第3話

「――死者・行方不明者は10名。そのうち神官が5名、侍女が4名。残りは生贄の少年です」

淡々と報告する声が、壁越しに聞こえてくる。樹はベッドに横たわって、その声を聞いていた。あの子、死んだのか……。そう思ったら息苦しくなる。

ここは、オアシスから馬で1里ほど行ったところにある宿場町だった。昨夜、王子たちの突然の来訪に、宿屋の主人はかわいそうになるぐらい驚いていた。大した部屋が用意できないと焦る主人に、アジールは鷹揚に構わない、と応えた。ハシムとアジールが同室で、樹には一部屋与えられた。うなされていたせいか、ハシムが様子を見に来た。

樹は、うわごとのようにあの子を助けてくれと言ったが、ハシムは黙って頭を撫でるだけだった。赤い瞳は、悲しげに歪んでいた。昨夜のことを思い返していたら、いきなり扉が開いた。こちらに歩いてきたインシオが、樹の襟首を掴む。

「貴様のせいで私の部下が死んだ!」

「……っ」

「儀式を行っていれば、神の怒りを買うことはなかった。それをおまえが邪魔したのだ!」

ぎりぎりと締め上げられて苦しさに呻いていたら、遅れてやってきたハシムが彼の手を掴んだ。

「やめろ。儀式を中止させたのは、樹じゃなく俺だろう」

「殿下……このような得体のしれない者に肩入れするのはおやめください。あなたは神の顕現、その半身なのですぞ!」

「俺は人間だ。神はアジールだけでいい。……もういいだろう。樹は昨夜からずっと苦しんでる」

インシオは樹をにらみつけて、部屋から出ていった。ハシムは樹の乱れた襟元を治し、水を差し出してきた。いきなり水分をとったせいか、咳き込んでしまう。ハシムは優しく樹の背中を撫でた。

「すまないな。彼も部下をうしなって、正気を保てないんだ」

「俺の、せいで砂嵐が起きたのか?」

「違う。儀式のあとでも、砂嵐は起きてた。ただ神官にとっては儀式をないがしろにしたせいだ、って考えたほうが楽なんだろう」

それは、樹にしても同じだった。自分の常識を彼らに押し付けたのだ。もし神様がいたなら、樹がしたことは許しがたいことだったのだろう。結局あの子を、死なせてしまった。樹が涙をこぼすと、ハシムがそっとそれをぬぐった。それから寝たり起きたりを繰り返した。たまに侍女が食事を持ってきてくれたが、手をつける気にはならなかった。壁越しには、ずっと何かを話している声が聞こえてきた。インシオは、樹を王都に連れて行くことに強く反発しているようだ。樹はふらつきながら起き上がり、そっと隣の部屋を覗いてみる。

「あの者のせいで、神殿はなくなり、人が死んだ。あれは厄災です。異国から送り込まれた密偵やもしれません」

「誰がこんな国を狙うんだよ。資源もろくにないっていうのに」

つばを飛ばしながら喋るインシオを、長椅子に寝転んだハシムは呆れた顔で眺めている。アジールは足を組んで、静かに座っていた。神官長は、アジールの足元に膝をついた。

「殿下、ご決断ください。ここにあの者を置いていくことを」

「でも、樹に約束してしまったからね。「ニホン」に帰すって」

アジールの言葉に、神官長が悔しげな表情を浮かべる。アジールは、彼の肩に手を置いた。インシオがはっと顔をあげる。

「君は正しかったね、インシオ。僕らの国は、僕らで守るしかない。二度と異国の人間の意見に耳を傾けまいと誓うよ」

「殿下……もったいないお言葉です」

インシオはアジールの手を取って額づいた。ハシムは顔をひきつらせてそれを見ていたが、こちらに気づいてやってきた。

「どうした?」

「……俺を置いてってくれ」

ハシムはじっとこちらを見て、「帰りたいんだろ、国に」と言った。帰りたいと思っていた。だが、自分のせいで人が死んだと知って、もうそんな気力もなくなった。もともと、樹に残された時間は長くない。樹は靴先を見つめて、ぼそぼそとつぶやいた。

「俺はどうせ、死ぬんだ。あの人が怒るのも当然だし」

「無理強いはしないぜ。明日出立するから、それまでに決めておいてくれ」

ハシムはそう言って、部屋に入った。樹はふらふらと、自室に戻っていった。翌朝は、嘘のような快晴だった。樹は気付け薬を吸って、窓の外に目をやった。そこには、抜けるような青空が広がっている。ハシムたちは、もう出立したかな。ふと、母親が昔歌ってくれた歌を思い出す。「雨ふり」という歌だ。雨が降ると、母親が傘をさして迎えにきてくれるという歌詞だった。それを口ずさむと、ふっと空気が変わった。

「雨雨ふれふれ、母さんが……」

ぽつ、と透明な糸が天から降ってくる。見間違いかと思ったが、次から次へと降ってきた。

――雨。

樹は外に飛び出した。広大な砂漠に、雨が降り注いでいる。馬に乗ったハシムとアジールが、驚いたように天を仰いでいる。インシオは馬から降りて膝をつき、十字を切っていた。

「ああ、神よ……感謝します」



「なぜ急に、雨が降り出したんだと思う?」

アジールの問いに、ハシムは顔を向けた。白い髪は濡れて、水滴が滴り落ちている。自分にそっくりな横顔は、いつも平静そのものだ。しかし今は、少し戸惑っているように見えた。ハシムは侍女に渡された布で頭を拭う。

「さあな。「儀式」が成功したんじゃないのか」

砂嵐で死んだ少年の命は無駄ではなかった。そう考えるほうが気が楽になる。

突然の雨に、ハシムたち一行は急遽宿屋へと戻った。もう一泊することを、主人はむしろありがたがった。彼は興奮気味にこう言った。神であるお二人をお世話できるなんて、光栄のいたりです。ハシムたち王族は、雨神ミズハの子孫とされている。神が王となり、この国を守る。それがこの国の伝統だった。しかし、双子が生まれて騒ぎになった。どちらが神なのか、という議論がかわされ、どちらもふさわしいという話になった。しかし、王が二人なんて国は聞いたことがない。伝統に則って、長兄のアジールが継ぐことになっている。そのことになんの不満もない。ハシムは神扱いされるなんてごめんだ。

ハシムがドアへと歩いていくと、アジールが声をかけてきた。

「どこへ行くの?」

「あいつの様子を見てくる」

「ずいぶん気に入ってるんだね。確かに、物珍しい容姿だけど」

樹は不思議な青年だ。ハシムやアジールに比べたら、だいぶ身長が低く、細身で筋肉もない。肌は青白く、神経質な雰囲気が漂っている。幼い顔立ちで10代にも見えるが、自分たちと同じ年代に見えなくもない。黒一色の髪と瞳は神秘的と言って差し支えない雰囲気なのに、口を開くと中々生意気で、面白いと思った。樹が窓の外を眺めていたので、足音を立てないように近づいていった。耳元に息を吹きかけたら、びくっと震えて振り返る。反応がうぶで可愛らしい。ふ、と笑ったら、彼が赤くなった。

「なっ、なんだよ」

「何してるんだ?」

「雨量を量ってるんだ。1時間にどれだけの雨が降るのか、調べてる」

 樹は、コップを窓辺に置いていた。こういう変わった行動も面白いと思う。体調は? と尋ねたら、大丈夫だと答えた。まだ万全には見えないが、昨日よりは顔色がよかった。少年の死に心を痛めてうなされる彼は、痛ましくて見ていられなかった。樹は宿屋に置かれている帳面に、何かを書き込んでいた。ハシムはその様子を眺めながら口を開く。

「おまえ、いくつなんだ?」

「24」

「へえ。俺より年上だな。俺は22だ」

 樹はびっくりしたようにこちらを見た。

「老けてるな……」

「そっちが子供みたいな顔なんじゃないか?」

「俺の国じゃ普通だ」

 樹はニホンという国から来たという。聞いたことがない名前だ。王になる教育を受けたアジールですら知らなかったのだから、ハシムが知るはずもなかった。樹には、どこか放っておけない雰囲気がある。彼が異邦人だから、こうも気にかかるのか? 細面の横顔を眺めていると、樹がいきなり立ち上がった。彼は窓の外を見ている。なにかあるのか、と思っていたら、突然部屋から出ていった。

「おい?」

 樹は厩舎に向かっていた。手綱を引っ張って、馬に乗ろうとしている。馬がいやがるように身体をひねった。こいつ……馬に乗ったことがないのか?

「おい、どうした」

「声が聞こえた。まだ、生きてるかも」

「何言ってるんだ。オアシスからここまで、どれだけ離れてると思ってる」

樹はでも聞こえた、と言って、ハシムの手を振り払う。こいつ、おかしくなってしまったのか。常に水不足で、死が間近にある場所では精神を病むものは少なくない。アジールは樹の肩を掴んで、こちらを向かせた。黒い瞳がこちらを見上げる。彼の頬は雨に濡れ、唇が少し開いている。訴えかけるように見つめられて、心臓がどくんと高鳴った。樹がハシムの腕にすがりついてくる。

「ハシム……」

 思わず唇を寄せたら、樹が「連れてってくれ」と言った。

 ハシムは樹とともに馬に乗って、オアシスに向かっていた。雨が降っているので、視界が悪く進むのが困難だ。ハシムは、腕の中におさまった樹を見下ろした。自分に比べるとずいぶん小さくて、頼りない。それに、心臓を病んでいるという。なのに、彼の要求に逆らえなかった。

 どうして俺は、こんなことをしてるんだ? 樹の言葉は、世迷い言としか思えない。あの砂嵐で本当に生存者がいたとすれば、奇跡だ。これ以上、樹が落胆する顔は見たくないのに。オアシスだった場所は、砂で覆われて何もなくなっていた。樹は膝をついて砂を掘り始めた。見ていられなくて、ハシムは目をそらす。

「――ほら、生きてた!」

 樹は、掘り当てた花をこちらに差し出してきた。生きてるって……まさか植物のことだったのか? 聞こえたって、植物の声が? それじゃまるで、神話の世界だ。困惑するハシムに比べて、樹は目を輝かせている。

「他にも生きてると思う。おまえも手伝って」

「そんなもの掘り起こして、どうするんだ」

「育てて種子を採るんだよ。死んじゃうから早くしろって」

 樹はハシムの手を取って引っ張った。ああ、採取用の入れ物を持ってくればよかった。そんなことを嘆いている。樹は日が暮れるまで植物を集めて、それを大事そうに上着にくるんだ。ハシムは、死にかけの植物たちが羨ましくなった。あのたおやかな手で摘まれて、大事そうに抱かれている。自分の考えに、動揺した。――馬鹿げてるぞ。

 樹は物珍しさで触れることはあっても、夢中になるような存在ではない。樹はこちらが考えていることなど知らずに、邪気なく見上げてくる。これが計算なら、顎を捉えて唇を奪うのに。そうではないから、調子が狂う。

「明日も採取するから、連れてきてくれ」

「あのな、俺は王都に帰るんだぞ」

「……ああ、そうか。じゃあ、一人で来るからいい」

樹は途端に顔を伏せ、馬に向かって歩いていく。とぼとぼ、という効果音が似合いそうな歩き方だ。ハシムはため息を漏らして、彼のあとを追った。

 翌日、侍女に支度を手伝わせていたアジールが、驚いたように振り向いた。

「え? 帰らないって、どういうこと?」

「樹が、神殿のオアシスで植物を集めるらしい。あいつは馬に乗れないんだ」

 アジールは無言でこちらを見ている。双子なので彼が何を言いたいのかわかっている。遊びならいいが、さすがに入れ込みすぎだぞ――。しかし、アジールが口にしたのは違う言葉だった。

「亡くなったものたちの弔いをして、すぐに神殿再建設の計画をしなければならない。わかってるだろ、ハシム」

「わかってる。だけど民が求めてるのはおまえだろ」

「君は僕の半身だよ。いつでもそばにいてほしいんだ」

 アジールがハシムの頬に触れると、侍女たちがうっとりした。一緒にいたら、同時に死ぬ確率が高いだろうとは言わなかった。だが、昔から、兄とはよく同じ行動を取ってきた。神殿を訪れたのだって、示し合わせたわけではない。おそらくは双子というのは、魂がつながっているのだ。ハシムは兄を心配させるように、笑みを浮かべた。

「心配しなくても、すぐ帰る。樹に馬の乗り方も教えるし」

「わかったよ。くれぐれも、気をつけて」

 アジールはそう言って手をひいた。

 ハシムがここに残ると知って、インシオは苦い顔をしたが、黙ってアジールとともに去っていった。神であるアジールに比べてハシムはおまけなので、自由に行動できる。もしアジールが樹に執着しだしたら……。神官たちも黙ってはいないだろうな。ふと、振り返ると樹が立っていた。なにか言いたげな顔をしているので、どうかしたのか、と尋ねてみる。

「あの。いいのか、一緒に行かなくて」

「おまえが連れて行けって言ったんだろ?」

「いや、あのときは夢中になってて……おまえは一応王子様だし、他にやることもあるだろ」

 ぼそぼそとそんなことを言うので、思わず笑ってしまった。

「な、なんだよ」

「おまえって可愛いな」

「は!? っわ」

 ハシムが抱き上げると、樹が真っ赤になった。

「お、降ろせ」

「俺はおまえの言う事を聞いてやるんだ。こっちにも役得がないとな」

「え? ちょっ、どこ行くんだ。植物採集は!?」

 慌てる樹を自分の部屋に連れて行く。ベッドに横たえて覆いかぶさると、樹がぎゅっと目を閉じて、身をすくめる。不慣れな反応にぐっときたが、我慢した。樹のためだけにここに残ったわけではない。彼が一体、何者なのかを知る必要がある。それを知って、このあと彼をどうするか決める。ハシムは樹の唇をなぞって囁いた。

「今から尋問する。ちゃんと答えないと、罰を与えるからな」

「なんだよ、尋問って。普通に質問すればいいだろ」

 樹は強気な態度を取り戻して、こちらを睨んできた。

「おまえ、植物の声が聞こえるのか?」

 その問いかけに、樹が目を見開いた。うろうろと目が泳いだので、あからさまに動揺しているのがわかる。こいつに密偵は無理だな。もちろん、王子を籠絡して機密を引き出すなんて真似も。

「……そ、そんなわけないだろ。植物は話さない」

「うちの国には、ミズハっていう神がいるんだ。神話の端っこに書いてあるような神様だけど、その神は雨を降らせて、植物と会話ができる」

「それは、神話であって現実じゃない」

 樹がもし、神の遣いであったとしたら。ハシムは彼の黒髪に指を絡めた。ここまで惹かれるわけも、説明がつく。髪をくるくると巻き付けながら、赤くなった耳元に囁きかける。

「嘘をつくなら、罰が必要だな」

「──っ、わかった! 言うから」

 少し残念な気がしたが、身を引いた。樹はハシムから距離を作って、ベッドの上で膝を抱える。彼は非難されるのを恐れるように、ボソボソと呟いた。

「昔から、植物と会話ができた」

「すごい能力じゃないか」

「すごくない。みんなに変だって言われて……人間が嫌になった」

「たしかにおまえは変わってる」

 そう言ったら、樹が傷ついたように目を伏せた。まるで、孤独な天使のようだ。緑の天使。ならばハシムは、天使を狙う悪魔だろうか。頬を撫でたら、樹が瞳を揺らした。ハシムに心を許していいのか、悩んでいる表情。ハシムは傷つきやすい青年を見つめて囁いた。

「俺はおまえを否定したりしない。だからその力を役立たせて欲しい」

「……俺が、役に立つのか」

「もちろんだ」

 樹は迷ったすえに、頷いた。

 俺はおまえを否定しない。ハシムの率直な言葉は、樹の乾いた心に沁みた。それから数日は、馬に乗ってオアシスに向かい、植物を採集して帰ってきた。あれから、雨は降らない。ハシムによれば、あの雨は儀式のおかげじゃないかって言っていたけど。ハシムは馬上で、樹に話しかけてくる。

「おまえ、雨が降った時何かしなかったか?」

「ん? 何かって?」

 樹は干し肉を食べながら尋ね返した。横掛けにした水筒には水が入っていて、馬が歩くたびにちゃぷちゃぷと音を立てていた。ハシムは意味深な笑みを浮かべて、樹を見下ろす。

「雨乞いのときは踊ったりとか、するもんだけどな。裸で」

「……最後の、嘘だろ」

「よくわかったな……痛いって」

 樹はハシムの手の甲をつねった。彼は大抵の場合、樹を揶揄ってくる。こんなやつを信用しろって方が無理なんじゃないか。宿屋に帰ると、馬に乗る練習をしようとハシムが声をかけてきた。ハシムは背が高いし、足が長いから難なく馬に乗ってしまう。しかし、樹は抱き上げられないと届かないのだ。足がつかないので、恐怖心があった。ハシムの手を借りて恐る恐る馬に乗ったら、彼が手綱を引いた。樹は慌てて馬にしがみつく。

「わ、ちょ、待て!」

「そう怯えるなよ。馬は賢いから、ちゃんとおまえを運んでくれる」

 俺、一人で馬に乗ってる。手綱は引いてもらってるけど。思わずハシムを見たら、大丈夫だろ、と笑みを返してきた。樹は頷いて、手綱を握ってみる。馬に乗っていたら、だんだん、コツが掴めてきた。しばらく宿屋の周囲をぐるぐる回った後、厩舎に馬を返す。ハシムは馬を労って、ブラッシングしてやった。樹もかいばを与えて、スキンシップを取る。馬と人は共生関係にある。どちらも一人では生きていけない、とハシムは言った。

「この世界、餌が無さそうだもんな」

「ああ。食料はほとんど輸入だ。あるのは砂だけだな」

 ハシムは皮肉を口にし、ふいに尋ねてきた。

「なあ、樹。おまえ動物の言葉はわからないのか?」

「え? うん、そうだけど」

「それも不思議だよな。こいつがなんて言ってるか、わかりそうなものだけど」

 樹は、馬の瞳をじっと見つめた。

「おまえが色ボケで困るって」

「それ、樹の感想だろ」

 ハシムは肩をすくめ、樹を抱き寄せてきた。樹はビクッと肩を揺らす。ハシムはスキンシップが激しい。たまに布団に潜り込んでくることもあった。うなされてたら可哀想だから、添い寝してやる、などと言って。それ以上何もしてこないから、とりあえず放置しているが。他人と接触するのに慣れていない樹は、ただ困惑する日々だ。ここって男同士でキスとかハグとか、当たり前の国なんだろうか。ハシムは樹の髪に鼻先を寄せて、くん、と匂いを嗅いだ。

「おまえの髪、花みたいな匂いがする」

「気のせいだろ。おまえと同じ、宿の洗髪剤だけど」

「ああ……そうか。俺は髪をうまく洗えないんだ。いつもは侍女がやってくれるから」

 その言葉に、樹はなぜかムッとした。押し除けたら、ハシムがキョトンとする。

「なら侍女にやってもらえよ」

「みんな、王宮に帰しちまったからな。おまえが洗ってくれ」

「嫌だね。子供じゃないんだから自分でやれよ」

 樹はそう言って、さっさと宿屋に戻った。どうしてこんなに腹が立つのか、自分でもよくわからなかった。


 ──殿下ってば。動くと髪が洗えませんわ。

 美しい侍女が、ハシムの髪を泡立てている。いいご身分だ。普通なら、ハシムの方を羨むべきなのだろう。しかし樹は、なぜか侍女の方を羨んでいた。ハシムが彼女の手を引いて引き寄せる。二人は唇を重ねて、お互いに身体を弄り合う。いつのまにか、侍女の顔が樹に変わっていた。

 はっ、と目を覚ましたら、まだ部屋の中が暗かった。なに想像してるんだ、俺。動揺しつつ、水を飲もうと水差しを引き寄せたら、手から滑り落ちた。がしゃん、と大きな音を立てて、硝子が割れる。慌てて拾おうとして、指を切ってしまった。

「っ、痛」

「──イツキ?」

 いつのまにか、戸口にハシムが立っていた。彼は明かりを手にこちらにやってきて、樹の手を取る。いきなり血の滲んだ手を舐めたので、びくりと身体が揺れた。じわり、と身体の奥に熱が灯ったのがわかって、動揺する。

「は、離せ」

「おまえの血、甘いんだな」

 こちらを伺うハシムの瞳は、それこそ血の色だ。ぞくり、と身体が震えた。血を舐めとる舌の感触に、どんどん息が荒くなる。恐怖と、味わったことのない感覚に翻弄されてしまう。ハシムは樹をベッドに押し倒し、執拗に指先を舐めた。彼の膝が足の間に入り込んでくる。吐息が耳朶を掠って、背筋が震えた。

「や、だっ」

 樹はハシムをつき飛ばし、出てけ、と言った。彼はハンカチを置いて、黙って部屋から出て行った。樹は、自分の手にハンカチを巻いて、ぎゅっと握りしめる。ハシムのそばにいると、変になる。彼を意識しないではいられない。他人なんか気にせず生きてきたはずなのに。血が止まったのに、心臓はまだドクドクと高鳴っていた。


後日、王宮から迎えがきた。ハシムが肩をすくめ、潮時か、とつぶやく。彼は荷物をまとめて、馬に乗った。じっとこちらを見つめてくるので、慌てて踵を返す。樹はじゃあな、と言って、宿屋に引っ込んだ。日記をつけていたら、ハシムが部屋に入ってきた。いきなり担ぎ上げられて、樹はギョッとする。ハシムはもがいている樹を連れて、歩き出した。

「お、おい、ハシム!」

ハシムは樹を廊下に下ろして、肩を掴んだ。

「俺と来い、樹。神殿の再建設には、おまえの力が必要なんだ」

「……でも、俺は災厄なんじゃないのか」

「おまえは緑の天使だ」

 真剣な目で見つめられて、樹は真っ赤になった。何恥ずかしいこと言ってるんだ、こいつ。天使って、もっと愛嬌があって綺麗な人に使う言葉だろう。人嫌いで無愛想な樹からはもっともイメージが遠い。

「行くって言わないなら、今すぐ抱く」

「は!? だ、だって迎えが」

 ハシムは樹の首筋に唇を寄せてきた。待たせておけばいい、と囁かれた樹はひっ、と悲鳴を上げて、わかったから、と叫ぶ。にやりと笑ったハシムを見て、樹はしまった、と歯噛みする。

 こうして樹とハシムは兵士たちに囲まれ、王宮へと向かった。


 途中、キャラバンがあったので休むことにした。ハシムは王子とは明かさなかったが、周りに兵士がいたので商隊も察したのだろう。近くの街から、美しい女性たちを呼んできた。樹は焚き火の前で肉を齧りながら、ハシムを睨んだ。容姿がいいハシムはあっという間に女性たちに囲まれた。彼女たちはうっとりしながら、「なんてたくましい腕でしょう」「殿下の美丈夫ぶりはお噂以上ですわ」「この腕に抱かれて朝を迎えたいです」などと言っている。最後のはもはや、二人きりで言うべきことではないのか。

 美女にちやほやされたハシムは、調子のいいことを言っている。

「ここの女はなかなかレベルが高いな。侍女に推薦してやろうか?」

「まあ。それは助かりますわ。弟が病気で、お金が必要なんです」

泣きぼくろのある色っぽい女性が、ハシムに擦り寄る。身につけているのはヒシャブと呼ばれる服で、透けて肌が見えそうだった。樹からそう見えるのだから、ハシムには丸見えなのではないか。なにが緑の天使だ。褐色の肌に夢中になっているくせに。樹の肌は病的に白い。心臓が悪いということもあるだろうが。ふと、儚げな女性が隣に座ってきた。

「一献、どうですか?」

「え? あ、はい」

 酒を注がれて一口飲んだら、もう一杯注がれた。元々、酒には強くない。頭をふらつかせていたら、伸びてきた腕に抱き止められる。そのまま抱き上げられて、テントまで連れて行かれた。酒で熱った身体がだるくて、樹は身じろぎした。かすかに虫の声が聞こえてくる。街があるってことは、植物や水もあるのかな。あとで調べたい。

「ん……」

 瞳を開いた樹は、ギョッとした。ハシムがこちらを見下ろしている。樹の服ははだけていて、彼も上半身裸だった。叫ぼうとしたら、大きな手で口元を塞がれる。

「しっ……」

「ん、ん」

ハシムはもがいている樹を押さえつけ、腰帯で手首を縛りつけてきた。

「な、にす」

「いいから、おとなしくしてろ」

 彼が剣を引き抜いたのでギョッとする。ハシムは剣を手にしたまま、テントの外の様子を伺っていた。密着している身体から彼の匂いが強く香って、昨夜と同じ感覚を味わった。ドクドクと心臓が鳴り響く。テント越しに影が写って、入り口がばさり、と持ち上げられた。切り掛かってきた男を、ハシムが一瞬で斬り捨てる。樹は悲鳴を上げて後ずさった。バタバタと足音が聞こえてくる。

「殿下! ご無事ですか」

「ああ。そっちは?」

「問題ありません」

 ハシムはここにいろよ、と言って、服を着てテントを出て行った。テントの外に出ると、商隊の連中が縛り上げられていた。女性たちまで、地面に膝を突かされている。どういうことかと困惑していると、ハシムが口を開いた。

「で、どうして俺たちを襲ったんだ? 金はたんまりやったはずだけどな」

「当たり前じゃないかっ。王族なんて民から搾取するだけなんだ。はした金ぐらいで済むかよっ」

 さっきまでハシムに擦り寄っていた女性が声を荒げた。樹は顔を引き攣らせたが、ハシムは平然としている。

「わからないでもないが、命を奪ってどうするんだ?」

「あんたは神なんかじゃないって証明してやるのさ。女にでれでれしてるただのバカ王子だってね!」

ハシムは無言で、兵士たちに顎をしゃくった。それから樹の肩を抱いて歩いていく。背後で斬撃の音が響いて、樹は身体を震わせた。テントに戻ると、ハシムは「血がついたから、あっちで寝ろ」と端の方を指差した。ハシムは人を殺したんだ、なんの躊躇もなく。

 樹は震える手で、着付け薬を吸い込んだ。

 上着を脱いだハシムの背中を見て、ハッと息を飲む。そこには無数の傷跡があった。樹は思わず、彼に駆け寄った。

「これ、どうしたんだ」

「ああ……昔はよく、アジールの影武者をやってたんだ。顔が全く同じだからな。格好を一緒にして話し方を真似たら、親ぐらいしか俺たちの区別はつかない」

「なんで、影武者なんて。おまえだって王子だろ」

「俺は、神にはなりたくないんだ」

 どういう意味だろうと、樹はハシムを見上げた。ハシムは話したら寝ろよ、と言って、淡々と、話し始めた。

「俺とアジールは、最初はどっちか殺される予定だった」

「えっ、な、なんで」

「双子ってのは、不吉とされてるからな。ただでさえこういう状況だから、縁起が大事なんだ。だが、母が泣きながら懇願して両方生かされた」

幼い頃は母とアジールとハシムで暮らしていた。しかし、アジールの王位継承が決まって、ハシムは離宮で暮らすことになった。アジールは反発したが、ハシムは言われるまま離宮へ向かった。そこで15になるまで過ごしたそうだ。ハシムは懐かしむように、赤い瞳を細めた。

「離宮での暮らしはのんびりしててよかったよ。アジールは勉強に社交に武芸の訓練にって、大変そうだったしな」

「王様になりたいって、思わなかったのか」

「俺には向いてない。剣を振ってる方が好きだしな」

 血に濡れた剣を思い出し、樹は息を飲んだ。15になると、帰ってくるよう父から命じられた。きっと、軍部に入れるのだろうと期待に胸が膨らんだ。剣の腕を磨いて、アジールを支えて行こうと考えていた。

「俺に与えられた役割は、影武者だった。俺が刺されたり死にかけたりするたびに、アジールはもう影武者なんかやめてくれと父親に懇願した。最初は黒かったアジールの髪は、真っ白になった」

 あの泰然としているアジールが。きっと、自分の代わりに弟が傷つくのを見て、苦しんだだろう。息苦しくなって、胸を抑える。ハシムが気遣わしげに声をかけてきた。

「大丈夫か?」

「……大丈夫。それで?」

「アジールは俺がそばにいないと不安がるようになった。おまえと残るのも反対された」

「……ごめん」

 樹が俯くと、なんで謝るんだ、とハシムが不思議そうな顔をした。アジールとハシムは、誰かに命を狙われるのが当たり前なのだ。だから躊躇なく相手を殺すことができる。迷っていたら、自分が殺されるから。ハシムは樹の髪に触れようとして、手を引いた。もう寝ろよ、と言って、こちらに背を向けて寝転がる。樹はハシムに寄り添った。彼の身体からは血の匂いがしたが、構わなかった。

翌朝、樹はハシムに頼んで街に寄ってもらった。近くにはオアシスがあって、水が貯められていた。樹は身をかがめ、水を掬い上げる。透明度は高そうだし、ここから水を引いているのだろう。ハシムが服を脱ぎだしたので、ギョッとした。

「な、なにして」

「ん? 泳ぐんだよ」

「やめろよ、汚れるだろ」

ハシムはにやりとして、樹の腕を引っ張った。あっと思う間もなく、溜池の中に落ちてしまう。ハシムは尻餅をついた樹を見て笑っている。樹はポカンとした後、ハシムを睨みつけた。水を掛け合った後、火をおこして、びしょ濡れになった服を乾かす。何してんだ、俺。子供か? ハシムがじっと見つめてくるので、なんだよ、と尋ねた。

「ん? 服が透けてて色っぽい」

「何言ってんだ変態」

「口が悪いな。可愛いのに」

「やめろよ、そういうの」

そういうのって? ハシムが不思議そうに尋ねてくる。こいつは俺をからかっているだけだ。多分、反応が面白いのだろう。どうせ、誰かに触れられるのも、迫られるのも不慣れだ。樹がくしゃみをすると、ハシムが抱き寄せてきた。視線が合って、唇が近付いてくる。重なった唇に、胸が疼いた。抵抗しなきゃ。だけど、できない。

ハシムは樹の腰を引き寄せ、さらに深い口付けをした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る