第2話
パチパチと、松明の弾ける音が響いている。同時に、お香のような甘い匂いも漂ってきた。樹は身じろぎし、ゆっくりと瞳を開いた。真っ白な天井が見えている。これって病院だろうか。だけど、こんなふうにお香を炊くなんてありえない。じゃあもしかして、あの世? 樹は、突拍子もない考えをすぐに否定した。現実主義者の樹は、そういう場所があると信じていない。樹は、寝かされている場所がやけに硬いことに気づいた。しかも、全裸だ。
「──!?」
思わず起き上がったら、おおっ、と声が上がった。周りには大勢の人々がいて、興奮気味に何かを言っている。みんな肌が浅黒く、外国人のように見えた。なんなんだ、こいつら。樹は必死になって身体をひねり、彼らの視線を避けようとする。何か着るものがないかと探していたら、いきなり腕を掴まれた。
「っ、なに」
壮年の男に血走った目で興奮気味に捲し立てられ、恐怖を覚える。樹は彼の手を振り払って、急いで祭壇らしき場所から飛び降りた。脇目も振らず神殿の出入り口へと走って行くが、男たちはなにかを喚きながら追いかけてきた。なんなんだよ!
樹は神殿から飛び出した。そこはジャングルのように多彩な木々が茂っている。植物の種類を考えるに、明らかに日本ではない。呆然としている間もなく、後ろから男たちが追いかけてきた。
「×△◯◻︎!」
彼らが叫んでいる言葉は英語でも、フランス語でもない。発音が中東系に近い気もしたが、樹は言語に堪能ではないからわからなかった。まさか、変な宗教団体にでも拉致された? 日本人は人質にされやすいと、ニュースで見たことがある。
樹は木のウロの中に隠れて、男たちが立ち去るのを待った。心臓がドクドクと鳴り響いている。樹はなんとか心臓を落ち着けようと、深呼吸をした。全裸だし、当然ながら薬もない。俺は、こんな訳の分からない場所で死んでしまうのだろうか。死体になったら、あいつらに変な儀式に使われたりするかも。ゾッとしつつ、様子を伺っていたら人の声が聞こえてきた。どうやら、女性の声が混じっているようだ。助けを呼べるかも。樹はそちらに向かって歩いて行く。
「――ああっ」
いきなり矯声が聞こえてきて、樹はビクッと震えた。長身の男が、美しい女性にのしかかっている。他人の情事なんて初めて見たので、顔が熱くなる。
慌てて踵を返そうとしたが、足元の枝を踏んでしまった。男がこちらを振り返る。真紅の瞳に射抜かれた瞬間、樹は息を飲んだ。漆黒の髪と浅黒い肌。引き締まった身体には白い布のような衣装を纏っている。腰帯は緩んでいて、足元にはサンダルを履いていた。女性は慌てて乱れた衣服を直して駆けていく。男性はゆっくりこちらに歩いてきた。上から下まで樹を眺めて、目を細める。彼は、女性が残していったストールみたいなものを手渡してきた。樹はありがたくそれを受け取り、とりあえず尋ねてみる。
「ここはどこですか?」
「◯×◻︎△」
その男は神殿の男たちと同じ言語で話しかけてくる。案の定、話は通じないらしい。樹が困った顔をしたら、彼が眼鏡を奪い取ってきた。
「あ、ちょっと、返せよ」
慌てて取り返そうとしたら、つんのめってしまう。男は樹を抱き止めて、顔を覗き込んでくる。他人とこんなに近づいたのは初めてだ。端正な顔立ちから目をそらそうとしたら、顎を掴まれる。いきなり唇を奪われて、樹は目を見開いた。
「!?」
慌てて押し除けようとした手を掴まれ、ぐっと引き寄せられた。
「……っ」
ものすごい力で、少し踵が浮いてしまう。苦しくてもがいたら、少しだけ力が緩んだ。苦しさは減ったが、やはり逃れられない。男は樹の頭をひと撫でして、ストール越しに自分の腰を押し付けてくる。熱いものを感じ、樹は赤くなった。なんだよこいつ、変態か──。やっと唇を解放して、男が尋ねてきた。
「名前は?」
「い、樹」
「そうか。俺はハシム」
あれ? 言葉が通じている。困惑しているといきなり抱き上げられたので、樹は悲鳴をあげた。
「おいっ、なんだよ!」
「何って俺の部屋で続きをするんだろ。少年神官は一応神職だから、侍女と違って大っぴらに手を出せないからな」
「何言って、離せ!」
連行されそうになってもがいていたら、穏やかな声が聞こえてきた。
「ハシム、乱暴はやめなさい」
ハシムって、こいつの名前? 振り向くと、ハシムとそっくりな青年が立っていた。ただし、こちらは髪の毛が白い。彼はこちらにやってきて、再びハシムに離すよう促した。ハシムは肩をすくめて、樹を地面に下ろす。白い髪の青年は、優しく微笑みかけてきた。樹は少しどきりとする。この二人、同じ顔だがずいぶんと雰囲気が違う――。
「初めまして。僕はアジール。不肖の弟、ハシムが失礼したね」
「失礼なんかしてないぜ。そいつが真っ裸で誘ってきたんだ」
「誘ってない! 気づいたらいきなり変な場所に寝かされてて、全裸だったんだ」
「ん? ってことはこいつ、雨乞いの生贄じゃないのか」
ハシムの言葉に、アジールはいたましそうな顔をした。雨乞いって? 生贄って? まるで首狩族じゃないか。百歩ゆずってこの時代にそういう儀式が行われていたとして、なんで日本人の樹が捧げられるのだ。先程走ったせいなのか、ずきん、と胸が傷んで、樹はぎゅっと心臓を抑える。アジールは優しく樹の背中を撫でた。
「どこか悪いのかい? 顔色がすぐれないね」
「ああ、病で使い物にならない息子を、親が売ったってとこか」
「やめなさい、ハシム」
アジールはハシムをたしなめて、樹を抱き上げた。いきなり男に横抱きにされ、樹はぎょっとする。アジールは大丈夫だよ、と言って、樹に微笑みかけてきた。大丈夫……なのか? こいつらだって、首刈り族じゃないのか。黒い方は、いきなりキスしてきたし。ガサガサと茂みが鳴る音がして、先程の連中が顔を出す。樹はびくっと震えて、アジールの服を掴んだ。男たちはアジールとハシムを見て、慌てて膝をついた。
「殿下! お二人がおいでとは知らず、失礼いたしました」
でんか? 殿下っていうのは普通、貴人の息子のことを指す。この双子は部族長の息子? でも、部族が殿下って言葉を使うだろうか。アジールは、ひざまずく男たちに穏やかに答える。
「なんだか突然、ここに来たくなってね。ハシムも?」
「俺は侍女と逢引。砂まみれでやるのは情緒がないだろ」
なんだこいつ……。軽蔑の眼差しを向けたら、ハシムが唇を緩めた。アジールは相変わらず低頭している男たちに尋ねる。
「雨乞いの最中だったのかな?」
「ええ……生贄が逃げてしまって。その男が倒れていたのを拾ったのです。麻薬で昏睡させていたはずなのですが」
「病で麻薬を多用してて、効きにくいのかもな」
ハシムはそう言って、樹の顔を覗き込んできた。赤い目を細めて舌なめずりする様子は、猛禽類のようでぞっとする。
「処女かどうか、俺が確かめてやろうか。たしか神殿に滞在用の客間があるだろ」
伸びてきた手に噛みついたらハシムがいてっと声を漏らした。
「ハシム、やめなさい。彼は僕が預かってもいいかな。どうやら、異国の人に見えるし」
アジールの言葉に、男たちは戸惑いつつも従った。どうやらアジールは偉い人間らしい。ハシムもそうなのだろうが、こいつを頼ったら貞操が危なさそうだ。アジールは樹を連れて、神殿へと向かった。白亜の神殿は四角い形をしていて、四隅を柱が支えている。階段を上がっていくアジールに、神官服のようなものを着た男たちがひざまずいていた。まるで当然みたいな態度だ。
樹は、神殿の中の一室に通された。居心地が良さそうな部屋で、ラグ織の絨毯が敷かれている。アジールは、樹に服を手渡してきた。衝立の向こうで着替えて部屋の中を見回していたら、口を布で隠した侍女がお茶を運んできた。これ……飲んでいいのか。また昏睡させられて、生贄にされるのでは? 樹が警戒心をあらわにしていると、アジールが笑った。
「ジャスミンティーなんだ。変なものは入ってないよ」
毒味でもするかのように、アジールがお茶を飲んだ。喉の渇きを覚えていた樹は、恐る恐るお茶を口にする。ほのかに花の香りがして、美味しかった。アジールは樹をじっと見つめた後、口をひらいた。
「君は、肌が白いね。僕たちとは違う」
「ここ、外国なんですよね。俺、日本から来たんですけど」
ニホン? と聞き返した発音は、見知らぬものに対しての反応だ。日本って案外知名度がないのだな、と樹は思う。反対に、ここはなんという国か尋ねてみる。
「ここは、ライマール王国。僕は王太子のアジール。同じ顔の黒髪のほうはハシム」
「あいつも王子、なんですよね?」
「双子だからね。性格はあまり似ていないってよく言われる」
あまりというか全く違う。と言い切れるほど彼らのことを知らないが。どちらにせよ、こんな場所にはいたくない。
「アジール王子。俺を日本に返してもらえませんか」
「まずは、日本がどこにあるか調べなくちゃね。君は病気があるみたいだし、今日は神殿に泊まって、明日王宮に帰ろう」
優しく微笑まれて、樹はほっとして礼を言った。アジールがまともそうな人でよかった。しかし、今どき生贄って。国際法にふれないのだろうか。アジールは夕食まで自由にしていていいと言ってくれた。彼がいなくなったあと、窓辺へと近づいていく。殺されかけたとはいえ、日本ではお目にかかれない珍しい植物があるのは魅力だ。部屋から出て歩いていくと、賑やかな笑い声が聞こえてきた。神殿には中庭のような場所があって、まともじゃない方の王子、ハシムは敷物を敷いて、侍女をはべらせて酒を飲んでいた。どうしても軽蔑の眼差しを向けざるを得ない。こちらに気づいたハシムが、樹を手招いてくる。
「おう、イツキ。一緒に飲むか?」
樹は彼を無視して歩き出した。ハシムが背後からついてくる。むきになって足を早めたら、息切れしてしまった。ハシムは樹の背中を撫でている。
「おい、大丈夫か」
「……さわるな」
「気付け薬もらってくるから待ってろ」
ハシムは樹を回廊の椅子に座らせて去っていく。樹は深呼吸して、心臓を抑えた。こんなわけのわからない国で死にたくない……。思いの外時間がかかっていて、ハシムが帰ってこないのではないかと不安になった。戻ってきたハシムは、気付け薬を樹の鼻先に近づけた。それを吸っていると、少し楽になる。ふと、ハシムと視線が合った。至近距離で見ると、本当に端正な顔立ちをしている。樹はふい、と顔をそらした。
「メガネ返せよ」
「部屋にある。来るなら返してやるぜ」
「なんでおまえの部屋に行かなきゃならないんだ。変態」
「面白いな、おまえ。俺にそんな態度を取るやつは他にいないぜ」
ハシムはくくっと笑っている。そりゃこいつが王子だからであって、そうじゃなかったらみんなに総スカンを食らうに決まっている。立ち上がったら、どこに行くのかと尋ねられた。無視して歩いていくと、ざわっと背筋が寒くなった。植物たちが、ざわめいている。不穏な空気に、樹はごくりと喉を鳴らした。遠くから、伝播してきたのだろうか。植物たちの声が、樹にも届いてきた。
――クルヨ。スナアラシ、クルヨ。
「……すなあらし?」
「なんだって?」
「な、んでもない」
植物が話した、なんて言ったら笑われると思った。侍女たちが殿下、と華やかな声をあげる。樹は足早に、ハシムから離れた。神殿の周囲を歩き回って、珍しい植物に夢中になっていたら、すっかりあたりが暗くなっていた。そろそろ夕食の時間かな。神殿に帰ろうと踵を返したら、がさり、と茂みが鳴った。そちらに視線を向けると、浅黒い肌の少年がうずくまっていた。服を着ていなくて、膝をかかえてうずくまっている。樹は彼に近づいていって声をかけた。
「どうしたんだ?」
少年は、怯えた顔でこちらを見返してくる。樹はハッとした。もしかしてこの子、逃げ出した生贄なんだろうか。どうすべきか迷っていたら、ハシムがやってきた。樹はとっさに、少年の前に立つ。ハシムは不思議そうに、樹に声をかけてくる。
「なにしてんだ? 夕飯だぞ」
「い、いや。なんでも」
樹が目を泳がせていると、ハシムがこちらにやってきた。慌てて立ちふさがったが、ぐいと押しのけられた。彼は樹の背後を覗き込んで、眉をひそめる。
「逃げ出したのは10歳の子供だって言ってたな。神官長に知らせてくる」
「ちょっ」
樹は反射的に、ハシムの腕を掴んだ。赤い瞳と視線が合う。こいつの目って、血みたいだ。怯みそうになったが、なんとか視線をそらさずに低い声で告げる。
「まだ子供だぞ」
「その子の親は、生贄を差し出すことで金を得てる」
「そういう問題じゃない。あんた王子なんだろ。国民を守る義務があるんじゃないのか」
押し問答している間に、少年がだっと駆け出した。追いかけようとしたハシムに、樹はすがりつく。少年が目を丸くしてこちらを見る。逃げろ、と言ったら、少年は慌てて走っていった。樹はハシムを見上げた。こいつ、まさかわざと逃がしたのか? 腕力差を考えたら、振り払うことなんて簡単なのに。ハシムは少年を見送って、肩をすくめてみせた。
「どうするんだ? 生贄を逃がして」
「だいたい生贄なんて捧げたって、雨は降らない」
「ん? どういう意味だ」
「雨が降らないのはな、空気中の水分が足りないからなんだ」
ハシムはどういうことかと尋ねてきた。この国って科学とかないんだろうか。あったら、生贄がどうこうなんて、前時代的なことしてないか。樹は木の棒を手にして、地面に絵を描いた。
「雨が降る機構ってのは、4つに分けられるんだ。まず、海とか川があるだろ。それが水蒸気になって、空に登っていく。雲ができて、重さが限界に達したら、雨になる。それがまた海や川になる。要するに、循環なんだ」
「川や海なんてない。砂漠地帯だからな。ここはオアシスだから木が生えてる」
「だから雨が降らないんだ。植物は、自分の中に水分を取り込む能力がある。木が減ると、空気が乾燥して、ますます雨が降らない。いわゆる、悪循環だ」
ハシムはふーん、と相づちを打った。なんでいい年をした王子様にこんなことを説明しているのだろう。子供天気相談室か? ハシムはああ、これ返す。と言って、樹にメガネを手渡してきた。それを装着していたら、彼が尋ねてくる。
「おまえ、物知りだな。どこの国から来たんだ」
「日本」
「ニホン? 知らないな」
「とにかく、さっきの話を神官長? って人にもしろよ」
樹はそう言って立ち上がった。ハシムが腕を掴んでくる。
「おまえが説明しろ。俺はそういうのは得意じゃないんだ」
「え? ちょっ」
ハシムは樹の腕を引っ張って、神殿に連れて行った。ちょうど、アジールや神官が一緒に食事をしているところだった。アジールは神官たちとの談笑をやめて、穏やかに話しかけてくる。
「おかえり、樹、ハシム。食事を運んでこさせるから座って」
「あとでいい。こいつが話があるっていうから、聞いてやってくれ」
ハシムはそう言って、樹の背中をぐいと押した。その場にいる人々が、樹に視線を向けてきた。大勢の前で喋るのに慣れていない樹は視線を泳がせる。アジールは樹が話し出すのをじっと待っている。神官たちは、困惑気味に顔を見合わせていた。その時、にわかにあたりが騒がしくなって、兵士たちが入ってきた。彼らが生贄の少年を連れていたので、はっとする。彼は大きな瞳に恐怖をたたえ、身体を震わせていた。
「茂みに隠れていました」
「ご苦労。アジール様、ご無礼ながら、すぐにでも儀式を行いたいので退席させていただきます」
「構わないよ、インシオ」
神官たちが少年を連れて行こうとする。少年は必死になって、何かを言おうとしている。この子……口がきけないのか。ハシムが言っていたことはあながち間違いではなかったんだろう。あの子が死のうが、俺には関係ない。俺だって、もうすぐ死ぬ立場にある。だけどただひたすら胸糞が悪い。そう思った。泣き叫べない子供を、大人たちが取り囲んでいるなんて。俺には、関係ないのに。その少年が、助けてほしいと言っているように見えたのだ。
「生贄なんて、無駄です」
樹の言葉に、その場の視線が集まってきた。緊張を胸糞悪さが上回っていた。樹はメガネをとって、床に投げ捨てた。ハシムは驚いた表情でこちらを見ている。
「そんなことしたって子供が死ぬだけです。人口が減って出生率が下がって、この国が滅ぶだけです。俺には関係ないですけど」
「なんと無礼な。異国の人間が、我が国の儀式に口を挟むのか!」
かっとなったインシオが、こちらに手を伸ばしてくる。びくっと震えた樹の前に、ハシムが立ちふさがった。インシオはどこか傷ついたような口調で言う。
「殿下! そのような無礼者、なぜおかばいになるのですか」
「確かにこいつの言う通り、生贄を捧げても雨は一向に降らない。この国のやり方が間違ってるってこともあるだろ?」
ハシムの言葉に、神官たちが騒然となった。アジールは興味深そうにハシムを見る。
「君が国のことに口出しをするなんて珍しいね」
「国政に関わる気なんてない。ただこいつの言う事も一理あると思っただけだ」
「でも、樹は部外者だからね。この国に雨が降らなくても、なんの咎も背負わない」
たしかに、樹にはなんの責任もない。王子様でも神官でもない。たまたまここにやってきただけの異邦人なのだから。樹が顔を伏せると、少年の顔に絶望がよぎった。神官長が連れて行け、と顎をしゃくる。しかし、ハシムが突然口を開いた。
「じゃあ、俺が責任を取る」
樹は目を見開いて、ハシムを見た。アジールはそっくりな弟の顔を見つめて、「どうやって?」と尋ねた。次の言葉に、樹はぎょっとした。
「俺が生贄になる」
「殿下!」
とんでもないことを言い出したハシムに、神官たちが慌てて低頭する。
「おやめください! 殿下にそのようなことをさせるぐらいならば、儀式は中止いたします」
「だってさ。よかったな、坊主」
ハシムはそう言って、少年の頭を撫でた。樹は内心呆れていた。なんだよ、この茶番。生贄は清い身体じゃなきゃだめらしいので、どちらにせよハシムは生贄になどなれないのだ。それでも、少年の命が助かったことにほっとしていた。神官長がすれ違いざまに、樹をにらみつけてきた。アジールは特になんの感想ものべず、食事を運んでこさせる。その夜、樹はハシムを探して歩いていた。彼は中庭で酒を飲んでいた。この場所が好きなようだ。樹に気づくと、盃を差し出してくる。
「よう。飲むか」
樹は盃を受け取って、一口飲んだ。もともとあまり酒を飲まないので、少し苦く感じる。ハシムは月を見上げて、「月って美人の女神がいるらしいな」と言った。それってアルテミスのことだろうか。この国にも神話があるんだな。生贄を要求するあたり、残酷な神様なのかもしれない。樹は無神論者だ。神を頼ったところで、無駄だと思っている。だけどこの国の人達は、違うのだろう。樹はハシムに尋ねてきた。
「どういう神様なんだ? この国の神って」
「そりゃもちろん、雨の神だ。とびきり美人の女らしい」
神様なのに醜いってあんまりないだろう。人々から信仰されない。どちらにせよ、作り物にすぎないけど。そういえばこの神殿って、神像とかないんだな。神の姿を想像するのは禁止されているのだろうか。そう尋ねたら、ハシムはにやりと笑った。
「昔、裸の彫像があってよく見に来てた。教育に悪いとか言って撤去されたけど」
こいつはそういうことにしか興味がないのか。呆れつつも、先程の礼を言わなくてはと思って口を開く。
「あのさ……ありがとう」
「ん?」
「さっき、あの子を助けてくれただろ。ただの変態だと思ってたけど見直した」
ハシムはじっとこちらを見て、樹の頬に触れた。近づいてきた顔にどぎまぎする。
「眼鏡がなくても、見えるのか?」
「あ、あれは伊達メガネだ」
「ないほうがいい。おまえの黒い瞳がよく見える」
「なに言ってんだ。離せ」
樹は慌ててハシムの手を押しのけた。その時、あたり一面に植物の声が響いた。
――ニゲテ。
――スナアラシ、クル。
――ニゲテ。
激しい頭痛が襲ってきて、樹は頭を抑えた。なんだ、これ。気持ち悪い。植物たちの悲鳴が、サイレンのように脳内に響いている。ハシムが樹の身体を支え、大丈夫か、と尋ねてくる。樹はのろのろと顔をあげた。ハシムは心配そうにこちらを見つめている。
「……っ、スナアラシがくる、って……」
「なんだって?」
その時、ばたばたと足音が近づいてきた。
「殿下! 砂嵐が近づいてきます。すぐにご避難を」
ハシムは素早く立ち上がって、樹を抱き上げた。侍女たちが荷物を手にせわしなく走り回っている。ハシムはそんなのいいから逃げろ、と叫んだ。身支度もままならないうちに、樹はハシムとともに神殿から出た。二人して、用意されている馬に乗る。そこではすでにアジールが待っていた。双子が「全員避難したか」と確認しあっている。青ざめた神官長が、こちらに駆け寄ってきた。
「殿下、あの子供がいません」
「探している暇はない。行くぞ」
「待って……」
樹は弱々しく訴えたが、その声は誰にも届いていなかった。あの子は口がきけないんだ。逃げ遅れていても、誰の助けも呼べないのに。樹は馬から降りようとしたが、ハシムに押し戻された。馬が駆け出して、神殿が徐々に遠ざかっていく。
――タスケテ、タスケテ、コワイ。シニタクナイ。植物たちの嘆きは、あの少年の悲鳴のようにも聞こえる。オアシスを抜けた瞬間、轟音が響いて、雪崩のように砂が押し寄せてきた。樹はその様子を、呆然と見つめる。
木々を倒し、神殿を飲み込み、砂嵐は、すべてを押し流していった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます