星の顔

空間なぎ

星の顔

私は面食いではないけれど、彼女の顔が好きだ。

特に彼女の両目には、抗いがたい誘惑を覚える。

魔力を秘めたような幅の広い二重に、漆黒の瞳。

ブラックホールのごとく私を引き付けて離さない重力の終着点、それを感じるのは歴代の恋人のなかでも彼女だけだ。1人目、2人目、そして3人目の恋人も思い返せば悪くはない顔立ちだが、目にこれほどまでの憧憬を抱いたのは初めてだった。

初めて出会ったとき、その造形の美しさに感嘆し、それがまた特段飾り立てられたものではない事実に驚いた記憶がある。

そして耳から頬にかけての緩やかな曲線、沿うように流れる黒髪のボブ。やや主張に乏しい小さな鼻には、田舎のおばあちゃんを思わせる丸メガネがちょこんと乗っている。

彼女の顔をデザインした神様がいるのならば、目にだけ力をそそぎ残りは手を抜いた、そう解釈しても間違いではないだろう。

この世すべての善意、素朴、慈愛を体現したような彼女は、時代が時代ならば聖女として絵画に描かれていたに違いない。そう私は思う。

もっとも、それは外見だけの話ではない。


彼女は慈愛に満ちた、素晴らしい人間である。

それがやや自己犠牲的であっても、彼女の周りの人が下す彼女への評価は揺るがない。誰も彼も、自分に都合の悪い事実は忘れるからだ。彼女が最後に笑って「大丈夫ですよ」と言えば、それで問題は終わりを迎える。

たとえ彼女が自分の時間を犠牲にしても。

たとえ彼女が自分の所有物を失っても。

たとえ彼女が自分自身を手放しても。


だから私は、彼女を守っている。

そこに愛はない。ただ単純に、自分の好きな顔が世界からひとつでも減るのなら損だと思うから。


「ごめんね。今日も遅くなるかも」


スマホから聞こえる彼女の声は、かつて私と付き合い始めた頃の危うさをはらんでいた。

よくない兆候だと頭では理解していた。だが、止められなかった。理由は自分でもわかっている、いつからか彼女の疲れた顔にすら美しさを覚えるようになってしまったからだ。善意も素朴も慈愛も彼女の魅力であるのは確かだが、同時にそれらが壊されていく瞬間もたまらなく魅力的だった。疲れ、歪み、堪える表情。彼女は決して、愚痴をこぼすことも誰かの悪口を言うこともなかった。それでも顔に浮かんでくる感情は嘘をつかない。

そんな彼女を知らない周りは、聖女だと持てはやす。自分とは違う、まるで人格者だと崇める。


私は時折、彼女の丸メガネを粉々に破壊してしまいたい衝動に駆られる。なにが聖女だ、なにが素晴らしい人間だ、と。彼女自身が望んで自己犠牲的な生き方をしているのは承知の上だったが、まるで丸メガネによって彼女の本音が封じられているように思えて、そんな勝手な解釈が私の根底に流れる怒りをふつふつと煮立たせていた。


「先に寝てね。それじゃ、おやすみなさい」


了承の返事を告げ、就寝の挨拶を口にしたと同時に流しっぱなしのテレビがニュース番組に切り替わる。いつも通り、アナウンサーが深刻な顔でニュースを伝えていた。私はスマホをソファーに投げ出してテレビを消し、気だるい足取りで寝室に向かった。彼女から連絡が来た以上、スマホにもテレビにもリビングにも、もう用はなかった。


彼女と共に寝る夜よりも、ダブルベッドでひとり寝る夜のほうが圧倒的に多い。世間から見れば、私は女が好きな女というジャンルに区分けされるはずだが、性がどうこうという具体性は持ち合わせていなかった。彼女が他人のために自己を手放す勇気を保っているのならば、私は自分のために自己を手放す怠惰を飼っているのだった。受験から始まり就職、結婚に至る「普通」のライフプランは正月に姪たちと遊ぶ人生ゲームに等しい。生憎、他人のあれこれに共感や感傷を覚えるほど私は世界にも自分にも興味がない。

人生ゲーム、および人生はただサイコロを転がして出た目に沿って進むだけであって、数字が出た意味や必然性は大して重要ではない。止まったマスにどんなイベントがあるのか、それにより何が起こるのかがメインであって、彼女と出会ったのも付き合い始めたのも適当に足を向けた先でのひょんな契機からだった。


私と彼女は、大学の天体観測サークルに並んで籍を置いていた。私は就活のため手っ取り早く参加でき抜けられる小規模サークルを探していて、彼女は廃部を懸念し自ら入部を申し出たという。上級生は幽霊部員も含め4人で、その年の新入部員は私と彼女だけだった。


私たちはすぐには打ち解けなかった。

彼女の顔はたしかに私の好みではあったけれど、日々のアルバイトや授業を凌駕して熱中するほどの魅力は感じなかったし、そもそも天体観測サークルに名前以上の価値を見いだせなかった。

そんな距離感のうち、2年が経つとやがて彼女のほうから話しかけてくるようになった。先輩方が憂いていた廃部危機は、辛くもポツポツと新入部員が入ることで首の皮一枚、免れていた。

彼女は丸メガネの奥で、善良を瞳に被せて優しく微笑み、私の隣で延々と話し続ける。あの教授は出席だけで単位をくれるから楽だとか、今度の学祭では芸能人が来るらしいよとか。

ほとんどは彼女自身も興味のなさそうな世間話、雑談で、私は適当に相槌を打ちながら翌月の希望シフトについて考えていた。そんな私を、いったい彼女はどのように思っていたのか知る術はない。それでも、きっと漆黒の瞳に軽蔑の光は浮かんでいなかったように思う。でなければ、恋人関係を始めることもなかっただろうから。


就職活動を終え、いよいよ卒論と卒業を控えるのみとなった私たちはサークルで旅行に行った。

私と彼女、そして後輩たち数人で訪れたのは天体観測とは何の関係もない九州で、それは普段他人の意見に追従しがちな彼女たっての希望だった。

空港に着くと、後輩がへらへらと笑いながら問う。「先輩、なんで九州なんですか」彼女は真剣な表情で言った。「もう二度と来ないから」

いつも希望は他人に譲り、どんな依頼にも肯定する彼女にしては珍しく強い口調だった。

私は「まぁまぁ」と口先で後輩をたしなめ、先程の彼女の言葉に九州のどこが「もう二度と来ない」と決定づけさせているのか思案した。

天体観測サークルの旅行とは名目ばかりで、宿に着いてからは私と彼女、そして後輩たちの2グループに別れ観光という流れになった。遊びたい盛りの若者たちを見送り、私と彼女はふたりホテルの部屋で静かに各々の生活を進めた。静寂のなか、響くのは夏季から秋季に延期された花火大会の火薬の音のみ。皮肉なことに、窓に見えるのは惚けた表情で外を見つめる自分たちの顔だった。


星のひとつも見えない夜。

花火大会が跡形もなく去りゆく夜更けを狙って、私は彼女を散歩に誘った。彼女は不思議なことに誘いを断り、私は内心動揺する。二重のまぶたはただ眠そうにも見えたし、動揺を嘲笑っているようにも見えて私はますます混乱した。

あの自己犠牲的なまでに他人に尽くし、従い、差し出してきた彼女が私に求めてきたのは、


「ねぇ、愛してるって言ってくれない?」


という、ささやかな救いの頼みだった。

瞬間、私は合点する。彼女が九州に行きたがったのも、私にこうして愛の言葉をささやかせようとしているのも、すべて彼女の過去に起因する感情を追っているからだろう。

私は彼女の両目を見つめ、言った。


「愛してる。私と付き合って」


彼女の漆黒の瞳に、星が煌めいた。

目の前の私ではなく、彼女は自身の瞳にかつて存在した光の影を追っているだけなのだと痛いほど理解していた。それでも、私は人生というゲームのサイコロを振らずにはいられなかった。


「もっとよく見せて」


私は彼女をベッドに押し倒した。

丸メガネの奥、鈍く輝く星を有する顔には、恍惚とした表情が浮かんでいた。

目を逸らすことはもう、できなかった。


のちに、彼女が本当に天体観測のために九州に行きたかったのだと打ち明けたとき、私は安堵を覚えた。真っ直ぐな善意、シミひとつない素朴、なだらかな慈愛には反対に悪意、華美、非情を疑ってしまう。彼女はただ、私に「愛してる」と言ってほしかっただけなのかもしれない。どのみち、私たちはこうして恋人という関係に落ち着き、ひとつの家にふたり身を寄せる生活になった。

ベランダには望遠鏡、壁には星座の早見表と彼女は天体観測サークル出身の名に恥じない趣味で私たちの家を彩った。流星群の時期には、ひとりベランダで夜空を眺める後ろ姿があった。


私には、星の魅力なんてちっとも理解できない。

どれもチカチカと光って、吹けば飛ぶほど小さくてホコリと大差ない。実在しているかどうかも危ういのに、よく見上げて疲れないものだ。我ながら、よく天体観測サークルに籍を置けたものだと思う。彼女にそうつぶやくと、困ったように眉を下げ「そうかもね」と微笑んでいた。


朝、起きると彼女の姿はベッドから消えていた。

私よりも遅く就寝したはずだが、もう起きたのだろうか。ベッドの脇のサイドテーブルには彼女の丸メガネが置物のように鎮座し、私は胸騒ぎに足を速めリビングへ向かった。


「おはよう」


私の顔を見るなり、彼女は笑って言った。

丸メガネのない彼女の顔を見るのは、随分とひさしぶりのことだった。ブラックホールの瞳は、ほの暗く私をとらえて離さない。ガラスを隔てず通じる彼女の真意は、どこまでも善良とはかけ離れていた。暗闇が行き場を求めて溢れていた。


「ねぼすけさんだね」


違う。そう私の心は叫んだ。

私の曖昧な返答にも彼女は微笑みを崩さず、小さな子どもに言い聞かせるように諭した。


「星が、よく見えるようにね」


私が求めていたのは、望んでいたのは彼女の顔だったのに。それ以上でも以下でもなく、彼女はただ無知なままで私に守られていればよかった。


「コンタクトにしたの。顔がよく見えるように」


光の居場所は既になかった。

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