「スタンス」について
皆さんは、「コミケ」というものに行ったことはあるだろうか。
私はない。子供の頃からマンガは好きでよく読んでいたが、一般平均並みの関心度を超えない程度のものだ。
ところが、毎年このイベントでは凄まじい数の人たちが行列を作り、自分の作った渾身の作品を披露したり、それを熱心に探し集めたりする。「創作かくあるべし」といったマーケットだ。
マーケットと言っても、売り手がこのイベントから金銭的な利益を期待しているケースは稀だろう。買い手も有休やら交通費やらを喜んで捧げ、常識的に想定できるところの「コスパ」など度外視で戦場にやってくる。
彼らの目的は何だろうか?
「創作」というものが持っているエネルギーの正体は何なのか?
私個人にとって、それは次のようなものである。
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「アウトブレイク・カンパニー」というライトノベル(&アニメ)がある。
これは美幼女の皇帝陛下、ハーフエルフのメイド、巨乳の獣耳少女、眼鏡っ娘自衛官など、あからさまな世界観を整えておきながら、ストーリーの大筋自体は非常にセンセーショナルな作品だ。
異世界に通ずる穴を発見した政府は、そこから垣間見える「魔法」や「幻獣」の脅威に対して自世界を守ろうとする一方、それらを懐柔してこちら側の資源にするという試みも発想された。
現実世界であればよくあるシチュエーションで、普通なら武力戦争が始まるところなのだが、相手はなにしろ未知の世界だ。容易に敵対関係を推奨できない。そこで政府が考え出したのが、「オタク文化に精通した一人の少年を向こう側に送り込む」ことだった。
大使として王宮に迎え入れられた彼は、日本のサブカル作品たちを異世界に持ち込み、皇女さまにそれを布教する。皇女はそれらの作品から日本の「倫理観」や「感性」を学習し、自分の世界の政治や法律に反映させていく…。
つまり、政府が行ったのは、「文化的侵略」。ミームという感染症のアウトブレイクだというわけだ。
ジブリの宮崎駿も、ある映画を作っている最中、「新しいウイルスを作ってるみたいだ」と発言したことがある。
これらを参考に、私はこう考えた。
我々が創作と称して作っているこれらは、文化兵器なのではないかと。
物理的な戦争が咎められる泰平の時代になっても、我々の魂には「侵略」と「支配」の本能が残っていて、自ら喜んで服用され、しかし強烈に効果があり、なおかつ感染者がそれに気が付かない毒をせっせと開発している。
インターネットの普及によって、思想や嗜好の版図を塗り替え合う個人間のサイバー戦争に発展している。
ちょっと飛躍しすぎている気もするが、そう考えれば、私が創作に携わる理由は確かにそうだ。
私はカクヨムに参入する前から、ちょっとしたシナリオを制作する趣味は持っていたが、思い返すと、そのどれもが「伝えたいことありき」のストーリーだ。
私は世の中の善悪についてものすごくフラットに考える人間で、自分の考え方をそのまま人に説明してしまうと、他人が大切にしているものを気づかずに踏みつけてしまう可能性がある。
だが、それを「作品」として発表すれば、私の考えが気に入らない人でも「まあ胸糞悪かったけど、小説としては別にいい」となるだろうし、もし気に入ってくれた人が影響を与えられたと感じてくれたなら、私の侵略は成功したということだ。
ああ、自分は他人の人生に影響を与えられるほどの存在なんだ、という自己肯定感が私自身に対する成功報酬になる。
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……と、暫くこれを一般論のごとく振りかざしていたのだが、改めて考え直すと、上記は明らかに創作界隈の動向原理を完璧に説明できていないことに気がつく。
気がついたきっかけは、ピッコマノベルズ大賞に応募したときだ。
このコンペでは、第1〜第4シーズンで募集がかけられ、それぞれ男性向けと女性向けのセクションに分かれている。シーズンごとに「募集テーマ」が決められているので、合計8つのテーマが募集されていることになるわけだが、これらはつまり、ピッコマにとって集客がしやすい、「代表的テンプレ」ということだ。
そして創作初心者の私は界隈の門を初めてくぐり、すぐさま自分の常識を見直すことになる。
「現代ダンジョンって何だよ!!」
まず世界観のイメージが全く掴めない。「VR」というテーマを観たときには、「プレステの話とかしてる?」と思った。
要するに、「今、そんなニッチなジャンルがテンプレと呼ばれているのか?」ということである。
例えば「ダンジョン」だけなら分かる。ダンジョンでメシを作るもよし、出会いを求めるもよし、ダンジョンと何をかけ合わせるかというのが書き手の発想力を試す余地になるだろう。もしこの応募作品の中に、ダンジョンと「現代」をかけ合わせた者が現れたなら、なるほど興味深いアイデアだとなる。
だが、既に「ダンジョン」も「現代」も決められていたら、もう創作の余地がほとんどない。そもそも、その2つのかけ合わせ自体が独特なのに、それを大きなジャンルとして確立しようというムーブメントが改めて理解不能だ。
だが、小説家を目指す者にとってこのコンペは一つのチャンスになるだろうし、コンペに応募するためには指定された条件に迎合しなければならない。そして今述べたように、その行為は「自分の想像・創造力の大半を切り捨てる」ことに繋がる。
仮にコンペに通って小説家の道が開けたとしても、今後それで金を稼いでやっていくためには、プロダクトアウトではなくマーケットインにならざるを得ない。
ここに、「書きたいものを書く人間」だけではなく、「物書きが好きだから、それだけで生活したい人間」の存在が認められ、私の仮説は破綻した。
最後に、これらを受けて考え直した、一般的に作家が目指すべきスタンスの仮説を述べたい。
結論から言うと、「アウトブレイク・カンパニー」こそがミニマックス戦略の勝者なのではないだろうか。
書きたいことだけ書いていると受けが悪く、結果的にミームの感染力が低い。
受けることだけ書いていると創作の腕が振るえず、熱意が下がる。
アウトブレイク・カンパニーは、ありがちな設定をわざと盛り込んで商業的価値をキープしつつ、最後まで読んでみればしっかりと内容のあるウイルスになっている。
「文化兵器の製造系作家」は苦い毒を飲ませるためにパッケージを親しみやすくすべきだし、「金儲け系作家」はモチベーションが落ちないように、こっそり自分しか作れない毒を混ぜる。
このあたりが最適解のスタンスではないだろうか。
創作研究レポート 野志浪 @yashirou
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