから、あたしはしばしば色々な女におどけてキスを迫る遊びをやった。ほとんどの相手はきゃあきゃあ笑いながらいよいよ唇が触れる寸前で逃げるだけだったけれど、ただひとり、そう、ひとりだけ、やたらとのことのような顔をしていた子がいた。結局、その子とキスをしたのかしなかったのか、どちらでもあるような気がするけれど、あれが晴実さんだったのだっけか。

 それから何度か仕事の最中に見た晴実さんはいつも違う女の隣にいた。なんだ、遊んでるんだ、とだけ思った。期待したのでも失望したのでもなく、ただそう思った。

 あるとき、ちょうど業務が終わってあたしが外へ出たのと同時に、晴実さんもひとりで出てきた。ひとりでなくてもいずれ話しかけるつもりではいたけれど、まあ、きっと、今なのだろうな、と、あたしは彼女に声をかけた。特別に何か気負うこともなかった。晴実さんもこちらのことを中学の同級生だと覚えていた。そうやってあたしたちはごく普通に再会したのだった。

 女に慣れているとすぐ打ち明け合って、しかしなぜだか彼女と寝る気にはならなかった。人には底があるというのがあたしの考えで、寝ればその底を知ることができるけれど、知ったならそれ以上のことはもうなくなる。だからあたしは多くの女たちを手放してきた。晴実さんの底を知るには早いような気がしていたのだろう。

 しばらくの間、子供のように友人同士でいた。それというのは、とても長かったようでも、ごく短かったようでもあって、年はひとつも取らないくらいの時間だった。

 そろそろ寒くなってきたある日の昼下がり、あたしたちは隣町へ遊びに出かけた。ふたりとも夜は別々の相手と予定があって、それまで暇を潰そうということだった。しかし晴実さんはどうも具合が悪そうで、季節柄もしインフルエンザや何かだったら、もらって帰って母にうつしてしまっても困るから、病気なのかとあたしは尋ねた。他意はなかった。なんの気もない質問だった。彼女もまた、まったくもって何気なく、既知の事実のように、ふたりめを授かったのだと話した。

 なんだかとんでもなくまぶしい場所へ突然放り出されたような気になった。頭に血が上っていくのが奇妙なほど自覚できた。大切にとっておいたはずだったのに、と、傲慢な心が叫んでいた。

 そんな状態で遊びまわっていていいのかと反射的に言いかけて、けれどそんなことを訊いてどうなるのだろうということもわかった。だからあたしはそのかわりに今日の相手を断ってほしいと頼んだ。晴実さんはそれほど不思議な顔もせず承諾してくれた。彼女もあたしとどうにかなることをどこかで望んでいたのだろうか、とぼんやり思った。

 あたしたちはホテルへ向かった。互いに、いつも他の相手とそうしているように、手早く身を整えてベッドに入った。彼女の肌は白かった。あたしはゆっくりとその白さに手を伸ばした。そうしながら、あたしは、自分がどうしてこの女をあれほどまでに惜しがったのか、忘れ始めてしまっているような気がした。

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