第10話

翌朝目覚めたら、ハシムに抱きしめられていた。慌てて逃れようとしたが、ギュッと力を込められる。真っ赤になっていたら、ハシムが耳朶を舐めてきた。樹はひ、と声を漏らし、ハシムを推し返そうとする。彼はかすかに笑って、樹の唇を奪った。寝台に押し付けられ、何度も口付けられる。樹は息を切らしながら、服の下に滑り込んできた手を掴んだ。

「お、きなきゃだめだろ」

「ん……もうちょっと」

 樹はハシムの口付けに瞳を緩ませた。ハシムと密着すると、心臓が鳴っているのがわかる。ハシムも、ドキドキしてる。俺だけじゃない。口付けが深くなり、膝で足の間を割開かれたその時、どんどんとノックの音が響いた。ハシムは樹に覆い被さったまま、「なんだ」と尋ねる。

「なんだよじゃないっすよ。朝飯っす」

「すぐ行く」

 ベッドから降りたハシムが後でな、と囁いてバスルームに消えた。後ってなんだ。樹ははだけた服のまま、ぼんやりベッドに横たわっていた。着替えて朝食に向かうと、隊員たちはすでに食事を始めていた。トマスはにやにやしながら話しかけてくる。

「遅かったっすねえ。朝っぱらから何してたんすかあ」

「別に? さっさと食べていくぞ」

朝食を終えて王宮に戻ると、なんだかひどく慌ただしかった。ハシムの手を借りて馬から降りていると、ラビがこちらに駆けてくる。ラビは神像が、と青ざめた顔で言った。樹は、ハシムとラビとともに神殿へと向かう。壊された神像を目にしたハシムが、眉を顰めた。

「ミズハ神……だよな。ひどいなこれは」

「いったい、誰がこんなこと……許せません」

 ラビは小さな身体を震わせている。神官にとっては、神像は神そのものなんだろう。なら、犯人はおそらく神官たちではない。ふと、足元に白い髪の毛が落ちていることに気づいた。まさか、アジールが……? でもなんで、自分の国の神様を壊したりするんだ。王宮に戻ると、アジールが笑顔で出迎えた。

「やあ。お帰り、ハシム。樹も」

 樹は、彼の笑顔の裏を探ろうとした。アジールには、神像を壊した罪悪感などまるでないように見えた。人ではないものの力を得ると、そんなものすら、なくなってしまうのだろうか。樹は息を吸い込んで、一歩踏み出した。アジールが樹の方に視線を向ける。

「アジール。おまえ、神像を壊しただろ」

「……なんの話かな」

「とぼけるなよ。国王になるのに、そんなことしていいのか」

 ハシムは驚いた表情で、アジールを見ている。どうして、とハシムがつぶやいた。

「知ってるだろ、俺があの像を好きだって」

「ああ、だから壊したくなったのかもね」

アジールは、冷たい笑みを浮かべている。ハシムは、悲しげな顔でアジールを見た。そうして、踵を返して歩いていく。樹は、ハシムを追いかけようとした。樹、と声をかけられて振り向くと、引き寄せられる。アジールは、樹の耳元に囁いてきた。

「わかってるよね、樹。僕は君が好きだから、自由にさせてあげてるんだ」

「……ハシムに嫌がらせするために、俺をそばに置くのか」

「ひねくれてるんだね、樹って。人の好意は素直に受け取った方がいいよ」

 おまえに言われたくないよ。アジールが執着してるのはどう見ても樹ではなくハシムだ。ただし、そこには何か歪んだものを感じる。この双子の間には、樹にはわからない歪みがあるのだ。アジールは、おいで、と言って樹の手を引いた。彼に連れて行かれたのは、王宮の庭だった。アジールは井戸を覗き込んでいる。

「ほら、水が溜まってるだろ。昨日、雨が降ったんだ」

「ああ、俺らも降られたから知ってる」

「樹、君が何かした?」

 樹はハッとして、アジールを見た。こちらを見つめる瞳には、なんの感情も浮かんでいない。雨が降ったら嬉しいものじゃないのか? 少なくとも、数日は水の心配をしなくて済む。樹は警戒しつつ答えた。

「……「雨ふり」を歌ったんだ」

「あめふり?」

「あめあめふれふれ……みたいな歌」

「変わった歌だね。「ニホン」の歌?」

 樹は頷いて、歌を歌い始める。アジールは、じっとその歌を聴いていた。雲が流れてきて、あたりがふっ、と暗くなった。ぽつり、ぽつりと雨が降り出す。やがて降りしきる雨が大地を濡らした。アジールは天を見上げて、ああ、とため息を漏らした。こいつでも、こんな顔をするんだな。樹はそう思った。完全に、人間じゃなくなったわけじゃない。アジールは、2本並んで立つ木を見上げた。

「これ、僕らが生まれた時に母さんが植えたんだ。二人で仲良く国を守って欲しいって」

「……じゃあ、そうしたらいい」

「できないんだよ。君には、わからないかもしれないけど」

 アジールはそう言って歩いていく。わかるかよ、そんなこと。植物に水をやった後、ハシムを探して歩き出した。回廊のベンチに、ハシムが座り込んでいた。樹はハシムに近づいて行き、隣に腰を下ろす。ハシムはチラッと樹の方を見て、尋ねてきた。

「さっきの雨、おまえか?」

「うん」

「そっか……すげえな。本当に、巫女なんだ」

ハシムはアジールに、眩しそうな眼差しを向けてきた。特別だ、と言われても喜べなかった。植物と話す能力のせいで、笑われたり馬鹿にされたりしてきたのだ。ハシムは手を伸ばして、樹の頰に触れた。見つめられると、心臓が高鳴る。

「なあ、一緒に離宮に来ないか」

「でも」

「今日の夜、門の前で待ってる」

 アジールは、樹の力を得ようとするかもしれない。逆に、邪魔だからと殺そうとするかもしれない。どちらにせよ、アジールのそばにいたいとは思っていない。──ひねくれてるんだね、樹。アジールの言う通りなのかもしれない。うまくやれないけれど、一番人との繋がりを欲している。

 その夜、樹はこっそり部屋を出て、廊下を足早に走って行った。門の前では、ハシムが立っていた。駆け寄ってごめん、と声をかける。こちらを見たハシムが、「月が綺麗だね」と言った。樹ははっ、と彼を見上げる。

「アジール……」

「こんばんは、樹。こんな夜中に何をしてるの?」

アジールは、ジリジリと樹を追い詰める。逃げようとした腕を掴まれて、地面に転がされた。ハシムが駆けてきて、アジールに向かって剣を振る。アジールは、素早くそれを避けて、ハシムの足に蔦を巻きつけた。鳥葬っていうのもいいよね。アジールの囁きに、樹は身体を震わせた。ハシムをずるずると引きずっていくアジールに、樹はすがりつく。

「待て!」

「どうしてわからないのかな。君たちは俺に逆らってはいけないのに」

アジールは、蔓を使ってハシムから剣を奪い取り、ハシムの首筋に突きつけた。ハシムはじっとアジールを見つめている。

「刺してみろよ」

「ハシム! 何言ってるんだ」

「俺は何度も刺客に刺された。でも生きてるんだ。おまえを守りたかったから、死ねなかった」

ハシムの首筋から、血が流れ落ちる。それを目にしたアジールが、突然頭を抱えて呻き始めた。

「違う……」

 違う違う、と喚きながら、地面に膝をつく。樹はギュッとハシムにしがみついた。その時アジールの背後に、何か黒いものが見えた。それは小さくて、真っ黒なヤギだった。なんだ、あれ……。樹はぞくりと背中を震わせ、ヤギを見上げる。ハシムにも、見えているようだった。アジールは、矛盾まみれの言葉を口にしていた。

「ハシムは大事な弟で、嫌いなんだ。そばにいて欲しいけど、いなくなって欲しい」

「アジール、しっかりしろ!」

ハシムはアジールの腕を掴んだ。ふと、アジールの目が正気に戻った。殺してくれ、とアジールが言った。

「僕は、弱い。弱かったから、悪魔に憑かれてしまったんだ……」

「何言ってるんだ」

「父を殺したんだ」

 ハシムは顔をこわばらせて、アジールを見下ろした。アジールは、ハシムの腕に縋り付く。

「最初の生贄にしたんだ。君をいじめて、許せなかったから」

ハシムは無言で剣を拾い上げて構えた。樹はハッ、と息を飲む。アジールは目を閉じた。ハシムが剣を振り下ろしたが、獣の姿に変化したアジールがそれを弾き飛ばす。ハシムの剣は茂みに落ちた。アジールは、もはや彼の人格などないかのようにダミ声で叫んだ。

「こいつはもう用済みだ! おまえに器を移してやる、ハシム」

「ふざけんなよ、ヤギ!」

 ハシムの手足に、蔓が巻き付いた。絡みついてくる舌に、ハシムは舌打ちする。悪魔はアジールの身体を抜けでて、ハシムの中に入ろうと飛んだ。樹は、「やめろ!」と叫ぶ。その時、樹の全身が光り輝いた。悪魔がぎゃあ、と叫んで、光のなかへと消えて行く。そのあと、中空にはきらきらと残滓が輝いた。ハシムは、驚いたようにこちらを見ている。地面に倒れていたアジールが、大量の血を吐く。樹は、アジールに駆け寄った。

「アジール!」

「……昔、神像をこわしたら、神罰が、降るって言われたな」

 アジールはそう言って、樹に微笑みかけてきた。きっと、これは罰だね。美しい白い髪が、血で汚れてしまっている。ハシムは医官を呼びに行くと言って、走って行く。樹は、アジールの心臓のあたりに手を当てた。かなり鼓動が弱くなっている。樹は、保健体育で習った心配蘇生を繰り返す。アジールは、途切れ途切れにつぶやいた。

「ごめん、ね。樹。ぼくは君に嫉妬してたんだ。ハシムを奪われたくなかった」

「喋るなよ。酸素がなくなる」

「素直になればよかった。ハシムが王になるのを認めれば、よかったんだ……」

 アジールがまた血を吐いた。だめだ、このままじゃ死んでしまう。アジールのことは、好きではなかった。酷い目に遭わされて、むしろ嫌いだった。だけど悪魔だの神だの、よくわからないもののせいで死ぬなんて。人間は、そんなものたちのために生きてるのか?

 樹は心臓マッサージを繰り返しながら、呼気を吹き込んだ。

 生きろ。

「生きろ。俺だって、死にかけだった。一人で死んでくって諦めてたけど、生きてる! おまえにはハシムもラビも、みんないるだろ。だから」

 ──生きろ。樹の手が金色に光って、アジールの心臓が大きく鼓動した。アジールはビクッと震えて、そのまま気を失った。弱々しかったアジールの心臓は、どくん、どくん、と鳴り始める。ほっ、と息を吐いていたら、医官たちがやってきた。アジールは、すぐさま寝室に連れて行かれた。それきり、部屋のドアは開かない。ハシムは部屋のドアを見つめて、樹に尋ねてくる。

「さっきの……なんだったんだ?」

「わからない」

 樹はそう答えて、ハシムを見上げた。ハシムはいつになく、青ざめた顔をしている。彼は剣の柄を握りしめている。ハシムは……父親を殺したアジールを許さないんだろうな。アジールが目覚めたのは、それから3日後のことだった。樹はハシムと一緒に、会議室へ向かっていた。会議を開くから出席するようにと、アジールから要請があったのだ。会議室に足を踏み入れたら、周囲から視線が集まってきた。神官長が、血走った目で叫ぶ。

「なぜこの者がいるのですか、アジールさま!」

「落ち着いて、インシオ。今から説明をする」

 アジールは、淡々とした口調で、健康の不安があるので王位を退く、と言った。その場に集まった人々が、ギョッとした表情でアジールを見る。ハシムは黙ってアジールを睨んでいた。神官長が悲痛な叫び声を上げる。

「そんな馬鹿なっ! あなたは神です。健康に不安などあるわけがありません、殿下!」

「ぼくは神じゃない。神気はハシムにある。そして、その神気を高めるのは運命の花嫁」

 アジールが樹を見つめた。会議室がさらに騒然とし出す。

──まさか、あれは異世界人だろう。

──だがたしかに、イツキ殿がきてから雨が二度降った。

──神がアジール様ではなかったと? 我々は騙されていたのか。

神官長はざわめきを一掃するように、地団駄を踏んで喚き散らす。

「ありえん! その者のせいで、私の部下は死んだ! 神殿は破壊されたのだ!」

「黙れ」

 アジールに一喝され、神官長はビクッと震えた。樹は彼の威圧感に、ごくりと唾を飲む。悪魔が憑いていなくても、アジールは結構怖い。アジールはその場がしんとした後に、穏やかに告げる。

「──なら、樹が伝説の巫女だと証明するしかないね。樹、我々は急いで神殿の再建築を進める。再建式の当日に、みんなの前で雨を降らせて欲しい」

「あの、別にそんなこと証明しなくていいんじゃ」

「頼むよ、樹。我が国の命運は、君にかかっている」

 アジールが頭を下げると、樹に非難の視線が注いできた。神官たちにとっては、アジールはまだ神なのだ。了承しなければ場が収まらないと思って、仕方なく頷いた。ハシムは樹の隣で、ずっと顔をこわばらせていた。会議の後、樹は庭に行って、神殿の周りに植える植物の発育具合を確認した。これなら、新しい神殿の近くに移植できそうだ。回廊を歩いて行くと、ハシムの硬い声が聞こえてきた。

「どういうつもりだ、アジール」

「どういうって?」

 そっと様子を伺うと、双子が向き合って立っていた。アジールは冷静な表情を浮かべているが、ハシムの表情は険しかった。

「樹を見せものにする気か」

「王宮内での、樹の立場を上げるためだ。神官長は特に彼を敵視してるからね」

「だったらなんだ。樹は離宮に連れて行く」

「ハシム……君は王になるべきなんだ」

「それでお前みたいに悪魔に取り憑かれるのか? 王制なんか、無くなればいい」

 ハシムは吐き捨てるように言って、去って行った。アジールはため息を漏らし、樹に視線を向けてくる。樹は、アジールに近づいて行った。アジールは聞いてたんだね、と苦笑する。アジールを許せなくても、話は聞くべきなのだ。アジールは間違いなく、国を思って提案しているのだから。アジールは父親を殺した。樹も父が苦手で怖かったが、殺そうなんて思ったことはない。どんな理由があってもアジールを理解できないし、正直怖い。だけど、このままではアジールが一人になってしまう。そうなれば、同じことが繰り返されるだけだ。樹は寄り添うように、アジールの隣に立った。

「ハシムは父を愛していたんだよ。あんなに虐げられても……」

「お父さんは、厳しかったのか」

樹の問いかけに、ああ、とアジールが頷いた。

「ハシムにだけね。でも、僕も愛されている気はしなかった」

「ハシムの、ためだったのか?」

「わからない。だけど結局、悪魔との契約に捧げたんだから、ただのエゴだね」

 アジールはそう言って微笑んだ。人間なんて、エゴの塊だ。自分のために生きている。だけどそれだけじゃ虚しいと、樹は思っていた。

樹はアジールと別れて、ハシムの部屋へ向かった。ハシムはちょうど、風呂に入っているところだった。ドアの隙間から傷だらけの背中が見えて、ハッとする。身体を洗い流していたハシムが、樹に気づいてどうした、と尋ねてきた。樹はハシムをじっと見て、口を開く。

「俺、再建式に出る。植樹もしたいから」

「……アジールの、ためにか」

「違う。自分のためっていうか、ずっともやもやしてた」

 樹が少年を逃したせいで、あんな災害が起きたのか。それともただの偶然なのか。それを知りたいと、ずっと思っていた。この世界に本当に神様がいるなら、聞きたかった。どうして俺は、この世界にやってきたのか。死にかけで、人生を投げているような俺が。その答えがわかれば、この世界で生きる覚悟ができる。ハシムのそばにいる覚悟が。

ハシムはじっと樹を見つめて、好きにしろ、と言った。

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