黄昏の反響


薄暗い部屋の中で、武田はキーボードを叩いていた。


大学の課題レポート


テーマは「現代社会における個人主義の変わり方」


興味がない訳ではなかったが、その言葉は彼の胸を微塵も揺さぶらなかった。



“こんなのただの点稼ぎに過ぎない”



溜め息混じりの呟きが、狭い部屋の壁に吸い込まれていく。


彼はコーヒーカップに手を伸ばし、飲み干した。


目の前の文章は、薄っぺらな知識のコラージュでしかなかった。それでも書かねばならない。単位を取る為、卒業する為。



そんな日常が、彼を取り巻く現実だった



大学三年生。


将来のことを本格的に考えなければならない時期だ。周りの友人たちは就活に励み、インターンやエントリーシートの準備に追われていた。


だが武田は、その波に乗り切れず、どこか宙に浮いた様な状態でいた。



『俺は何をしたいんだろう』



思わず漏れてしまった言葉に、自分自身で笑ってしまった。


自分を形作るものが何一つ見えないからだ。


高校時代、部活や勉強に打ち込んでいた頃の情熱は、今はもうどこにも無く、ただ毎日を惰性で生きている。


大学に入学した頃は、もっと華やかな世界が広がっていると思っていた。新しい友人、自由な時間、学びたい事を好きなだけ学べる環境。



それらは確かにそこにあった。



だが、時間が経つにつれて、その輝きは失っていった。


飲み会やサークル活動も、最初は楽しかった。


だが顔ぶれが変わらないまま繰り返される集まりは、次第に形式的なものへと変わっていった。


笑顔の裏に隠された欲望や、無意味な会話に、次第に疲弊していった



全て上っ面なだけ。



一人で過ごす時間が増えるにつれ、自分の中に虚しさが積もっていった。将来への不安、無価値さ、空虚な時間。




それらが、暗影を落としていた。




ある日、キャンパス内のカフェで、友人の篠原と久しぶりに顔を合わせた。


篠原は、同じゼミに所属する中で特に親しかった友人で、お互いの皮肉っぽい言い回しや、投げやりな態度が、なぜか心地よく話していて楽だった



「武田最近どうよ、就活、進んでる?」



篠原が髪を掻き上げながら尋ねる



『ぼちぼち。まだ何も決まってないし、イマイチやる気も出ない』



武田は酷く曖昧に答えた。



「まあ、そんなもんよ。でも俺たちもう時間ないじゃん。次のエントリーまでにはどうするか決めないと、後がない。」



篠原の言葉は、冗談のように聞こえるがその奥には確かな焦りがあった。


彼もまた、大学生としての日常の中で、将来という名の重圧に押し潰されそうになっている。自分だけではないのだ。



「本当はさ、こんなことしたくないんだよな、就活とか、内定貰うためだけにこれっぽっちも興味ない会社にエントリーシート送るとか、なんか全部、違う気がする」



そんな彼をじっと見つめていた。自分と同じように、彼もまたこの現実に馴染めずにいる。



その共鳴が心を慰めた。



『篠原は何がしたいんだ?』



その問いに、篠原は少しの間黙った。そして、うっすらと笑いながら答える



「本当の事を言うと映画とか撮ってみたい。映像を通じて、何かを表現してみたいと思ってる。でもそんなので食っていけるほど現実は甘くないと思って諦めてる」



その言葉に驚いた。



篠原がそんな夢を持っていたとは知らなかった。


同時に、彼に羨望を感じた。


自分には、そんな風に心からやりたいことなど何もない。ただ漠然と空白を埋めるように毎日を過ごしているだけ。



「お前は?何かやりたい事とか、ないのか?」



篠原の問いに、言葉を詰まらせた。頭の中で何かを探そうとしたが、何も見つからない。自分の中に、心から望むものが一つもないことに気づいた。



無性に苛立ちが込み上げた。



『分からない俺には。何をしたいのか、今でさえ何をしているのか分からない』



そう吐き捨てた瞬間、カフェに居た学生のざわめきが遠のき、自分の声が酷く空虚に響いた気がした。



篠原はそんな彼をじっと見つめ、

そして小さく笑った。



「まあ、無理に見つける必要もないんじゃない?焦っても仕方ないし、俺たち、まだ若いし」



『若い、か。』



その言葉に苦笑した。若さは確かにある。だがそれをどう利用すべきなのか、何かに賭けるべきなのかが、全く見えない。




その夜、彼は一人狭いアパートのベランダに出ていた。


夜風が冷たく、遠くの灯りがぼんやりと揺れている。



『何がしたいんだ、俺は』



自分に問いかけても、答えは返って来るはずもない


就職すれば、社会の一部として役立てる存在になれるのだろうか。


それとも、自分の無能さをさらに自覚するだけなのだろうか。





そう考えていると彼のスマホに通知が届いた。

篠原からのメッセージだった。



「今日は話せてよかった。今度時間ある時、パーっと飲もう」



その短い言葉に、心が軽くなるのを感じた。


互いに、宙に浮いている状態であることに変わりはない。


でも、そんな自分を分かってくれる存在がいるという事は、確かな救いなのかもしれない。



『またな。』



そう短く返信をし、彼は空を見上げた。

夜空に浮かぶ星は、手の届かない場所に散らばり、光を放っている。



あの星のように、自分の人生の意味も、まだ分からず手も届いていない



この日々の中で自分が何者か分からなくても、少しずつ、何かを見つけていくしかないのだろう。



意味や目的を求めず、ただ生きること。

それが自分にとっての唯一の答えだ。



今はまだこれで良いのかもしれない



小さく息を吐き、部屋に戻った。机の上に散らばった資料を片付けてベッドに向かう。



明日もまた、何も変わらない日々が続くだろう。



今はまだ、不確かな日常。


それでも、彼はその先に何かを見つける事が出来るようになると願いながら、静かに目を閉じた。

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そして琴線に触れた 翡翠 @hisui_may5

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