第11話

再建式当日、樹はアジールと共に馬に乗って神殿へと向かっていた。もちろん、神官たちも一緒だ。ハシムは来るつもりはなかったらしく、朝から姿が見えない。憂鬱な表情を浮かべる樹に、アジールが優しく話しかけてくる。

「樹、緊張してる?」

「え? ああ、うん」

「おまじない、教えてあげようか」

 アジールは樹の手を取り、文字を書いた。人って書いて飲み込む、みたいなものかな。緊張は別にしていなかったが、アジールの優しさに安心した。ありがとう、と言ったら、アジールが微笑みかけてくる。それは、以前の恐ろしい笑みとは違う。罪悪感からか、アジールは樹に構うことが増えた。純粋な好意からだとは思うんだが、相変わらず神官たちの視線は痛い。樹は、恐る恐るアジールに尋ねてみた。

「あのさ、アジールは悪魔に憑かれてる時のこと、覚えてる?」

「うん、なんとなく」

 じゃあ樹を抱いたことも覚えているんだろうか。できれば忘れて欲しいんだけど。そんなことを思っていたら、神殿にたどり着いていた。以前に比べたら緑が乏しいが、ここまで回復したのはすごいことだと樹は思う。樹とアジールは雨乞いの儀式が始まるまで、屋内で待機することになった。アジールは果物の皮を剥いて、差し出してくる。

「はい、樹」

「いや、自分で食うから」

 アジールは果物を口に入れて、美味しい? と尋ねてきた。頷くと、もう一個、と差し出してくる。自分ばかり食べさせてもらっているのも悪いと思い、アジールにも差し出した。アジールは果物を食べて、赤い舌で唇を舐める。その仕草が妙に淫靡でドキッとした。アジールは、樹に身を寄せ、耳元に囁いてきた。

「ねえ、樹。僕と寝た後、ハシムとした?」

「は? な、なんで」

「うん……だとしたら、なんか悔しいなと思って」

 何が悔しいのか、さっぱりわからない。まさかハシムとそういうことがしたいのか? 好きってそういう意味? ふたりは男兄弟で、しかも同じ顔である。あまりにも未知の領域すぎる。樹がドン引きしていたら、アジールは樹を膝の上に乗せて、唇を奪ってきた。ギョッとして押し除けようとしたら、首筋に噛みつかれる。

「ん、アジール……っ、儀式前だぞ」

「だめ?」

アジールは、困ったような顔でこちらを見つめてきた。だめに決まっているじゃないか。そう言い返そうとしたら、優しくするよ、と囁かれて顔が熱くなる。アジールは一見優しげに見えるが、案外、噛みついたり痕をつけたりしてくる。何をしていたか、一発でバレてしまうだろう。揉み合っていたら、侍女がやってきた。樹は乱れた襟元を直し、慌ててアジールから距離を取る。

「アジール様、神官長がお呼びです」

「待たせられないかな」

「至急とのことです」

 アジールは肩をすくめ、またね、と言って部屋を出て行った。なんなんだ、あいつは……。まだ悪魔に憑かれてた余韻が残ってるんだろうか。突然手出しするところが、ハシムと同じ血が流れていると感じる。気分を落ち着かせていたら、再び侍女がやってきた。いよいよか。人前で歌うとなると、やっぱり少し緊張してくる。侍女に連れられて向かった先は、神殿の裏手にあるやけに暗い部屋だった。祭壇すら見当たらないし、人影もない。

「なあ、こんなところで儀式をするのか?」

樹がそう尋ねた瞬間、侍女が樹を突き飛ばした。がしゃん、と音を立てて、鍵がかかる。どさり、と地面に倒れた樹は、痛みに顔をしかめた。

「おい、開けろ!」

いくら開けようとしても、びくともしなかった。何か、生き物の気配を感じて樹は振り返った。なにか、いる。ぞくり、と肩を震わせて、後ずさる。巨大なトカゲが、こちらに向かって唸っていた。これ、まさかサラマンダー?

「ま、待て」

 トカゲが口を開いて、炎を放った。咄嗟に避けると、扉がじゅうっ、と焼けこげる。まじかよ。樹は顔を引き攣らせた。炎が渦巻いては消える。トカゲは、樹を探して歩き回る。時折、吐いた炎が樹の隠れている岩場を照らす。こんな場面、映画やアニメで見たな。大抵、主人公の機転で打開策が見つかるんだけど。樹の場合、そんな力はない。

 樹はぜいはあ、と息を吐いていた。心臓がずきりと痛んで、思わず胸元を握りしめる。やばい、着付薬……部屋に置いてきた。冷や汗が滲んで、ごくり、と唾を飲む。馬鹿でかいトカゲに焼かれて死ぬか、心臓発作で死ぬか。どっちにしろキツい最後だ。ハシムがいれば……。一瞬、彼の顔がちらついたが、かぶりを振る。

 その時、心臓が破裂しそうに痛くなった。思わず叫びそうになる。

「く、そ……」

 終わりなのか、これで。ぎろり、とこちらを向いた瞳が細められた。ドス、ドス、と音を立てて、サラマンダーが近づいてくる。口を開くと、唾液が床に落ちてじゅうじゅうと音を立てた。樹は薄れゆく視界の中、樹を食べようとする、サラマンダーの鋭い歯を見た。不毛の地に飛ばされて、最後は化け物に食われて死ぬって、酷い結末だ。ああでも……きっと、この世界に来なきゃ誰かを好きにはならなかった。──樹は捻くれているね。素直になった方がいいよ。アジールに言われたセリフを思い出す。そうだな、アジール。おまえは正しかったよ。

 言えなかったな。ハシムに、好きだって。樹は目を閉じて、心臓に手を当てる。眩い光に包み込まれ、樹は目を閉じた。

 ハシムはハッ、と目を覚ました。ひどく寝汗をかいている。よく覚えていないが、嫌な夢だった。

 枕元に置かれている布を手にして、首筋を拭った。砂漠地帯なのに蒸し暑いのは、雨が降ったからなのだろうか。庇をあげて、窓の向こうを覗いてみる。20里先にある、神殿の様子は流石に見えない。樹は今頃、神官たちに賞賛されていることだろう。そして彼は、アジールの花嫁となる。想像したら苛立ちが襲ってきて、髪をかきむしっていたら、たらいを手にした侍女がやってきた。半裸のハシムを見て、彼女は頰を赤らめた。

「おはようございます、殿下」

「おはよう」

 彼女はハシムに近づいてきて、布で汗を拭った。いつもの侍女とは違ったが、美しい女だった。顎を掴んで持ち上げたら、長いまつ毛を揺らす。この顔を、どこかで見たことがあるような気がした。侍女なのだから当然か、と思い直す。腕を掴んで引き寄せたら、簡単に寝台に横たわった。樹なら嫌だとか離せとか喚くところだ。

 樹はハシムより華奢とはいえ、男だ。女の身体とはまるで違う。なにより、樹は誰かに愛されるのに慣れていない。そんな彼に快楽を与えて、戸惑いを溶かすのが楽しい。樹が相手でなければ意味がないとわかっていたが、苛立ちを発散したかった。

「名前は?」

「シエルです」

背中に手を回して、ファスナーを下ろそうとした。何か固いものがある。ヒュン、と空気を切り裂くような音がして、ハシムは飛び退った。シエルはすぐに距離を詰めて、剣を振った。それを避けたら、背後の本棚がバラバラと崩れた。ひやりと背筋が寒くなる。凄まじい切れ味だ。あれが当たったら、肉も骨も真っ二つに違いない。俺は女に恨まれやすいのだろうか、とハシムは思う。壁にかけてある剣を手にし、彼女と向き合った。

「さっきのは偽名か? シエル」

「答える必要はありません」

「女の名前を聞かずに帰したことはない」

シエルは無表情で剣を振った。決着は数分後についていた。かなりの手だれだが、所詮は女だ。ハシムはシエルを捕らえて、牢に連れて行く。大概の刺客は、拷問されて命を落とす。男だろうが、女だろうが関係ない。ハシムからすれば、慣れた工程だった。踵を返そうとしたら、牢の中の女が口を開く。

「おまえの稚児は死んだ」

 振り向くと、彼女は暗い目でこちらを見ていた。

「……おまえ、何者だ?」

「おまえたちが犬死にさせた、生贄の姉だ」

 ハシムは、口がきけない少年のことを思い出した。そうか、通りでどこかで見たことがある気がしていた。彼女は、砂嵐で死んだ子供に似ているのだ。ハシムは剣を引き抜いた。

「イツキに何をした」

「さあ。なんにせよ、今頃死んでいる」

 ハシムは牢を出て、門に向かって走り出した。馬を駆けて神殿へ向かうと、儀式の最中だった。神官たちが詠唱と踊りによって大地の穢れを祓い、祈りを捧げていた。ざっと見た限り、樹の姿はない。上段に腰かけて儀式を眺めていたアジールが、驚いたようにこちらを見る。アジールがこちらにやってきて、どうしたんだ、と尋ねてくる。

「刺客に襲われた。その女がイツキに何かしたらしい」

 そう答えたら、アジールの顔色が変わった。共に樹を探しに行こうとしたら、神官長がやってきて、アジールに宝剣を差し出す。

「アジール様、この大地から雨を奪う悪しき獣を切り裂いてくださいませ」

「神官長、樹がいないんだ。手分けして捜索したい。儀式は中止してくれないか」

「怖気付いて、逃げたのではないですか。さあ、お急ぎください」

 神官長は樹を侮るように鼻を鳴らし、アジールを促した。ハシムはアジールと目線を交わし合う。双子なので、言葉にせずとも通じ合うことができた。アジールは神官長が手にした剣を引き抜いて、ハシムと共に走り出す。背後からアジール様! と叫ぶ声が追いかけてきた。アジールはハシムに尋ねてくる。

「で、樹はどこにいるの」

「わからない。このあたりにいるのは確かだ」

 ふと、神殿の奥まったところのドアが開いているのが見えた。あそこは供物に使った遺体を処理する場所で、普段はしっかり施錠されているはずだ。ハシムはアジールを止めて、中を伺った。真っ暗な中に、かすかに光るものがある。それが樹だと気づいて、ハシムはハッとした。樹のそばには、サラマンダーが倒れている。ハシムは、サラマンダーが動かないことを確認し、樹に駆け寄った。

「樹!」

 樹を抱き起こすと、彼が身じろぎし、緩やかに瞳を開いた。ひどく顔色が悪くて、身体が震えていた。何があった、と尋ねたかったが我慢した。今は

「ハシム……」

「大丈夫か。怪我は?」

「俺、おまえに、言いたいことある」

「いいから喋るな。すぐに医官を」

 樹はハシムの頰に触れた。こちらを見つめる、黒い瞳に魅せられる。

「おまえのこと、すきだ。だから……忘れないで」

 俺のこと忘れないで。そう告げた瞬間、樹の身体が消えた。残滓のように、キラキラと粒子が光っている。ハシムは呆然と、掌を見つめた。アジールが近づいてきて、ぽつりと呟く。

「コノハ神は、たしかミズハ神に吸収されて消えるんだったね。樹はおそらく……君の中に」

「バカ言うな! どっかに隠れてるんだろ。あいつ素直じゃないから、告白して照れてるんだ」

 アジールは、憐れむような眼差しを向けてくる。バカなのは自分の方だとわかっていた。だが、樹がいなくなったという事実を認めたくはなかった。ハシムは兵士や騎士達を動員し、オアシスの周囲を徹底的に捜索した。しかし、樹は見つからなかった。ハシムは馬から降りて、広大な砂漠の真ん中に膝をついた。砂を掴んでも、さらさらと落ちて行く。それは、樹を失った時の感覚と似ていた。──どこに消えた。俺の緑の天使。

 異世界からやってきた不思議な青年は、広大な砂漠に消えてしまった。

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