死にかけの花嫁は、緑の愛子

deruta6

第1話

9時から5時まで働いて、定時で帰る。これ以外に、幸せなんてないと思っていた。

「緑谷さん、今日飲み会行きません?」

 帰り支度をしていたら、同僚の男性に声をかけられた。緑谷樹は、分厚い黒フレームの眼鏡を押し上げる。樹は、視力が悪いわけではない。人と目を合わさないように、この眼鏡をかけているのだ。相手のネクタイのあたりを見ながら、ぼそぼそと答える。

「いや、早く帰りたいんで。お、おつかれさまでした」

 お気に入りの帆布のバックを肩にかけ、そそくさと部屋から出る。背後から、ヒソヒソと囁く声が聞こえてきた。

 ──緑谷さんって、なんか変わってるよな。飲み会とか、全然こないし。

 ──でも、樹木医としては評判良いよね。

 ――役所の職員なんだから、コミュニケーション取れないとだめじゃん。

その声が胸に突き刺さり、見えない血が流れた気がした。人間は、嫌いだ。できれば関わりたくはない。沿道に沿って植えられた、イチョウを眺めながら帰途につく。秋の夕闇の中、ひらひらと舞い落ちて、降り積もるイチョウは美しい。日本には四季がある。街は綺麗に整備され、暮らしやすい。だけど人間関係は煩わしくて、はみ出すことが許されない。本当は、人がいない南米の奥地にでも住んで、植物の研究をして暮らしたい。だけど、そんな行動力もない。

――ズキ……。

かすかな胸の痛みを感じて、樹は心臓のあたりを押さえる。最近、たまに心臓が痛くなることがあった。運動不足かな。今度、近所の公園に走りに行こうか。

アパートにたどり着いた樹は、ただいま、と言いながらドアを開ける。迎えに出てくれる人はいない。フロア一面を覆いつくしている植物以外は……。樹は先程までの仏頂面を一変させ、植物たちに近寄っていく。

「ただいま、パキラ、アイビー、レモン」

 およそ40種を超える植物の名前を呼びながら、葉っぱを撫でたり優しく話しかけたりする。植物たちは、人懐っこい声で答えた。

――オカエリ。

――オカエリ、イツキ。

――ハヤク、ミズチョウダイ。

この子達を養うために、樹は生きている。

樹には人間の友人はいない。スマホの連絡先に入っているのは、大学時代の知り合いぐらいのものだ。恋人も家族もいない樹にとって、育てている植物との時間だけが幸せだった。ひとしきり植物たちを愛でたあと、レンジでレトルト食品を温める。メーカーなどにもこだわりがなく、適当にまとめ買いしたものだ。食べることに興味がない樹は、外食も自炊もしない。部屋には布団とデスク、小さな本棚が一つあるだけ。あとは全ての時間とお金を植物に捧げている。

 ──先輩、植物としか関わらなくて寂しくないんですか?

 大学時代の後輩に、そう尋ねられたことがある。寂しいわけないだろう。樹は即答した。むしろ、人と関わると疲れるだけなんだ。

 食事を終えた樹は、テーブルの上に置かれた封筒に視線を向ける。ああ、健康診断の結果、チェックしてなかったな。でも、確認するのは今度でいいか。昔から自分の身体にも無関心で、盲腸になったときは破裂寸前まで行った。明日早く起きて、ランニングして、お風呂に入ろう……。樹はそのまま布団に寝転がった。

 

「……っ」

 ずきん、と心臓が痛くなり、樹は胸を抑えた。今朝早く、予定通りにランニングして、シャワーを浴びて、職場へ向かった。久しぶりに運動したせいか、中々動悸が収まらなかった。真っ青になっている樹に、同僚が心配そうに尋ねてくる。

「大丈夫ですか? 緑谷さん」

「大丈夫です。街路樹に虫が湧いたって相談あったんで、確認してきます」

 樹は同僚の方を見ずに言い切って、部屋を出た。また愛想がないとか、コミュ障って言われるのを聞くのが嫌で、呼び止める声を無視した。樹は車に乗り込んで、現場まで向かった。通りには街路樹が並んでいる。報告があった木のところまで向かう。なんでも、工事の作業員が、歩道の舗装をしていて気がついたとのことだった。樹はまず、樹木の状態を確認をした。どうやら幹にシロアリが湧いているらしかった。根っこも確認しようとしゃがんだ瞬間、強烈な胸痛が襲っていた。

「──!」

 樹は胸を掻きむしって、その場に倒れた。通行人がこちらに駆け寄ってくる。大丈夫ですか、という声に応えることはできなかった。遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。樹は無意識の中で、夢を見ていた。誰かが樹の名前を呼んでいる。死ぬな。死ぬな、樹──。樹を名前で呼ぶような知り合いは、一人もいない。誰が俺の心配なんかするんだよ。このまま死んだところで、誰も困りはしないのに。でも、アパートの植物たちがひとりになってしまう――。

目を覚ましたら、真っ白な天井が見えていた。ぼんやりしていたら、「先輩!」と呼びかけられる。はっ、と視線を動かしたら、学生時代の後輩がこちらを見下ろしていた。綿貫、と声を出そうとして、唇が動かないことに気がついた。

「よかった、気がついて」

 綿貫はホッとした表情を浮かべた。どうして綿貫がここにいるんだろう。綿貫は、緊急連絡先が自分だったのだ、と言った。ああ、そうか。たしか思いつかなくて適当な番号を入れたんだった。

 樹はベッドに横たえられて、たくさんの管が身体に繋げられていた。ここって病院だよな。なんで俺、病院なんかにいるんだっけ。樹木の診察をしていたはずなのに。ああ、そうだ。行かなきゃ……あの樹は、シロアリに喰われて苦しんでる。ノロノロと起き上がると、綿貫が慌てて押し留めてきた。

「だめですよ、安静にしてなきゃ」

「だって、木が」

「先輩相変わらずですね。そんなんだから倒れるんですよ?」

 綿貫は肩をすくめた。こいつも変わらないな、と樹は思う。綿貫は、無愛想で人付き合いをしない樹に唯一懐いてきた後輩だ。一体なんのメリットがあるのかはわからなくて、どうして俺に構うんだ、と尋ねたことがある。そしたら、「先輩は嘘がないから」と言われた。確かに、樹は嘘をつく器用さなど持ち合わせていない。綿貫がナースコールを押すと、医師がやってきた。医師は綿貫に、ご家族ですか、と尋ねた。樹は違うと答えようとしたが、綿貫は勝手に頷いている。まあいいか。身内には連絡できないし。医師は綿貫にも立ち会うよう言って、樹を見つめてこう告げた。

「緑谷樹さん。あなたは、多発性心不全です」

「……え?」

「余命はおよそ3ヶ月です。手術を受ければ多少の延命は可能ですが、まだ治療法が確立していない病で……」

 医師は淡々と病状を説明したが、樹の頭には入ってこなかった。綿貫は真っ青になっている。医師が去っていくと、綿貫がマジかよ、とつぶやいた。

俺、死ぬのか。樹はぼんやりと天井を見つめて、そう思った。

 

 電話が鳴っている。樹は布団の中で身じろぎし、手を伸ばした。スマホの着信は「綿貫」になっている。樹は応答せずに、スマホを放った。スマホは床に転がって、硬質な音を立てる。

……腹が減った。いま、何時かな。いや、いいか。どうせ、もうすぐ死ぬんだし。投げやりに思いながら、布団をかぶる。足もとには、スナック菓子の袋やカップラーメンの容器が散らばっている。余命を告げられた樹は、入院準備をするため、自宅アパートに帰宅した。テーブルの上に乗っている封筒を開けたら「要検査」になっていた。健康診断を受けていたら、余命宣告なんかされなかったのだろうか?

 いや、これは治療法がない病なんだ。何をしても無駄。手術をしても、生き残れる確立は5パーセント。なら、何もしない方がいい。樹は入院準備をやめて、布団に寝転がった。それから1週間。病院や綿貫、区役所からは、何度も電話がかかってくる。他にはどこからも連絡がない。樹の両親はいわゆる毒親で、樹がどこで何をしてるかなんて興味がない。干渉されるのが嫌いな樹にとって、ある意味楽だったけれど。

 ──イツキ、カーテンアケテ。

 ──ノドカワイタヨ、イツキ。

 植物たちが、甘えるような声で話しかけてくる。樹はノロノロと起き上がり、カーテンを開けた。植物たちに水をやると、騒いでいた声がやむ。このまま俺が死んだら、植物たちはどうなるのかな。何もかも投げやりになった樹にとって、彼らのことだけが気掛かりだった。誰かに、譲ろうかな。思いつくのは、綿貫ぐらいのものだ。樹は、綿貫に電話をかけた。すぐに来い、と言ったら本当にすぐ駆けつけてきた。

「先輩っ!」

「久しぶり」

「久しぶり、じゃないでしょう! なんで入院しないんですか」

「植物、運ぶの手伝ってくれ。トラック借りたから」

そしたら入院するかと尋ねられたので、適当に頷いておいた。綿貫と一緒に植物を運び出していたら、胸が痛みを訴える。綿貫は、休んでいてくださいと言ったが、樹はかぶりを振った。可愛い植物たちを人任せにはできない。トラックに全ての植物を運び込み、あとは任せたと綿貫に言う。踵を返そうとしていたら、植物たちの声が聞こえてきた。

 ──イツキ、ボクタチヲステルノ。

 ──イヤダヨ、イツキ。

 樹はぐっ、と歯噛みして、アパートに入って行く。──イツキ、ヤダヨ。──イキタクナイ。

 まとわりつくような、植物の哀しみの声が聞こえてくる。仕方ないんだ。これは、おまえたちのためなんだよ。俺はもう、死んでしまうんだから。自室のドアを開けた瞬間、身体がふわっ、と浮き上がった。──え? 足元には真っ黒な穴が空いている。樹は悲鳴をあげる間もなく。闇に落ちて行った。

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