第9話

 ザイール・エリシアは、松明を手にして、王宮内にある神殿を訪れていた。入り口の前に生えている草は雨露に濡れている。月に2回も雨が降るなんて。まさに奇跡というべきだ。樹がやってきたことと、何か関係あるのだろうか。

 ここには撤去された像が安置されている。その中に、少年なのか少女なのか、わからない像があった。ほっそりしていて、植物を胸に抱いている。植物神、ミズハ。ハシムの初恋の相手だ。どことなく、樹に似ている気もする。必然だったのか、ハシムが彼に惹かれるのは。ザイールは、かつてのことを思い出していた。

「兄さん、どこ行くの?」

 7歳のザイールは、塀を乗り越えようとしているハシムに声をかけた。ハシムはしーっ、と指を立てる。彼はキョロキョロとあたりを見回し、「神殿に、裸の像見に行く」と言った。ザイールには、なんでそんなものを見たいのかよくわからなかった。ただ、裸という言葉は、何か後ろめたさを感じさせた。ハシムはザイールよりもずっと大人のことに詳しかった。僕も行く、と言ったら仕方ねえなあ、と引っ張り上げてくれた。

ザイールは、ハシムのことが好きだった。明るくて優しいハシムが王様になったら、大地に雨が降って、花畑や緑が増えるんじゃないかって思っていた。

「俺、この像が好きなんだ」

 ハシムはそう言って、嬉しそうにミズハ神の像を見上げる。裸じゃないのに、どうして? そう思った。胸がちくりと痛んで、それも不思議だった。ハシムが好きなものは、ザイールも好きになるべきなのに。神様を好きになるなんて、ハシムは変だ。

 ミズハに焦がれるハシムは、間違っていると思った。おそらく、兄を誰にも取られたくなかったのだと思う。それほどまでに、ザイールの世界にはハシムしかいなかった。

 神殿から帰ったハシムを待ち構えていたのは、折檻だった。ばしん、と響いた音に、ザイールはビクッと震えた。父は無表情でハシムを見下ろして、また叩いた。ハシムは唇を噛んで、泣くのを我慢していた。

「なぜザイールを連れ出した。外界にはサラマンダーや野党、砂嵐の脅威があるのだぞ」

「……申し訳ありません」

「やめて。ぼくが連れてって欲しいって頼んだんだ」

ザイールは泣きながらすがりついたが、父は無視して、ハシムに三発目を喰らわせた。そこでようやく母が飛び込んできて、ハシムをかばった。子供が大の大人に何回もぶたれたのだ。ハシムはしばらく高熱を出して寝込んだ。ハシムは真っ赤な顔でぼんやりとつぶやいた。

「……どっか遠くに行きたいなあ」

「だめだよ。ぼくを置いてかないで」

 思えば、ザイールはその言葉でハシムに呪いをかけていたのだと思う。ザイールが縛り付けなければ、ハシムは自由になれたのに。ハシムは、父によって離宮に送られた。父がなぜハシムをそこまで嫌うのか、ザイールにはわからなかった。毎日、ハシムが戻ってくるよう星に願った。ハシムが離宮から帰ってきた時は、とても嬉しかった。だけど父はまたハシムを苦しめた。

 許せなかった。

父への憎悪が募るにつれ、ザイールに話しかけてくるものがあった。それは大抵、小さなヤギのような姿をしていた。真っ黒でツノが生えていて、気が悪くなるような、不快な声をしていた。それはおそらく、悪魔と呼ばれるものだった。

 ──王はハシム王子を恐れているのです、殿下。

「恐れている?」

──ハシム王子は、神気をもっている。それに対する嫉妬なのです。

 神気。やはり、王になるべきはハシムだったのだ。だけど、彼が国を継いだらアジールはどうなるんだ? 決まっている。アジールはいらなくなる。今でも、ハシムはみんなに好かれている。アジールはどうだ? 王という立場がなければ、誰がアジールに見向きするのか。なぜハシムばかり。父の嫉妬は、アジールに伝染した。自分は父にそっくりなのだとわかって、ますます気を病んだ。ある日、アジールは悪魔に交渉した。

「力が欲しいんだ、悪魔」

──かしこまりました、殿下。その代わり、月に一度生贄を捧げてくださいませ。

 アジールは、悪魔と契約した。

 それ以来、男女問わず人々がアジールに近づいてくる。悪魔の魅了なのだろうが、性的に誘われることも多くなった。寝室に連れ込めば、人目につかず殺すのも簡単だ。この力の前では、誰もがひれ伏す。いくらハシムに神気があろうと、アジールには逆らえない。生贄にする人間など、いくらでもいる。アジールは、神像をじっと見つめた。もし、イツキが居なくなったら。ハシムはさすがに、病まずにはいられないはずだ。ハシムが病んだら、悪魔を彼に移す。それこそ、強い国を作る正しいやり方だ。アジールは、持っていた木槌で像を壊した。

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