第8話
翌朝目覚めたら、アジールが隣で眠っていた。人間の姿に戻っている。朝になると、自然に戻るんだな。何気なく髪に触れたら、何か固いものが指先に当たった。これって……ツノ? そっと触れたら、アジールが身じろぎした。その反応は少しだけ、年相応の青年に見えた。
風呂に入りたくて、全裸のままでバスルームへと向かう。どうやってお湯を溜めるのかと思っていたら、背後から長い腕が伸びてきた。アジールは蛇口を捻って、樹に微笑みかけてきた。
「おはよう、樹」
「……どうも」
風呂が沸くまでの間、待つことにする。アジールは風邪を引くといけないから、と樹にバスローブを着せた。樹はバスタブの縁に腰掛け、バスローブの裾を持ち上げて、足先でお湯を跳ねさせた。そうしながら、知っている童謡を口ずさむ。こちらの様子をじっ、と眺めていたアジールが口を開く。
「案外、平気そうだね。獣に抱かれたのに。普通はみんなショックで口が聞けないけど」
「化け物に穢されたって泣き喚けば満足なのかよ」
「面白いね、樹は。洗ってあげるから脱いで」
アジールはクスッと笑って、樹のバスローブを脱がせた。アジールの手は樹の身体にあまさず触れてきたが、何も感じなかった。やっぱり昨日のは、麻薬のせいだったんだ。
風呂に入ったあと、アジールは侍女を呼んで朝の支度をさせた。侍女たちは、チラチラと樹を見ている。樹の首筋には、アジールがつけた痕が散っていた。これも周りに見せるために、わざとつけたんだろうな。はちみつを塗ったパンを齧って、アジールに尋ねる。
「なあ、もう満足しただろ。部屋から出してくれ」
「満足? なにが? もちろん、昨夜の君はとってもかわいかったけど」
意味深な笑みを浮かべるアジールに、侍女たちが顔を赤くしている。彼女たちは、アジールの裏の顔など知らないだろう。樹はうんざりした口調で返した。
「庭に行きたいんだよ。監禁みたいな真似はやめてくれ」
「君は植物が好きだよね。朝の政務を片付けたくるから、あとで一緒に行こう」
誰も一緒に行きたいとは言っていないのだが。アジールは樹の額に口付けて、部屋を出ていった。樹もそうしたかったが、扉の前には神官が立っている。蔓で縛り付けるのはやめたらしいが、監視は続行中らしい。樹はため息をついて、アジールの帰りを待った。アジールが戻ってきたのは、1時間後だった。
「ごめんね、長引いて。行こうか」
「忙しいならついてこなくていい」
「君といたいんだよ」
アジールは樹の手を握ってきた。なぜだろう、姿も声もハシムと同じなのに。彼に触れられると、寒々しい気分になる。おまけに通りすがった神官たちに睨まれて、針のむしろに座らされている気分だ。庭にたどり着いた樹は、いつも通り水を汲もうとした。しかし、井戸が枯れている。樹は眉を顰めて、井戸の中を覗き込んだ。
「どうかした? 樹」
「井戸の水がなくなってる。昨日はあったのに」
「ああ……サラマンダーの仕業かも」
サラマンダー? 樹が問い返すと、砂漠に住む巨大なトカゲだ、と返ってきた。サラマンダーは人間が貯めた水を飲み尽くしてしまうそうで、捕まえたハンターには賞金が出るらしい。アジールは、懸賞金を出す、と言って去って言った。これじゃ、植物に水をやれない。どうしよう、と考えていたら、ハシムがやってきた。骨が折れたのか、手や腕に包帯を巻いている。彼は樹に気づいてはっ、とした。こちらに駆けてきたハシムが、樹の肩を掴む。
「樹! おまえ無事か。アジールに何もされてないか」
「ハシムこそ、平気なのか」
樹は包帯が巻かれている手に目を向けた。ハシムは平気だ、と言って樹を抱きしめる。よかった、という安堵の声に、胸が高鳴った。樹は抱きしめ返そうとしたが、ハシムの背後にアジールがいるのに気づいて息を飲む。アジールは、ハシムの方に蔓を伸ばしていた。樹は咄嗟に、ハシムを突き飛ばす。
「樹?」
「触らないでくれ。俺、アジールのものだから」
「何言ってんだよ」
アジールはこちらにやってきて、樹の襟を開いて首筋をあらわにした。白い肌に散った無数の痕を見て、ハシムの表情がこわばる。
「それ……」
「樹はとても可愛かったよ。初めてじゃなくて残念だったけど」
ハシムがアジールを睨みつけた。彼がアジールにつかみかかる前に、樹は慌てて口を開いた。
「アジールは王様だし、優しいし、おまえみたいに侍女といちゃつかないし、俺のこと贅沢させてくれるし。だから、迷惑だから、もう俺に構うな」
多分、語尾が震えてしまったと思う。その場にしばらく沈黙が落ちた。ハシムがどんな顔をしているのか見るのが怖くて、足元に生えている草を見つめていた。永遠にも思える時間が経った頃、ハシムが「わかった」と言った。はっ、と顔をあげたときには、もう背中を向けていた。待って。本当は違う。助けて欲しい──。
ハシムが去って行くと、アジールがふ、と笑う。
「ハシムのあんな顔、初めて見た。捨てられた犬みたいだったね」
「離してくれ」
樹は押し殺した声で言った。アジールはじっとこちらを見たあと、樹から手を離し、去って行った。その場にしゃがみ込むと、植物たちが慰めてきた。
──ダイジョウブ、イツキ。
──ナカナイデ。
泣いてなんかいない。これは自分で決めたことなんだから。ハシムを守るには、他に方法はないのだ。樹はしばらく、庭に座り込んでいた。蝶が目の前を横切って行く。いいよな、蝶って。どこにでも行けるんだから。その様子を眺めていたら、植物たちの嘆きが聞こえてきた。
──イツキ、ノドカワイタヨ。
──ミズガホシイヨ。
そうだ、水。水をやらなければ、植物が枯れてしまう。樹は王宮中を走り回って、井戸やため池の様子を調べた。どこも水が干上がってしまっている。このままじゃ、人間が飲む水もなくなるだろう。ふと、訓練所の近くを通りかかると、兵士たちが馬に乗っているのが見えた。ハシムが指揮をとっている。樹が近づいて行くと、彼は目を逸らした。赤髪の男が、よう、お稚児さん。と声をかけてくる。樹はハシムの方を気にしながら尋ねてみた。
「どこか、行くのか?」
「水が干上がっちまっただろ。近くのオアシスに水を取りに行くんだ。ほら、樽」
彼はそう言って、馬の両脇に吊るされた樽を指差した。5リットルぐらいかな。おそらく、飲み水の分ぐらいしかないだろう。雨が降らなかったら、王宮もいよいよ厳しいのだ。人が多い方が、水をたくさん運べるだろう。そう考えて口を開く。
「俺も行く。植物に水をあげたいんだ」
「ダメだ。サラマンダーが出没する危険がある。素人は連れていけない」
ハシムの冷たい声に、兵士たちは顔を見合わせた。それからニヤリと笑う。
「あー、なるほど? 痴話喧嘩か」
「まあ、付き合ってたらそういう時もあるよな。お稚児さんは俺の馬に乗るか?」
「おい、トマス。ダメだって言ってるだろうが」
赤髪の男──トマスは、ハシムの言葉を無視してすでに樹を馬に乗せてしまっている。ハシムはため息をついて、隊列を率いて進み出した。普通、上官の命令って絶対なんじゃないのか。なんだか適当な軍隊だな。前を行くハシムの背中を見つめていたら、トマスが囁いてきた。
「そんなに見たら穴が開くぞ」
「……見てない」
「素直じゃないね。ああ見えてあの人モテるし、なんかしたなら謝ったら?」
「別に喧嘩じゃないし付き合ってもない」
「なら俺と付き合う?」
トマスが樹の顎を掴んだ。唇が触れ合いかけた時、何かが飛んできて男の顎に当たった。どうやら小石らしい。ハシムはこちらを睨んだあと、手にしていた小石を投げ捨てた。赤髪の男は顎をさすりながら、あっちも素直じゃないな、とぼやいた。
オアシスにたどり着くと、みんな樽を担いで雨林の中へと入って行く。樹も樽を運ぼうとしたが、重くて持ち上がらない。くそ、もう少し腕力があれば。苦戦していたら、伸びてきた腕が樽を持ち上げた。顔をあげたら、ハシムがこちらを見下ろしている。先に歩いて行くハシムを、慌てて追いかけた。
「あ、のさ」
「なんだ」
「植物と話せる神様、雨を降らす能力がどうこう、って言ってたじゃん。それ、どうやるんだ?」
「歌うんだ」
歌う? たしか、雨が降った時に歌ったような気がする。でも、さっき風呂場で歌った時は降らなかったよな。迷っていたら、ハシムが歩き出した。樹は慌ててハシムについていく。
「リアとミスティって、元気なのか?」
「多分。最近離宮に帰る暇がなかった。明日帰る」
ハシムは、恐ろしいほどそっけなかった。こちらを振り向きもしない背中を見ていると、足元が揺れるような感覚を覚える。幼い頃、立ち止まってくれない母の後を追いかけたことを思い出し、胸が痛くなる。こっちを見て欲しい。だけど、構うなって言ったのは樹のほうだ。もうハシムのことを頼れない。きっと、アジールがハシムを殺してしまう。
「俺……なんの歌歌えばいいかな」
「さあ」
樹が足を止めたら、ハシムの背中が見えなくなった。
アジールに逆らったら殺されると、ハシムだってわかっている。だからもう、樹のことは切り捨てたのだ。それでいいんだ。散々ハシムを邪険にしてたくせに。冷たくされると追いかけるなんて。
──都合がいいな、俺って。でも、怖かった。好きになって、飽きられて捨てられるのも、ハシムを失うのも怖い。俺は臆病で、どうしようもない。だからいつも一人になってしまう。人を頼るな。自分でなんとかしろ。
試しに、「雨ふり」を歌ってみようか。俺には特別な力なんてないけど……。樹は樹木に覆われた空を見上げて、歌い始めた。
◆
縄を巻いた樽をバシャン、と投げ入れて、水を汲みながら引き寄せる。何個目かの樽を置いた後、ハシムは樹がいないことに気づいた。探しに行くべきかと思ったが、任務中だと思い直す。樹は植物の声を聞けるし、迷うことはない。
──アジールが樹を手に入れようとしているのは、やっぱり樹が運命の花嫁だからなのか。
見せつけられたアジールの力は、もはや神の領域だった。樹は、ハシムのためにああ言ったのだ。彼の気持ちはわかっている。だが、白い肌に散った痕を思い出すと嫉妬でどうにかなりそうだった。今すぐその痕を自分の熱で消してやりたい。だが、樹を傷つけそうで怖い。その葛藤を押さえつけるのに必死だった。初めての感情だから、突き放す以外に方法がわからない。
トマスがにやにやしながら話しかけてくる。
「たーいちょ。なんかピリピリしてますね? 今日女の子呼んで遊んじゃいます?」
「遊ばない」
「うわマジかよ? この人ほんとに隊長? アジール殿下と入れ替わってません?」
大騒ぎしている部下の襟首を掴んで、水の中に沈めた。アジールなら……こんなふうに自分の気持ちをもてあましたりはしない。アジールは、苛立ちも嫉妬もしない。いつも神のように超然としている。昔はよく、ハシムのあとをついて回っていた。一人じゃ眠れないとハシムのベッドに潜り込んできたし、別れの時は号泣していた。離れて暮らした頃から、何かが変わった。兄が一体何者になってしまったのか、ハシムにはわからない。化け物だと、樹は言っていた。水から上がってきたトマスが、文句を垂れている。
「これってパワハラじゃないですかーっ」
「うるさいぞ、トマス。水汲みが済んだら撤収。俺は樹を探してくるから、先に王宮に戻ってろ」
「自分だけイチャイチャするんでしょ、ずるいっすよ!」
ハシムはトマスの声を無視して歩いて行く。元来た道を進んで行くと、ぽっかりと空いた空間に、樹が佇んでいた。彼は黒い瞳で、じっと空を見つめている。樹が口ずさんでいたのは、ハシムの知らない歌だった。空を見上げて歌っている彼は神秘的で、儚げに見えた。このまま、どこかに飛んで行ってしまうのではないか。そう考えて、背筋が震える。ハシムが近づいて行くと、樹が歌うのをやめた。じっと見つめたら、彼は気まずそうに尋ねてくる。
「水汲み、終わったか?」
「ああ。今の歌は?」
「雨ふり、っていうんだ。この歌歌ったら雨が降るかな、って安直な考え」
樹はそう言って笑った。その笑顔を見たら、胸の奥が熱くなった。乾いた心に染み入るような笑み。アジールに殺されるだの、神の力がどうだの、なんでもいい、そんなこと。腕を掴んで引き寄せたら、樹がビクッと肩を震わせた。いつまで経っても慣れない反応が、愛おしくなる。ハシムは樹を抱き寄せて、耳元に囁いた。
「好きだ」
「は、っ!?」
「おまえが好きだ。だから、アジールにはやらない」
「な、に言ってるんだよ。アジールに敵うわけないだろ。あいつはおまえと違って完璧だし、逆らったら殺されるぞ!」
樹は泣きそうな顔で訴えてきた。樹はいつも難しい顔か、悩んでいるばかりで笑うことが滅多にない。もっと笑って欲しい。幸せにしたいのだ、樹のことを。きっともう、そんな人間には出会わないだろうと思った。異世界からやってきた、緑の天使。ハシムは膝をついて、樹の左手を取った。薬指に近づけたら、彼が真っ赤になる。
「は、離せ」
「おまえが俺を嫌いでもいい。俺はおまえが好きだから、一生構う」
「〜〜わかったから」
樹はハシムの手から、自分の手を引き抜いた。こちらに背を向けた彼の耳は真っ赤になっている。思わず笑ったら、二人の間に、ぽつり、と水滴が落ちてきた。樹ははっ、と顔を上げた。雨が降り注いで、オアシスの木々を濡らして行った。
◆
ハシムたち一行は、突然のスコールから逃れるように近くの宿場町へと向かった。しかし、人数分の部屋が空いておらず、ハシムと同じ部屋にされてしまった。かと言って、他の隊員と同室というのも気を遣う。宿屋の一階にあるにぎやかな酒場に、かんぱーい、という声が響く。トマスは酒瓶片手に、上機嫌で笑っている。
「はー、働いた後の酒はサイコーっすね。あと美人のおねーさんがいたらいいんだけどなー」
「ほら、風邪ひくから拭け」
ハシムは酒よりも、樹の世話を焼くのに夢中だった。主人から借りたタオルでゴシゴシと頭を拭いて、体調はどうだとか、あんまり酒を飲むなとか言ってくる。子供じゃないんだから、そんなに心配される必要はない。態度が一転して過保護なハシムに対し、トマスはニヤニヤ笑っていた。
「いやあ、仲良いなあ。オアシスで二人きりの時、何があったんすか?」
「野暮だな、トマス。ロマンチックに雨の中でキスだろ」
隊員たちはあはははは、と笑っている。樹はタオルを被ったまま顔を熱くした。元々、こういう席には慣れていないのだ。しかも、こんなふうに揶揄われるなんて。部屋に引っ込んで、一人で食事をしたい。でも、空気悪くするよな。樹は無理やりついてきたわけだし。樹が食事に手をつけていないと察したハシムが囁いてきた。
「大丈夫か? 気分悪いなら上行くか」
「大丈夫」
ハシムの隣でちまちまとつまみを食べていたら、美しい女性たちが近づいてきた。彼女たちはハシムのそばに座ってお酌をする。押し除けられた樹はテーブルの端に寄った。彼女たちの表情はうっとりしていた。ハシムの顔と名前は、意外と知られている。
また襲ってきたりして……? そちらを気にしていたら、女性がハシムの腕に手を置いた。
「お兄さん、素敵ですね。お名前は?」
「さあ。なんだと思う?」
女性が名前を囁くと、ハシムは「違う」と言った。もう一人の女性がなにか囁く。彼女の手はハシムの胸元を撫でていた。トマスは「俺が呼んだのに隊長ばっかり」と悔しがっている。そりゃそうだろ、と他の隊員がぼやいた。女性たちはハシムの腕を引っ張って2階に行こうとした。ハシムはその手を避けて、樹の肩を抱き寄せた。
「悪いな。好きな奴がいるから」
樹は飲んでいたジュースを吹き出しそうになった。隊員たちにヒューヒューと囃し立てられて消えたくなる。女性たちは肩をすくめ、他の隊員にモーションをかけ始めた。樹が立ち上がると、ハシムがどうした、と尋ねてくる。樹は寝る、と言って2階へ上がって行った。部屋に戻って布団にくるまっていたら、ハシムがやってきた。彼はベッドサイドに腰を下ろして尋ねてくる。
「機嫌が悪いな。怒ったのか?」
「……俺、ああいうの初めてだからどうしていいかわからない」
ハシムは目を瞬いて、ふ、と笑う。
「可愛いな、おまえ」
後ろから抱き寄せられて、樹はびく、と肩を揺らした。大丈夫、何にもしない。ハシムはそう言って、樹を抱きしめてくる。スパイシーな匂いに包み込まれて、胸が高鳴った。言葉通り、ハシムは何もしてこなかった。樹は彼の腕の中で、眠りに落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます