吹き抜ける春風を追いかけて

白山無寐

 

 吸う息が重たくなり、思わず胸を抑える。肩で呼吸した。息は苦しいままだった。

「だめでしょ! 色んな人の迷惑になるんだよ! 静かにしなさいって言ったでしょ!? いい加減にして!」

 知らないお母さんがそう怒鳴る。それは子供が言うことを聞かなかったから。周りにいる私たちはそれをわかっているから、多少文句があろうと黙って食事を進める。

 ではなぜ子供は騒ぐのだろうか。

 もしかしたら母親が子供の話を聞かずに電話に夢中になっていたからかもしれない。母親は妹か弟の面倒を見るのに夢中で、少年は自分の存在を大きな声と、覚えたての言葉で主張していたのかもしれない。

 頭ごなしに否定する。やってはいけないことをやってしまった時、人に迷惑をかけてしまった時、私たちは怒る。

 どうしたの? と優しくは聞かない。私たちはもう赤ん坊では無いから、なんでこんなことしたの? なんで? と冷たく聞く。もうあなたに期待はしていません。呆れましたと言わんばかりの冷めた目で見つめながら。

 フードコートを出て、日用品を買った。雨でびしょ濡れになりながら家に帰り、すぐにお風呂に入った。

 冬の雨で体が冷える瞬間は嫌いではない。全身で感じる孤独と逃げるように見上げる真っ暗な空に、もがいても仕方がないと言われているような気がして少しだけ気が楽になる。

 髪の毛を洗いながら、あの少年がなぜあんなに騒いでいたのかを考える。

 答えの分からない他人の思考などどうでもいいのだが、風呂は退屈だ。

 色んな可能性があり、私の想像したものは全て間違いかもしれない。毎回この答えが出たら泡を全て流している。

 脱衣所がいつもよりほんのり寒い。湯気がいつもより濃く見える。気温が下がりつつある十一月。

 体を拭いて、髪を束ねた。化粧水をつけようと戸棚の扉を開けると、後ろから乾いた愛くるしい音が聞こえてくる。

 猫が扉をカリカリと引っ掻いていた。

「まだ濡れてるからもうちょっと待って〜」

「二ーー、二ャ」

 不服そうに鳴く。

 化粧水を塗り、ヘアオイルを塗った。明日は休みだ。ドライヤー疲れるからやめる。

「はいはい。ただいま。ごめんね」

 まだ潤っている脚に擦り寄ってきた。頭を強く押し付け、大きな目で私を見つめる。

「ご飯食べようね」

「ニャン」

 頭を一撫ですると嬉しそうに鳴いてくれる。私はそれが嬉しい。たとえ、こいつは毎日餌をくれる。だから媚を売り続けなければ。と使命的に擦り寄ってきていたとしても可愛いし、愛しているからなんだっていい。

 でも、こういう時にそういった想像をするのは少し寂しい。この子は私に心を開いてくれているから、いつまでも私の愛しい家族だという自覚があるから、さっきのように喉を鳴らして擦り寄ってくれる。そう思った方が、部屋が少し明るく感じられる。

 台所に行き、昨日作り置きしていたおかずをレンジに入れた。ゆずはお利口だから、台所には登ってこない。私の足元で慌ただしくうろちょろするだけだ。

 茶碗に白米をよそい、先に白米と箸をテーブルに置きに行く。

 レンジが鳴る前にゆずのご飯を用意する。私のご飯より先に部屋の隅にある、ゆずのお気に入りスペースにご飯を入れに行く。

 戻ったついでに熱々のおかずを余った袖で手を守りながら慎重に運び、席についていただきますと言う。毎日これをやる。ゆずが来てからこのルーティーンがすごく幸せだと思う。

 いただきますと私が言わないとゆずはご飯を食べない。じっとこちらを見つめるゆずが可愛くて焦らしそうになる。

「美味しい?」

 少し離れた場所にいるゆずに問いかけた。返事はない。毎日同じものを食べているし、時間帯も同じで景色もほとんど変わらない。

 私も自分のご飯を口に運ぶ。テレビをつけた。見ているのか、聞いているのか分からないが適当に回したチャンネルの流れるテレビ画面をぼうっと見つめた。

 お味噌汁を最後の一口飲み干した頃にはゆずはもう、毛繕いを始めていた。

 それを眺めていると、電話が鳴った。職場の上司や部下、同僚からの電話では無いことを祈りながら画面を見ると姉の名前が書いてあった。

「もしもし」

「あ、もしもし? 今大丈夫?」

「大丈夫だよ。どうしたの?」

「来週の三連休さ、うちの子預かってくれない?」

 六つ歳の離れた姉には今年中学一年生になる子供がいる。姉が結婚してすぐに甥っ子が生まれ、私もすぐに叔母になった。叔母さんと言われる度にまだそんな歳じゃないのに。と少し顔を顰めたくなる。

「うち猫いるよ。アレルギーとか大丈夫?」

 甥っ子とは何度か遊んだし、今までも何度か預かった。ただ、ゆずを飼ってからは家に呼んだことがなかったからそこが少し引っかかる。猫が嫌いだったり、動物が苦手なら家に泊まらせるのは億劫になる。

「うちの子アレルギーないからその辺気にしなくていいよ。ちょっと今あの人と上手くいってなくて。その話も聞いて欲しい……。あんたいつ暇なのよ」

「来週の月曜日午後休取ってるからその時なら時間あるよ。今悠くん家にいるの?」

 電話越しに姉の足音が微かに聞こえてくる。ご飯の支度でもしているのだろうか。

「今は塾。でもそろそろ帰ってくるよ。じゃあ来週の月曜日そっち行くわ。適当にランチしよ」

「わかった。仕事終わったら連絡する」

 電話を切ることは得意だ。長くなりそうな同僚の電話や母からの電話。今日みたいな姉の電話だってこちらが口を閉じた瞬間に電話を切る。その後かかってきても私は出ない。

 話す準備をしていない日常会話や説教に愚痴。せっかく一日が終わって家に帰ってきたのに、また疲れが重なるのは嫌だ。

 覚めて少し固くなった白米を一口食べた。

 真っ暗な外を眺めているのか、反射している自分を見ているのか、ゆずは窓の傍からピクリとも動かない。

 静かだ。テレビからは芸能人の笑い声が聞こえてくる。今日の仕事を振り返る脳みそが騒がしくなる。

 もしかしたらなにかミスをしたかもしれない。そのせいでまた明日仕事が増えるかもしれない。今日の会話は不自然じゃなかっただろうか。

 色んな音が混ざり合い、無音になる。考えることをやめた瞬間から不安が体をくすぐる。

 さっさとご飯を済ませ、洗い物をした。濡れた手でゆずの水入れを取りに行く。

 私の気配に気づいたゆずはまた足にすり寄ってくる。水滴が落ちないように気をつけながらしゃがみ、おでこを近づけた。

 『ン』と短く鳴いて頭を私のおでこに優しくぶつける。

「ありがとうね」

 ゆずは満足そうな顔をして、お気に入りの場所に向かった。

 洗い物を終えて、寝室に向かう。私の枕の上で寝転がるゆずに飛び込む。ゆっくり、優しく。たんぽぽの綿毛を飛ばしてしまわないよう慎重に茎を折る時と同じ優しさで、飛び込む。

 そんな毎日を繰り返しているといつの間にか姉と約束した月曜日になっていた。

 流れるように仕事を終えて、メールを確認する。結局いつものカフェに向かった。

「久しぶり」

 今日も姉は華やかで可憐な服装だ。相変わらず服のセンスは真逆だが、姉の選ぶ服はどれも好きだ。

 化粧がいつもより濃く、香水の匂いも強い。隈がほんのりと浮かんで見える。眠れていないのかもしれない。

 姉の世間の目を気にしないところが好きだ。悠くんも大きくなって、自分に使う時間も増えたのだろう。小さい頃から私とは違っていつも綺麗で、羨ましく思う。

 店員から受け取ったアイスコーヒーとランチセットをテーブルに置き、座った。

 姉も同じものを頼んでいた。

 いつも私たちは二階の隅に座る。人目を気にしている訳では無い。隅の方が視界が広いから、少し安心するのだ。

 平日のランチ時間は少し混みあっていたが、あと一時間ほどすれば嘘みたいに静かになるだろう。

 その間に私たちは他愛のない会話をする。お互いの職場にいるお局さんがやらかした話や、最近入ってきた新人のミスの後片付けが大変だった話。新しく買った服がいざ着てみるとあまり似合わなくて処分に困っている話。

 私は基本的に姉の話に相槌を打つだけだ。姉に対しては顔色を伺ったり、声のトーンに耳を傾けなくていい。

 私があまり上手に食べられていないホットサンドを見て姉は笑う。

「あんた昔からハンバーガーとか食べるの下手よね」

「難しくない? ホットサンドとか特に耳の部分が噛み切れなくて全部台無しになる」

「慎重に食べ過ぎなのよ。思い切りよ。ガブって食べるの」

 そう言った姉の一口は大きく、綺麗だった。ほら見て? と言わんばかりの無邪気な顔に思わず笑ってしまう。

 お腹も膨れてきて、アイスコーヒーの入ったグラスは汗だくになっていた。

「それでさ」

 一口アイスコーヒーを飲む。何となくコーヒーを選んだが、こういう時ココアとか新作のフラペチーノなどを選べる人になりたいなと飲食店に入る度に思う。

 イートインはいつの間にか嘘みたいに静かになっていたため、姉の声がさっきよりも少しうるさく感じる。

 私に釣られて姉もコーヒーを飲む。

「今の所大事な案件抱えてるわけでもないし、三連休にちょうど被るやらないといけない仕事もすぐ終わりそうだから預かれるよ」

「本当!? 助かるわぁ」

「うん。悠くんが良いならだけどね。お姉ちゃん雅俊さんと上手くいってないの?」

 キラキラと眩しい爪を見つめながら、姉はゆっくり口を開く。

「向こうが黒いのよ。帰りも遅いし、三人で晩御飯食べたのなんて半年以上前。薄々感じてはいたんだけど、目を背けてたの」

 両手を広げて机に置いた。体を伸ばそうと少し姿勢を正して、私の目を見る。

「悠も気づいててね。お父さんともご飯食べたい。ずっと仕事じゃんって」

 少しずつ大人になる。複雑な感情と戦いながら大きくなる。悠くんも今その最中だというのに、家族とご飯を食べたい。寂しいと言葉にせざるおえなかったと思うと胸が締め付けられる。

「だからそろそろ話さないとと思って。証拠というか、言い逃れできないでしょ。みたいなものは集まってるのよ。あとは私が頑張ればいいんだけど」

 力強く手のひらを開いたと思えば弱々しくグラスを握る姉を見ると、さっきよりもしっかりと疲れが伝わってくる。

「家もなくなるし、私も今より仕事増やさないといけないし。悠の親権も私が握れるか分からないの。だから、どうしようかなって。悠も嫌でしょ。お母さんかお父さん選んでなんて言えないし」

「お姉ちゃんが背負う苦労じゃないよ。雅俊さんが悪いのに、全部一人でやろうとして苦しんでたらそっちの方が悠くんも嫌だと思うよ。お金はある程度手伝えるし、悠くんもちょこちょこ預かれるし。休みの日に二人で遊びに行くのもいいよ。私も気分転換になっていいし」

 頬が固くなっているのか、あまり口角が上がらない。こういう時に戯けてみせることができない。

「二人とも辛いよね。大袈裟なくらい慰謝料請求してやろう。お姉ちゃんが今壊すことを躊躇ってる家庭を雅俊さんが先に壊したんだよ。腹立つよ」

「ほんとよね。なんで私が……。って毎日思ってる。許せないよ〜〜」

 姉は笑った。頬に手を当て、戯けてみせた。

「弁護士に相談もしてるからさ。これからも千佳に頼っちゃうかもしれない。ごめんね」

「謝らないでよ。いつでも連絡して」

 お互いいつの間にかコーヒーを飲み干していた。ふと視線を窓の方にずらしてみる。外がほんの少しだけ暗くなっていた。夕方に近づいた青空は白っぽくなり、いつの間にか暗くなっている。冬が近づき、あっという間に夜がくる。

「じゃあ金曜の夜に悠が家に行くと思うからさ」

「悠くん携帯持ってる? 持ってたら私の番号教えといてよ。迎えに行くよ」

 私が手土産に持ってきたクッキーをぶら下げて帰る姉を見つめた。人混みに溶けて、この街の一部になる。私も駅に向かい、この街の一部となった。

 帰り道。悠くんの言葉を聞いた姉はなんと思ったのだろうかとずっと考えていた。自身のことを母親失格だと責めていないといい。そう願わずにはいられないほど、彼女は弱って見えた。のらりくらりやって、いつも物事を適当に流し、その場の勢いで生きているような人だと思っていた。

 少し安心する。彼女にとって、苦しめる愛しい存在があること。無責任に手放したり、適当に流して見て見ぬふりできないことだと自分と息子を大事にしてくれていることに勝手に安心した。



 電話が鳴る。もう少しで仕事が終わりそうだ。画面に流れてくる名前を見て、急いで廊下に出た。

「もしもし。悠くん? どうしたの?」

「ちょっと早く着いちゃって。千佳さんの職場まで行ってもいいですか。中には入らないです」

「い、いいけど。住所メールで送るね。迷ったら迷った場所で待ってて! 仕事あと二十分くらいで終わるよ。気をつけて来てね」

「わかった。ありがとう」

 電話を切ってすぐにここの住所を打った。メールが送信されたことを確認して、電話をポケットにしまった。急いでデスクに戻ると隣にいる佐藤さんが私の肩をつついた。

「彼氏?」

「違いますよ」

 メモ帳をめくりながら答える。

「えー? あんな急いでたのに?」

「仕事中に電話してくる彼氏嫌じゃないですか?」

「それは確かに……。じゃあ誰なのよ」

 探していたメモが見つかり、キーボードに手を置く。佐藤さんの声が少し大きかったのか、課長が咳払いをした。

「さっさと終わらせますよ」

 微笑むと佐藤さんは少しだけこちらを睨んできたが、悪意のない表情だとわかっていたため残りの仕事に集中した。

 ポケットにある携帯が震えたと共に、仕事が終わった。一口水を飲み、時計を確認すると定時より少しだけ時間が過ぎていた。

「お先失礼します」

 佐藤さんにお疲れ様ですと伝え、目のあった同僚たちにも軽く会釈して会社を出た。

 メールを開くと、悠くんはもう会社に着いたらしい。急いで辺りを見渡すと、背の高い、髪の毛に生まれたてのような艶を輝かせた馴染まない不自然な少年がいた。

「悠くん?」

「あぁ、お久しぶりです」

 私を見つけて頬が緩んだ悠くんは、姉の笑顔によく似ていた。

「久しぶり。元気だった? 荷物持つよ。今日の晩御飯何がいいとかある?」

 悠くんは大きなリュックとトートバッグを肩にかけていた。トートバッグを受け取り、駅に向かって歩き出す。

「今日の給食がひじきご飯だったのでそれ以外だったらなんでもいいです」

「わかった。スーパー寄ってから帰ってもいい? いっぱい買うから手伝ってね」

 給食という言葉を久しぶりに聞き、なんだか嬉しくなる。ひじきご飯もずっと食べていない。

 悠くんの背は私よりも高くなっている。最後に会ったのは去年の夏だった気がするが、たった一年でこんなに背が伸びるとは思ってもいなかった。

 私が中学生の頃はずば抜けて背の高い女子も男子もいなかった。みんな成長期が遅かったのか、卒業まで残り数ヶ月になってから徐々に身長差が生まれていった。

 なんだか懐かしいなと思いながら、家にいるゆずを思い出す。

「そういえば私猫飼ったの。猫大丈夫?」

 ゆずも私以外の人間と会ったことがない。もしかしたら人見知りしてしまうかもしれないし、ストレスを強く感じる可能性がある。万が一に備えてゆずには別に部屋を確保しているが少し心配だ。

「猫好きです。母さんが犬の方が好きって言うからあんまり言わないんですけど。犬より猫派です」

「そう? よかった。ゆずっていうの。名前呼んだら返事してくれるんだよ。仲良くしてあげてね」

「うん」

 無邪気に頷く。去年会った時の口調は砕けていて、私に色んな話をしてくれた。それを思い出した。戸惑いながらも話に相槌を打つ時間は癒された。

 スーパーに着いた。悠くんがカートとカゴを積極的に用意してくれた姿には感心した。

 優しい子なんだなと思った。不器用な優しさには甘えてもいいような気がして、ありがとうと伝えたまま彼にカート係を頼んだ。

「三連休あるからとりあえず適当に使えそうなもの買うよ。お菓子とかも買っていいよ。ジュースは重いから大きいの二本までね」

「わかりました。あの、カレー食べたくなったんですけどカレーって作るの面倒臭いですか?」

「ううん。簡単だよ。カレーいいね。私辛いの苦手だから甘口でもいい?」

「僕も苦手なんで甘口にしましょう」

 カレールーを探しながら、野菜を選ぶ。しめじをカゴに入れ、お肉コーナーに向かった。カレーに使うお肉は各家庭によって違う。今日は鶏もも肉を選ぶ。鶏ももでも鶏ムネでもどちらでもいい。いつも安い方を入れている。

「キノコ入れるんですね」

「美味しいよ。苦手?」

「いや。母さんいっつもドライカレーだから、ゴロゴロカレー嬉しいなって」

「お姉ちゃんぽいね。私もゴロゴロカレーの方が好き」

 三日間の献立を頭の中で組み立ながらスーパーを歩いた。こんなに長時間スーパーにいたのは久しぶりで、思ったよりも疲れてしまった。

 結局三本買ったジュースに、絶対余るであろう嬉しくなってついカゴに入れてしまったお菓子たち。肉や野菜などの生もの。パンパンになった袋が四つある。家に着いて一度それらを全て置いてみると、面白くなってしまった。

「思ったよりいっぱい買っちゃった。三連休で消費できるかな。一週間くらい家にいてもいいよ」

「いっぱい食べるんで、頑張りましょ」

「そうね」

 生ものと飲み物を冷蔵庫に入れて、お菓子は悠くんに頼んで棚に入れてもらった。

 台所で手を洗っていると、奥の方から視線を感じた。

「悠くん、荷物あっちに置いといて。着替えとかはお風呂場の棚が空いてるか必要だったら使ってね。寝る場所はリビングで大丈夫? 布団あるから後でそれ持ってくるよ」

「僕がやりますよ。あの、ゆずさんはどこにいるんですか」

 何だかさっきから落ち着きのない動きばかりしているなと思ったら、悠くんは柚を探していたらしい。

「多分あっちの部屋にいると思う。そこの下におやつ入ってるから好きなの選んでて。連れてくるね」

 棚を指さす。

「いいんですか?」

「うん。帰ったらあげるって約束してるのよ」

 さっきから視線を感じる寝室へと向かった。『ニッ、ニャー』歯をむき出して嬉しそうに私の方に歩いてくる。知らない人がいるのはやっぱり怖いのかなとゆっくりゆっくり撫でた。

「今日は甥っ子が来てるんだよ。悠くんっていうの。ゆずと会えるの楽しみにしてたみたいなんだけど、挨拶できる?」

 コートを脱ぎながらゆずに話しかける。返事は無いが、私が部屋を出ようとするとゆずが先に部屋を出た。

「えぇ。え〜〜?」

 悠くんの戸惑った声が聞こえてくる。思わず頬が緩んでしまった。

「可愛いでしょ」

「うん。めっちゃ可愛い。はじめまして」

 ソファに座り、ゆずに夢中な悠くんを写真に収めて姉にメールを送った。

 早速買ってきたカレーの材料を取りだし、ご飯を作ることにする。

「テレビつけていいよ」

 カレーは久しぶりに作る。何となく夏に食べたくなるから、八月だけで十回以上カレーを作って食べてしまう。冬にはシチューを作りがちだ。

 野菜の皮を剥きながら、テレビの音とゆずが動く度に聞こえる鈴の音。悠くんの小さな笑い声や足音。今日の家は賑やかだった。

「ねぇ! 千佳さん見て!」

 そう声が聞こえて顔を上げると、ゆずが立っていた。まるでミーアキャットのようで全身が砕けそうなほど可愛かった。

「すごい。猫って立つんだ」

「私も初めて見たよ」

 二人で笑う。家が暖かく感じる。いつも何となく暖色の電気にしているが、今日は寒色でも全く気にならない気がする。

 野菜を切る音でさえも愛おしい。生活の音楽が毎日こんなふうに奏でられていたらいいのになと思う。

 姉もそう思い、悠くんもきっとそう思っている。彼らの家庭が崩壊しそうな時に私は温もりを感じてしまった。

 包丁を握る手に力が入る。彼らの生活に直接私が関係している訳では無いが、今ここで楽しそうに猫と遊ぶ少年に、愛が足りないまま大きくなって欲しくないと思った。

「三連休宿題とかあるの?」

「学校の宿題はもう終わってるんですけど、塾の宿題がいっぱいあって……」

 カレーを食べながら三連休何をして過ごすかふんわりと決めていく。

「宿題とかはここでやる? 一応ローテーブルあるけど」

「床でやったらゆずさんと遊んじゃいそうで」

「あぁ。じゃあここ使っていいよ。私は基本休みの日はソファーで過ごしてるからさ」

 どこか遊びに行きたい場所はあるか。やりたいことはあるか。見たいアニメや映画はあるのか。などを聞いていく。

 全てのらりくらりかわされてしまった。遠慮しているのだろう。彼なりの気遣いをわざわざ無駄にして余計な恥をかかせまいと思ったが、せっかくなら甘えて欲しい。

「家にあるものは基本触って大丈夫だよ。映画も見放題だから好きなタイミングでテレビいじってね。必要なものが出てきたら一緒に買いに行こう。久しぶりに会えて嬉しいな。私が浮かれて面倒かもしれないけど、相手してね」

「うん。アニメとかはあんまり分からないけど、今流行りの映画とか見てみたい。母さんあんまり映画とか見ないから」

「いいね。ご飯食べ終わったらお菓子食べながら観よう。お腹いっぱいでも食べよう」

「それはいいよ。アイスにしよ」

「アイスもいいね。えー。じゃあお風呂入っちゃう?」

「うん。そうしよう」

 眩しい笑顔が弾けた。

 私たちはお互い急いで食べようと話したわけでもないのに少し急いでご飯を食べた。奮発して買ったフルーツは明日の朝食べることにして、悠くんを先にお風呂に入れた。

 洗い物をしているとゆずが足元に来た。

「仲良くできそう?」

 『ニッ』とまた短く鳴く。ゆずはよく鳴くが、ニャーと長く鳴くことはあまりない。一度だけ帰りが遅くなってしまった時があり、その時は私のいない部屋で寂しそうに『ニャー。ニャー』と鳴いていたことがある。

 嬉しいのか、楽しいのか。仕方ないから遊んでやるかというお兄ちゃんのつもりなのか。

 いつもよりしっぽが優雅に揺れている。嬉しそうに見えるゆずに私も嬉しくなった。

「私のおすすめこれ」

 お互いホカホカの体のままアイスを食べた。夜はもう冷えるため暖房をつけるか迷うが、今日はアイスを食べるからと少し部屋を暖かくしておいた。

 悠くんはソファの下に座り、ゆずはその隣で眠っている。私はソファに座り、リモコンをいじる。微かにゆずの喉を鳴らす音が聞こえる。

「これどういう話なんですか?」

「殺し屋の話なの。殺し屋ってかっこいいじゃない」

「え、意外」

 声を出して笑っていた。やっと悠くんが笑ってくれたことが嬉しくなり、私も釣られて笑う。お互いの笑い声がうるさかったのか、ゆずは目を開けて伸びをしていた。

「日本の殺し屋映画はあんまり好きじゃないんだけど、ハリウッドはすっごくかっこいいんだよ。小学生の時に出会ってたら多分目指してたね」

「そんなにですか?」

「ほら観るよ。ちょっとグロいかも」

 持ってきたブランケットを膝にかけ直して、少し高いカップアイスを食べる。

 悠くんは一番安いソーダ味のアイスを選んでいた。

 映画が中盤まで進み、ゆずが私の膝の上に移動してきた。

「あっ」

 それと同時に声が聞こえ、肩が震えた。思わずびっくりしてしまい、情けない自分が少し面白かった。

「どうした?」

「当たってました」

「えっ! 当たり? すごいよ。当たってる人見たことないもん」

「ラッキーだ」

 その瞬間大きな破裂音がテレビから聞こえた。三人でテレビの方を見た。

 街にある一番高いビルが爆発し、人々の悲鳴が聞こえる。少し離れたビルでライフルを構えた主人公に視点が変わり、息が止まる。

 爆発したビルには主人公の彼女が働いているバーがある。

 それに気づいた主人公は思わずライフルから目を逸らし、その瞬間もう一度爆発音が鳴り響く。

 私たちはすっかりアイスが当たった感動なんか忘れて映画に見入っていた。

「めっちゃかっこよかった……。僕もなろうかな、殺し屋」

「ほらみろ」

 体を伸ばし、温かかったはずの紅茶を飲み干した。

 久しぶりに夜をゆっくり過ごした。ここ数ヶ月、次の日休みなら夜更かしをしようと何度も試みたが、いつも携帯を触ったり積読のあらすじを読んでいたら眠っている。

 観たい映画を探すことも無くなり、音楽を聴く間もなく休みが終わる。充実しているわけではないが、していないわけでもない。

 味の濃い少し甘めのコロッケが温かいとじゃがいもがホクホクしていて美味しいし、冷めても甘みが増して美味しいといった良いとこ取りをする日常は悪くなかった。

 私たちは日常を送る。悠くんとゆずのそれぞれの温もりを家に置いて、そして私の温もりもこの家の一部になる。

 普段はいない悠くんのいる私の家はいつも通り温かい。

 私には彼の抱えている冷たいものを溶かすことはできないだろう。

 二日後、荷物を詰め終わった悠くんと四度目の晩ご飯を食べていると会話の続かない不自然な時間が続いた。

 先に食べ終わった私は買ってきた洋梨を剥いていた。久しぶりに梨を剥く。柔らかく弱いものを丁寧に扱うことに集中していたが、部屋がとたんに静かになった。悠くんの手が止まっている。

 私は悠くんの顔を見ることなく、下を向いたまま口を開いた。

「まだ家にいてもいいよ。学校の道具は私が取りに行ってもいいし」

 様子を伺いたかったが、私が変に警戒すると相手にも伝わってしまうだろう。

「母さんが怒るよ」

 帰りたいとも帰りたくないとも言わない。私が帰らない理由を見つけてしまえば彼は少しでも楽になるのだろうかと考える。

「妹の家だしいいんじゃないかな。お姉ちゃんには私から話しとくし……。いいよ、帰らなくても」

「でも……」

 洋梨を切る手が思わず止まった。いけないと思い、急いで言葉を探す。こういう時にスラスラ話せる冷静な人になりたかったと無関係な理想が邪魔をする。

 そんな理想を払い除けて、口を開いた。

「そうだなぁ。帰りたくないわけをお姉ちゃんには話せる?」

 悠くんは首を横に振る。

「じゃあ私には話せる?」

 首は振らなかった。

 とっくに食べ終わっていた食器と、みかんと洋梨の乗った新しいお皿を交換した。

 私も悠くんの前に座り、洋梨を一口食べた。口いっぱいに広がる梨の水分が喉をなぜだか乾かした。

 水を一口飲み、悠くんにも食べるよう勧めた。悠くんはみかんを手に取り、手で温めるように包んだ。

 みかんは皮を剥く前に揉んだら甘くなるという噂が小学生の時に流行った。その癖で私もよくみかんを揉んでしまう。

 あとから知ったが、みかんは揉んで一時間ほど放置したら甘くなるらしい。揉んですぐは甘くならない。

 悠くんはみかんを持ったまま、ゆっくりと口を開けてゆっくりと閉じる。

「僕が」

 私のみかんを剥く手が止まり、少しベタつく手を重ねて言葉を静かに待った。目を合わせたまま、じっと待つ。

「僕が熱で学校休んだ時、知らない女の人が家に来た」

 悠くんの言葉を頭の中で繰り返す。私が感情的にならないよう、しっかりと彼に言葉を伝えられるように。

 なのに、全身がゆっくりと冷えていく。悠くんはいつから冷たくなっていたのだろうか。

「うん」

 喉が痛い。声を出す度、筋肉がえぐられるような痛みを感じる。

「母さんが帰ってきたのかなって思ったけど、違う人だった。布団の中に潜って寝たふりしたんだけど、お父さんまんまと騙されてさ」

 髪の毛が顔にかかり、小さな影が生まれた。悠くんは影の下でより暗い表情を浮かべている。

 布団に潜ると少しだけ息が苦しくて真っ暗だ。音を立てないよう、息を殺す。じんわり暑くなっていく布団の中で足音が遠ざかるのを待つ。

「多分お父さんは僕が休んでることも知らなかったと思う。部屋覗いたら誰もいないからいいかって油断したんだと思う」

「お父さん前日は家にいなかったの?」

「うん。三日に一回夜帰ってくるくらい」

 やるならもっと上手くやれよと怒りが込み上げてくる。崩れていく中で何とか笑いあって暮らしていた二人を想像すると私も崩れそうになる。

 さっき置いてしまったみかんの皮を全て剥いて、一つ一つバラバラにした。

「お父さんの部屋、僕の隣の部屋なんだ。だから声が……」

 私の目を見て笑う。目を細めて、口角を上げるだけの表情だけで吐き気を誘う。何があったかまで言わせたくなかった。そんな顔で笑わないで欲しかった。私は思わず悠くんを抱きしめた。椅子の倒れる音が部屋に響き、鈴がリンと短く鳴った。

「どうしたらいいかわかんなかった」

「うん」

 熱い息が私の体に広がる。悠くんはゆっくりと話し続ける。

「母さんに話せなかった」

「うん」

「どうしたらいいか、わかんなかった」

 普段ゆずはテーブルの上に乗らない。ご飯を食べる時も、私がここのテーブルでなにか仕事をしていても決して邪魔はしない。終わるのをじっと待って、片付いたことに気づいたら私に擦り寄って甘えてくる。

 気づくとゆずはテーブルにあがり、私と悠くんを交互に見ている。

 悠くんの腕に頭を擦り付ける。悠くんはそれに気づいたのか、私の体をどかすことなく、腕でゆずを探してそっと撫でた。

「僕がなにかしちゃったのかなって考えた、んだ。僕の知らないところで母さんと喧嘩したのかなって。僕は」

「うん」

 大きく息を吸い、涙を堪えようとしていた肩が大きく落ちる。

「なんでなんだよ」

 声を荒らげることなく、声量はさっきと比べると随分と小さくなった。悠くんは降り始めの雨のように涙を流した。どんどん強くなる雨に傘をさせるのだろうか。私は彼に躊躇うことなく、傘を渡せるのだろうか。

「それが何回も続いたんだ。学校に行ってもすぐ疲れて早退ばっかして」

「なんであんな奴に僕が振り回されないといけないんだって思ったんだ。でも」

 柚を撫でる手が止まり、それに気づいたゆずは手を舐めている。

「三人で食べた母さんの作るからあげが美味しかったことが忘れられなくて。嬉しかったんだ。日常というか、僕がいても母さんがいても父さんが普通に笑ったり怒られたりすることが。もうなくなっちゃったと思ったらどうしたらいいかわかんなくて」

 涙を膝に落としながら、しっかりと話す。抱きしめている腕により力が入り、息を吸うことが難しくなる。

「どうするのが良かったんだろうって考えてたら朝に起きれなくて、もう何ヶ月も学校も行ってないんだ」

 この三連休、だから見慣れないシンプルな表紙のワークばかり解いていたのかと納得した。私も少し問題を覗かせてもらったがもう思い出せない数学式ばかりで頑張ってねと声をかけることしかしなかった。

 私にも学校に行けなくなった時があった。その時に教科書を開くという選択肢があることにすら気づかなかったのに、悠くんは塾に行って勉強を疎かにはしていなかった。

 彼にとってこれが現実逃避にちょうど良かったのだろうか。

 妙に礼儀正しいところや相手の顔色を伺いがちだなと思いながらたった三日を一緒に過ごしたが、もしかしたら悠くんはもう既にお父さんの連れてくる女と鉢合わせて話してしまったのかもしれない。

「じゃあ学校の道具はいらないね。他に置いてきた塾の教材は私が取りに行く。お姉ちゃんとも上手く喋れてなかったんじゃない?」

 寂しかっただろう。姉は半年前と言っていたが、おそらく何年も前から彼は違和感と共に生活していて、それが姉の気づいた半年前に確信に変わってしまったんだろう。

「うん。母さん最近疲れてるんだ。帰りも遅いし」

 鼻をすする音が聞こえた。ゆっくり悠くんから離れて、ティッシュを取りに行く。

 悠くんの顔は少しだけ赤くなっていた。目は虚ろになり、ずっと足元を見つめている。

 新しい水をコップに入れ直して、飲むよう伝えた。

「昼も夜もお父さんも母さんもいないんだ。だから千佳さんが来ていいよって言ってくれたの嬉しかった。帰らなくていいよって言ってくれたのも嬉しかった」

 水を飲み干して、鼻をかんでいる。すっきりしたのだろうか。不自然な沈黙が続いていたさっきに比べると表情が少し明るい。

 それなのに私はどんな顔をしているのだろうか。眉間に力が入る。奥歯が痛い。

「いいんだよ。いつでも来ていいんだよ。逃げておいで。悠くんがどうしようもなくなっちゃった時、直接手を差し伸べることはできないかもしれないけど最後の力を振り絞ってここに逃げておいで。私はいつでもこの家に帰ってくるよ。柚も待っててくれるし」

 私の方を向く彼の顔は明るくなったんじゃない。諦めたんだ。何となく、直感でそう思った。

 知っている。何度も見たことがある。何度この顔を向けられたかもう覚えていないが、一人一人の顔を思い出せる。

 肺の辺りが締め付けられる。傷つくと胸が痛くなるというが、あれは本当に痛くなる。立ってられないほどの痛みが襲う。

 話しても楽にならない事実を今彼は知ってしまったんだろう。どうしようもなく吐き出したかったことを吐いて、得られたものは何も無い。彼がもし今そういったことを考えているのであれば、違うと訂正したかった。無力な自分に打ちひしがれている暇なんかないんだと何度も言い聞かせた。

 笑うしかない。自分で抱えていくしかない。誰にも言わない方が良かったとその後悔も気づきもまだ早い。まだ戦っていてくれ。と願う。悠くんの下げてしまった腕を掴んだ。膝をつき、焦点の合わない目を必死に追いかける。

「逃げるだけじゃ何も解決しない。お父さんもお母さんも元には戻らない。だけどね、お姉ちゃんにも言ったけどあなたの背負うことじゃない」

 正しい言葉などない。どこに行ったって、誰と話したって私たちは正しい言葉を知らない。どんな状況になっても間違えてしまう。今も私は間違い続けているが、悠くんの話してくれたことに、紡いだ言葉に間違いなどないと本人がそう思ってくれないと私が悔しかった。

「大人になっても自分の作ってきた人生に責任の取れない人はいる。それを誰かに背負わせる大人に、あなたの人生が壊されることが許せない。私はそれが許せない」

 悔しい。ただ、悔しい。会う度に私に色んな話をしてくれた。得た知識を披露してくれるあの時間が大好きだった。本当に私の癒しだった。私がその知識を得た時、そんな視点から物事を考えられない。と新しい発見に何度も気付かされた。

 そんな癒しをくれた少年が今、暗闇を彷徨うだけの人生を送っているだなんて、お姉ちゃんもきっと張り裂けそうなくらい悔しくて辛いだろう。

「子供だから。十三歳だから。そんなのは関係ないのよ。嘘をつくこと、大事なことを言葉にしないで見て見ぬふりすること。自分の犯した罪を人のせいにして笑って生きていくこと。そんなことは絶対にしちゃいけない。絶対よ。私たちは死なない限り苦しみがその辺に転がってる。だけど、そうだったとしても誰かに痛みを与えられるて苦しむことと、自分の痛みを苦しむことは違う。誰かに付けられた傷は苦しまなくていい痛みなの。それは自分の痛みとは違うわ。誰かに慰めてもらっていい。誰かに甘えて大きな声で泣いてしまっていい。あなたのお父さんが苦しまないといけないことを、あなたたちが苦しんでいては誰も笑えなくなってしまう。何もかも間違えたのは悠くんじゃない。絶対に、悠くんじゃない」

「でも、僕が僕の知らないところでお父さんを傷つけたかもしれない。僕が母さんと父さんの仲を悪くさせちゃったかもしれない。僕はいない方が良かったのかもしれない」

 私は目を離さなかった。悠くんの腕を一度離し、手を握る。膝が痛い。それよりもずっとずっと体の奥が痛い。

「自分が楽になるために、ついた傷以上の傷を自分でつけてはいけない。痛みを痛みで和らげてはいけない。お母さんもお父さんも気づいてるよ。悠くんは悪くないってわかってるんだよ。なのに、自分じゃ抱えきれないことをしてしまった馬鹿なお父さんはあなたに無意識に押付けていたかもしれない。でも、お母さんは悠くんが悪くないってわかってるから、戦ってるんだよ。お母さんはずっとあなたのために戦ってくれてる。大丈夫だよ。怖いかもしれない。痛いかもしれない。でも、悠くんを守る悠くんの大好きな人、悠くんのことが大好きな人がいる。どうしたらいいか分からないってさっき言ってたね」

「うん」

「信じたいことだけ信じてもいい。見たいものだけ見ていてもいい。だけど、それが未来を邪魔するようなら戦わないといけない。言葉にできない、伝える努力もしないお父さんと向き合わないといけない時が必ず来る。でも今悠くんは私に話をしてくれて、苦しいことを伝えてくれた。お母さんと一緒に強くなれるよ」

 悠くんは艶々に光る目をこちらに向け、首を少し傾ける。そのわずかな振動で涙が落ちた。

「もう元には戻らないの?」

 私の手も震える。悠くんの手がどんどん冷たくなっていく。私の手はこんなにも熱いのに。泣いてはいけない。彼の言葉全てが棘とのように刺さる。だけど、ここで私が怯んでしまえば彼らこれから先誰かを信じるとき、壁が生まれてしまう。自分が話したせいで誰かを傷つけた。自分が楽になるために誰かを追い詰めたと不快負い目を感じるかもしれない。そんなのは望んでいない。

「戻らないかもしれない。壊れたものを取り戻す努力は悠くんのやることじゃない。それはお父さんのやらないといけないこと。だけど、お父さんがそれをするかは分からない。どんな結果が待っていようと笑って生きてやるしかない。悠くんの苦しんだ時間はすごく大事な時間だった。ずっとずっと頑張ってたよ。次はお父さんとお母さんに頑張ってもらおう。もう十分頑張った。よく頑張ったよ」

 私の手の甲に涙が落ちる。何度も何度も落ちていく。

 ゆずはずっと悠くんの隣にいた。

「だから逃げていいんだよ。たとえ悠くんが頑張ってないと思ってても、私が頑張ったと思ってるの。だからここは悠くんが自分を責めたとしても、自分を許せなかったとしても、あなたが存在していていい場所。何があってもあなたを見捨てたりしないし、あなたに責任転嫁するような人はいない」

「でも、僕、母さんが」

 声が途切れる。背中が小刻みに揺れ、落ち着こうと必死な悠くんが目の前にいる。

 背中をさすり、落ち着くのを待った。自分で深呼吸を始めたことに安心をして、また水を入れた。

「飲める?」

 頷く。ゆっくりと水を飲み、深く息を吐く。

「母さんと一緒にいられるかな。父さんとは一緒にいられなくても、母さんとまだ一緒にいてもいいのかな」

 体が浮いている気がした。全身が強ばっているのに、どこか現実味のない能天気な体の一部がふわふわと中を舞ってしまいそうだった。

「お母さん、喜ぶよ。悠くんが産まれた時、お母さんが一番泣いたんだから。悠くんがいなきゃあの人はきっとずっと苦しいよ。まだまだそばにいてあげて」

 十三年前の九月二十二日。確か午前六時頃だった気がする。悠くんを抱き上げて、悠くんよりもお姉ちゃんが一番泣いた。痛みに耐えて苦しみから開放されたからあんなにわんわん泣いたのかと思ったが、後日話を聞くとそうではなかった。

 いつか悠くんに話そうと思っていたが、きっとこれはお姉ちゃん本人から聞いた方が嬉しい気もする。

 自分で自分を苦しめること。それは人に傷つけられるよりもきっとずっと痛くて、苦しかっただろう。そうしたら楽になると見つけ出した答えが間違っていたこともきっといつか気づく。

 姉と悠くんがこれから先上手く話せるのか。雅俊さんと姉が上手く話して、そこにちゃんと悠くんの息の吸える場所を用意できるのだろうか。

 ここからはもう私が考えても、色んな案を出しても彼らの問題だ。せめて何かあった時、もう一度彼がこの家に来て笑ってくれるよう、落ち着くまで待っていようと思った。

 悠くんは目を擦ったあと、鼻を何度かかんでゆずを抱き上げた。慣れた様子で膝の上に乗せ、顔を優しく撫でている。

「また来るからな」

 か細い声でそう言うとゆずは『ンニャー』と元気よく鳴いた。



 悠くんの背中が何度も街に溶け込もうとするが、今日は目が離せなかった。このままみんなの知らない場所に、探しても今から追いかけても追いつけない遠く、寂しい場所に行ってしまってはどうしようとただ心配だった。

 すると悠くんはこちらを振り向いて手を振った。

 上げかけた手が止まり、声が先に出た。

「またね」

 複数の視線を感じる。私は今街の外にいる。それでも大丈夫だと、どこかに行って溶け込めなくても、溶けすぎて元に戻ることが出来なくなっても、それでも大丈夫なんだよと思い切り手を振った。

 最近までお昼はまだ暖かかったのに、今はもうマフラーをしないと寒くてポケットに手を入れたくなる。気温の下がる早さに追いつけないが、冬は好きだ。

 何となく白いモヤのかかる空も、本当に今回の冬も終わるんだろうかと不安になるくらい時間が遅く感じられる毎日でも、不安を拭い、間違った言葉で自分を騙してやっていく。

 その間違いがいつか正解になるように信じて、正解だと思っていたものが間違いだと気づいても足を止めないように。

 ふと息を吐いてみる。風が背中からコートの中を抜けていく。緊張していたのか、体がずっと強ばっていたのか、じんわり汗をかいていた。おかげで体が一気に冷える。

 悠くんが全く見えなくなり、私も家に帰ることにした。

 足取りは軽いが体に入ってくる空気は重い。全身がさっきの風によって冷えてしまい、関節が動きにくい。

 夏の青空が深海のような深い青だとしたら冬の空は子供の作る水色のような色。心躍るわけもない空を眺めながら、枯れていく雑草を踏んづけながら帰った。

 家に帰るとゆずのために温めていた部屋の熱気。そのおかげでよく眠れたと言わんばかりの寝起き姿でゆずが迎えに来てくれた。

 ゆっくりゆっくり頭を撫でると何度も頭を私の手に押し付けてくる。

「悠くんまた来るってよ」

「ンニャーー、ニャーー」

 寂しそうにドアを見つめる。私もゆずの隣に座り、足に顔を埋めた。

 


 猫の苦手な姉と猫が好きな悠くんがとっくに桜の散った五月に遊びに来た。

 ゆずは嬉しそうに何度も何度も鳴いていた。

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吹き抜ける春風を追いかけて 白山無寐 @__wh_0_

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