第7話

ドクドクと、心臓が鳴り響いている。あれは、一体なんだ。まるで監禁だ。アジールがあんなことをさせているんだろうか。とにかく、ハシムに伝えないと。

庭をかけぬけて、ハシムがいる訓練所まで走って行く。青年たちに囲まれているハシムが視界に入った。どことなく、物憂気な表情を浮かべている。赤い髪の青年が、ハシムに声をかけた。

「なにぼけーっとしてるんですか、ハシム様」

「どうせあの稚児のことでしょ」

「はー、色ボケっすねえ。こんな人が軍部の長で大丈夫っすか」

「ハシム!」

樹が駆け寄ると、青年たちがヒュー、と口笛を吹いた。ハシムがどうした、と尋ねてくるが、答えている暇はない。彼の腕を掴んで、あの潜戸まで連れて行った。ハシムは不可解そうな顔で、潜戸の中を覗き込んでいる。

「何があるんだ、こんなとこに」

「いいから、早く」

 樹はハシムを連れて向かったが、そこには鍵がかかっていた。さっきまで開いていたはずなのに。呆然とする樹に、ハシムが話しかけてくる。

「夢でも見たんじゃないか?」

「っ、違う」

「おまえ、体調悪いんだろ? 部屋に帰って寝た方がいい」

 ハシムは樹の背中を押して歩いていく。樹の耳朶には、まだ女性たちの悲鳴が響いていた。その夜、樹は眠れずに何度も寝返りを打っていた。やっぱり、このまま知らないふりなんかできない。樹は明かりを手に部屋を出た。外に出たら、夜の鳥が鳴く声が聞こえてくる。樹が潜戸に入ろうとしたら、背後から声をかけられた。

「どうしたの、樹」

 樹はハッとして振り向いた。そこにはアジールが立っている。月明かりに照らされた彼は、美しいのにどことなく不穏な空気をまとっていた。樹はごくり、と喉を鳴らして後ずさった。アジールは、笑みを浮かべて近づいてくる。壁際に追い詰められた樹は、ごくり、と喉を鳴らした。アジールの、ハシムにそっくりな顔が近づいてくる。

「今日は月が綺麗だね」

 樹はハッとして、アジールを見上げた。アジールの頭から、角が伸びてきた。端正な顔立ちが歪み、しなやかな手が毛に覆われる。まるで、ヤギのような、鹿のような、奇妙な生き物が目の前にいた。息を飲む樹を見下ろし、アジールが笑みを浮かべる。悪魔のようだ、と樹は思う。

「夜になると……本当の姿になるんだ。僕の正体を知った大抵の人間は、悲鳴を上げる」

「だ、から、女の人たちを監禁してるのか」

「そう。堕胎しないようにね。だって、誰も化け物の子を産みたくはないだろ」

「子供を、産んだ後は?」

「誰も僕の子を産まなかった。人外の胤は着床しにくいのかな」

 鉤爪のついたアジールの手が、樹の首を締め上げる。樹は苦しさを感じながら、アジールの手を掴んだ。こちらを見下ろしているアジールは、人間には見えない。どうして、なんて聞く暇はなさそうだ。彼も答える気はないだろう。樹は、気が遠くなりそうになりながら尋ねた。

「っ……さ、っきの」

「うん?」

「月が綺麗、っていう、言葉。有名な日本の、作家が訳したんだ……愛の言葉」

 アジールはじっと樹を見つめて、そうなんだね、と呟いた。彼の瞳は、どこか悲し気にも見えた。

「君が死ぬ前に、もっと日本のことを聞きたかったよ、樹」

そうして樹は、気を失った。


気がついたら、女性たちに囲まれていた。こんなことは人生で初めてだ。しかし、彼女たちは鎖をつけられ、ボロを着て、全員ひどく青ざめている。あの地下に連れてこられたのだ。樹がノロノロと起き上がると、落ち着いた印象の女性が大丈夫? と尋ねてきた。樹は頷いたあと、自分の手足に足枷が嵌められていることに気付いた。心臓の痛みを覚えて、胸を抑える。女性は眉を顰め、樹に問いかけてくる。

「ねえ、本当に大丈夫?」

「……平気、です」

 いや、平気ではない。気付薬が無ければ、樹は数日で死ぬだろう。アジールは樹を病死に見せかけて殺す気なのだ。そんなの、ダメだ。そう考えて、苦笑する。俺、ゴミ部屋で死のうとしてたのにな。いざとなると、死にたくないなんて都合がいいよな。樹は心臓を落ち着かせ、周囲の女性に話しかけた。

「皆さんも、アジールの本当の姿見たんですか」

「ええ。とても恐ろしかった」

「お綺麗な面の下に、あんな本性を隠してたなんて。化け物が国を継ぐなんて、冗談じゃないよ。逃げ出してみんなに言いふらしてやる!」

 気の強そうな女性が憤慨している。その時、誰かが階段を降りてきた。それは、神官長のインシオだった。神官長は樹を見て眉を顰めたあと、ぐるりと女性たちを見回して、一人の女性の腕を掴む。女性は反乱狂になって悲鳴を上げた。

「嫌だあっ! 化け物の餌にはなりたくないっ」

手足の鎖を解かれ、引きずられて行く女性を見て、女性たちは、顔を伏せて知らぬふりをしている。樹は、思わず口を開いていた。

「待ってくれ」

 インシオが足を止めて、樹の方を見た。彼からは、樹への強い嫌悪感を感じた。

「その人、どうするんだ」

「雨神様への供物にする」

「なら、俺にしろ」

 周りの女性たちが、ギョッとしたように樹の方を見た。どちらにせよ、ここにいても樹は死ぬ。なら外に出るチャンスを逃したくなかった。なんとかハシムに助けを求めるのだ。インシオは女性を放って、樹の方へと歩いてきた。いきなり殴りつけられて、目の前がチカチカした。インシオは、血走った目で樹を殴り、蹴り付けてくる。

「おまえのせいでっ、私の部下は死んだ! けして楽には殺さない。苦しませて殺すからな!」

「乱暴はやめなよ! 私を連れてっていいから」

 女性は悲痛な声を上げて、神官長に縋りついた。インシオは鼻を鳴らし、女性を連れて去っていく。ダメだ……この世界に、儀式が必要なのはわかってる。だけど、死んでほしくない。痛みにうめいている樹に、女性たちが心配そうな視線を向けてきた。

「あんた、なんであんな無茶をするのよ。身体悪いんでしょう」

「もうすぐ死ぬから、ですかね……」

 樹の言葉に、女性たちは息を飲んだ。少し前まで、生きる気力を失っていたんだ。何もかも、どうでもよかった。自分の部屋で、ただ死ぬのを待っていた時には、こんな気持ちにならなかった。樹はズキズキと痛む胸を押さえつけた。だけど、俺は今死にたくないって思っている。

連れて行かれた女性は、戻っては来なかった。それから、何日経ったかわからなかった。日に一回、少年神官が食事や水を運んできた。樹の前に置かれたトレーには、気付薬があったりなかったりした。

 ──楽に生かす気はないが、すぐ死なれたら、困るってことだ。当たり前だけど、神官長には相当恨まれている。樹は寝たり起きたりを繰り返した。たまに気絶していて、女性たちに起こされた。

樹は、そこにいる女性たちに助けられていた。女の人って、弱っている人を放って置けないっていうもんな。

「私、ハル。茶髪がミスティで、黒髪の子がリア」

 ハルと名乗ったのは、姉御肌の女性だった。おとなしそうな女性がミスティ。おっとりした女性は、リアだった。

「緑谷樹です。異世界? から来ました」

「異世界? あの化け物に手籠にされたのかい」

 えらく古めかしい言い方だが、こちらの世界では当たり前なのかもしれない。されたのはハシムの方です、と言おうとしてやめた。ただでさえ稚児とか言われて腹が立っている。あいつには、山程相手がいるしな。樹がいなくなったのすら、気づいていなさそうだ。胸が痛んだが、振り払って尋ねてみる。

「皆さんは、無理やり後宮に入れられたんですか?」

「私は自分から誘った。アジール様はいい男だし、なんせ王位を継ぐ人だからね。上手くいきゃ王妃様だ。で、あっちの方はよかったんだけど、まさか化け物だとはねえ」

 あまりに明け透けなハルの言葉に、樹は赤くなった。ミスティは、「私は、寝所に呼ばれました……」と消え入りそうな声で呟く。ハルによかったんだろ、と言われて目を泳がせている。リアは、のんびりとした口調で言った。

「私はたまたま化け物の時に出くわしちゃって。ヤギさんは嫌いじゃないけど、大きすぎて叫んじゃった」

「ヤギなのかい、あれ」

「犬じゃないの」

 やけにのんきな会話に、樹は思わず笑ってしまった。三人は顔を見合わせて、目をまたたいている。こんな状況でも、女性って生命力豊かなんだな。それにしても、アジールのあの姿は一体なんなのだろう。樹がそう尋ねたら、ハルが真剣な声で言った。

「アジール様は、運命の花嫁を探してると言ってたね。それが自分の、呪いを解く者だって」

「呪い?」

「うん。その人と愛し合うと呪いが解けるらしいよー」

アジールは呪いでああなっている、ということか。一夜を共にした女性で、アジールの呪われた姿を見たものはここに監禁される。3ヶ月経ち、子供がいないとわかったら殺される。ハルは暗い表情でつぶやいた。

「次殺されるのは私だ。ちょうど陛下としたのが、3ヶ月前だからね」

「妊娠してるふりをすればいいんじゃないですか?」

 樹の言葉に、ハルが目を瞬いた。樹は作戦を説明した。まず、気分が悪くなったふりをして、少年神官と一緒に外に出る。そしたら、なんとかしてハシムに助けを求める。監禁されて、精神が弱ったせいでハシムとアジールを間違えたことにしたらいい。ハルは呆れたような表情で、こちらを見た。

「あんたねえ。外部に助けを求めるなんて、下手したら殺されるんだよ」

「すぐ妊娠してないってバレちゃうしね〜」

「……妊娠するだけなら、できますよね。樹さんがいますから」

 リアの言葉に、他の二人が目を瞬いた。彼女たちはジリジリとこちらに近づいてくる。樹は顔を引き攣らせ、後ずさった。

「ちょ、待ってください」

 服を脱がされそうになっていたその時、ラビがやってきた。樹はハッとして、「ラビ、久しぶり」と彼に話しかける。ラビは気まずそうに目を伏せ、黙々とトレーを片付けている。ハルは目を細めて、ラビを見ている。それからちらっと樹に視線を向けてきた。

「──最近、身体がだるいんだよね」

「後2日で出られます」

「そりゃ、生贄として殺すためだろ。もしかしたら、お腹に赤ちゃんがいるかもしれないんだよ」

 ハルはそう言って腹を抑えた。ラビは黙ってこちらにやってきて、ハルの鎖を外す。彼女は素早くラビの首筋を打って、昏倒させた。ギョッとしていると、ハルがラビの服を漁って、鍵を投げてきた。

「あんた、こいつと同じくらいの背丈だろ。バレないから入れ替わりな」

「えっ」

「あんたの案だろ。早く!」

 樹は鎖を外して、ラビの神官服と自分の服を入れ替えた。しかし、髪はボサボサだし、髭も生えているから神官に見えるか怪しい。ミスティは自分が被っていたフードを被せてきた。リアは頑張ってください、と声をかけてくる。

 樹とハルは、地下を出た。久しぶりの地上に出た樹は、太陽の眩しさに目を瞬いた。ハルは油断なく辺りを警戒している。そのうちラビが目覚めるだろう。樹は、部下たちと一緒にいるハシムに気づいた。地図を手にして、何かを話し合っている。──ハシム。安堵で泣きそうになったが、我慢して近づいて行く。すれ違いさまにこう囁く。

「地下にいる女性を、助けてください」

 ハシムははっ、として振り向いた。樹は、ハルを連れて走り出す。運良く門の前に馬がいたので、ハルに乗るよう促した。踵を返すと、彼女は慌てて手を伸ばしてくる。

「ちょっと! あんたはどうするんだい!」

「二人を放っておけません」

「バカ! 自分の命が大事だろ。私は逃げるからね!」

 ハルは馬を操って走り出した。ハルは正しい。樹だってそう思っていた。自分さえ良ければいいのだと。だけど違ったのだ。これ以上人が死ぬのは嫌だ。それに彼女たちは、樹に優しくしてくれた。

その時、いきなりフードが取り払われた。ハシムが息を切らして、こちらを見下ろしている。ミスティとリアは? と尋ねかけたら強く抱きしめられて、息を詰めた。

「樹……! 一体どこにいたんだ。心配したんだぞ」

「っ」

「嫌気がさして逃げたのかと思った。俺がやりまくるから」

「自覚があるならセーブしろっ!」

 樹は真っ赤になってハシムを押し除けたが、びくともしなかった。門兵や騎士たちがこちらを見ている。恥ずかしくてたまらない。ミスティとリアは、騎士たちによって救い出された。それを知って、安堵した樹はふらついた。部屋に連れて行かれた樹はハシムに風呂場に放りこまれ、髪と髭を整え、数日分の汚れを落とした。気付薬を深く吸い込んで、ため息を漏らす。風呂から出てからずっと、自分を膝に抱いているハシムをちらっと見た。

「なあ。離してくんない」

「嫌だ」

「嫌だじゃないだろ。ミスティとリアの様子を見に行きたいんだ」

「あの女たちは誰なんだ? 部下によれば、えらく怯えていたそうだが」

樹は、彼女たちが地下に監禁されていたこと。アジールがそれを命じたことを話した。

「なあ、アジールが化け物だったって知ってたのか」

「何言ってるんだ、イツキ」

 こちらを見る顔は、困惑している。ハシムは知らないんだ。アジールが受けた「呪い」のこと。じゃあ、ハシムが王宮にいない間に、アジールの身体に変化が訪れたのかもしれない。ハシムは、青あざができた樹の頬に触れて顔をしかめる。

「それアジールがやったのか」

「インシオだ。あの人、俺を嫌ってるから」

「俺のものに傷をつけやがって……ぶっ飛ばす」

 樹は、立ち上がりかけたハシムの腕を掴んだ。こちらを見下ろしているハシムに、かぶりを振ってみせる。そんなことよりもまずは、ミスティとリアが無事なのか確かめたかった。ミスティとリアは、医務室に寝かされていた。二人とも、地下では気丈に振る舞っていたが、やっぱり衰弱していたのだろう。樹に気づいたミスティが尋ねてくる。

「イツキ。ハルは?」

「ハルは、逃げた」

「……そう」

 ミスティは悲しげに目を伏せた。一緒に過ごすうちに、連帯感のようなものが生まれていたのだろう。ハルは自分の命を優先したのだから、責められはしない。樹のそばにいるハシムを見て、リアがビクッと身体を震わせた。アジールと似ているから怖いのだ。ハシムは彼女のそばに腰を下ろし、手を握りしめた。手を握る必要はあるのか、と樹は思う。別に嫉妬しているわけではない。ハシムは痛ましそうな表情を浮かべている。

「アジールが酷いことをしたらしいな。すまなかった」

「ハシム様。私たちを離宮に連れて行ってくださいませんか」

 リアは怯えた顔でハシムに縋りついた。たおやかで、守りたくなるような、美しい女性。そんな人を、ハシムが無碍にするわけがなかった。寄り添いあっている二人を見ると、なぜか胸が痛くなる。この二人が助かって、よかったと思っているはずなのに。ハシムはリアを落ち着かせた後、ミスティに声をかけた。

「わかった。ミスティだったか? おまえはどうする」

「私も、行きます」

「そうか。ならすぐに出立しよう」

「それは困るね」

 いきなり聞こえてきた声に、リアとミスティが顔をこわばらせた。アジールが戸口にもたれて立っている。ハシムは女性たちを守るように立ち塞がった。彼はこちらにやってきて、ハシムの頬に触れた。次の瞬間、ハシムが血を吐いて倒れる。リアたちが悲鳴を上げて抱き合った。イツキはハシムに駆け寄る。

「なにしたんだ!」

「ちょっと心臓を止めただけだよ。腕力じゃ彼には敵わないからね」

「アジール……」

ハシムは苦しげにうめきながら、アジールを見上げる。アジールはハシムのそばに身をかがめて、ごめんね、と言った。神官たちが部屋に駆け込んできて、女性たちの腕を掴む。樹は彼らの前に立ち塞がった。アジールは、静かな口調で告げる。

「樹、君は心臓が悪い。僕がその気になったらすぐ殺してしまえるんだよ」

 こちらを見つめる冷静な瞳に、樹はぞくりと身体を震わせた。アジールは、脅しで言っているわけではない。本当に樹を殺す気だ。身を引くと、アジールがいい子だね、と囁いた。リアとミスティは、恐怖に目を見開いている。その表情には、絶望が滲んでいた。彼女たちが連れて行かれて、医務室には樹とハシムだけが現れた。樹は彼の鼻先に、気付薬をあてがった。

「ハシム、吸って」

 気付薬を吸い込むと、少しだけ表情が和らいだ。だけど、まだ身動きは取れないようだった。しばらくすると、医官がやってくる。彼はハシムに処置をして、ベッドへと移動させた。樹はハシムの手を握りしめる。薬を吸ったせいか、ハシムはひどくぼんやりしていた。その片目から涙が溢れ落ちる。樹ははっ、と息を飲んだ。こいつが泣くなんて……アジールのしたことが、よほどショックだったのかもしれない。彼を休ませている間、樹はヨシュアに尋ねてみた。

「なあ、先生。アジールって、なんなんだ」

「殿下は人間だ」

「でも、明らかにおかしいだろ。夜になると獣みたいになったり、変な力でハシムを倒したり」

「……15の頃、ハシム殿下が離宮から帰ってきた。あの二人は仲がいいからな。アジール殿下も、大層喜んでた」

 だが、ハシムが戻ってきたのは、アジールが成人するのに従い外交が増えたからだった。彼らの父は、ハシムに影武者になるよう命じた。ハシムの傷が増えるたび、アジールはだんだんと変化していった。子供らしい表情を見せなくなり、誰に対しても礼節を崩さず、本心を見せなくなった。王の自覚を帯びて大人びたのだと、周りはそう解釈した。しかし、医官は違った。

「少年から青年になった、という類のものじゃない。私は殿下が別人のように感じられた。以前のアジール殿下は、穏やかで優しい少年だった。ただ、少し依存しやすいところがあった。その弱さがなくなった」

「王様になるから、変わろうとしたんじゃないのか?」

「人の本質はそう変わらんよ。ハシム殿下は成長して随分女好きになったが、昔から変わらず明るくて能天気だ」

 ヨシュアはアジールの身体を定期的に診察することがある。だがアジールは服を脱ぐのを嫌がるらしい。常に暗殺の危機にさらされてきたハシムとアジールが、無防備な姿になるのを嫌がるのはわかる。しかし、相手はヨシュアだ。幼少からアジールを診ているが、今まではそこまで警戒されたことなどなかった、と。樹は、アジールの肌に何か秘密があるのではないかと思った。樹はヨシュアにこう告げる。

「俺、アジールと話したい。先生、協力してくれ」


樹は、ヨシュアと共にアジールの部屋へ向かった。アジールは樹を見て少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに平静を取り戻した。ヨシュアと一緒に部屋に入ると、アジールが侍女を呼んだ。侍女は、三人分の紅茶を用意して去って行った。アジールは長い足を組んで、紅茶を味わっている。樹は紅茶には手をつけなかった。ヨシュアも同様に、紅茶を飲むアジールを見つめている。

「これ、輸入ものなんだ。アグレシアスって国があってね。うちと同盟を結んでいる」

アジールは地図を持ってきて、テーブルの上に広げてみせた。長い指先で、アグレシアスの位置を示す。やはり、樹が知っている地図とは別物だった。アグレシアスという国も、旱魃に見舞われているんだろうか。アジールは身をかがめて、耳元に囁いてくる。

「ハシムは、ここの姫君との婚約が決まってるんだ。姫君が彼に一目惚れしてね。君は遊ばれてるんだよ、イツキ」

「……俺は別に、あんなやつなんとも思ってない」

 アジールはおかしそうに笑って、ヨシュアと共に衝立の向こうへ消えた。衝立の周囲は神官たちに囲まれていて、覗くことなどできそうにない。しばらくして、アジールが衝立の向こうから出てきた。はだけた胸元から、浅黒い肌が見え隠れしている。それを見て、少年神官が顔を赤らめた。神官が近づこうとするのを制して、樹に話しかけてくる。

「イツキ、直してくれるかな」

「は?」

 アジールは、頼むよ、と言って襟元をつまむ。自分でやれよ、それぐらい……。神官たちの刺すような視線を感じながら、彼の襟を直した。アジールは、遊ぶように樹の黒髪をすく。その仕草もまた、神官たちの嫉妬を煽ったようだ。自分にたてついた嫌がらせか……? 案外子供っぽいことするんだな、こいつ。ハシムはでかい犬みたいだが、アジールは狐のようだ。狡猾で残忍で、獲物で遊ぶようにして、人の心を弄ぶ。夜の姿はヤギみたいだったけどな。ふと、アジールの胸元に傷跡があることに気づいた。しかし、彼が身を引いたので見えなくなる。

ヨシュアと一緒に部屋を出ると、ヨシュアが神官に呼ばれた。樹は、彼と別れて歩き出す。せっかく手がかりが掴めるかと思ったのに、わからなかったな。ため息をついていたら、いきなり腕を引っ張られた。暗い部屋に押し込められて、拳が飛んでくる。

「おまえのように下賤なものが、アジール様に触れるとは!」

「ハシム殿下だけでは飽き足らず、アジール様の寵愛も受けようというのか?」

 それからおよそ10分、蹴られたり殴られたりした。やっと暴行が終わったと思ったら、水をかけられる。ガチャン、という音が響いて、樹はノロノロと起き上がった。全く、踏んだり蹴ったりだ。扉に手をかけてみたが、開かなかった。殴られてズキズキと痛いし、また閉じ込められるし。この身体でよく生きてるよな。座り込んでいたら、ガチャン、と音が響いた。扉に手をかけたら、なんなく開いた。ふらふらと部屋から出ると、伸びてきた腕に抱き止められる。

「ハシム……?」

「可哀想に」

 こちらを見下ろしているのは、アジールだった。おまえのせいでこんな目に遭ったんだろ。そう言おうとしたら、ふわりと抱き上げられた。双子だけあって、ハシムと同じ感覚だった。僕が助けてあげる。アジールの囁きを聞きながら、樹はそのまま、気を失った。


気がついたら、大きなベッドに寝かされていた。ここって、ハシムの部屋だろうか。起きあがろうとしたら、ずきりと身体に痛みが走る。

「痛っ……」

「大丈夫?」

 アジールはこちらに近づいてきて、樹の頬に触れようとした。ハシムが倒れた時のことを思い出して、顔がこわばる。アジールはふ、と笑って、ヨシュアを呼んだ。ヨシュアは樹の状態に絶句した後、一人にしてすまんな、と頭を下げる。樹は、消毒薬が染みた口角を撫でながら答えた。

「別に、ヨシュアさんのせいじゃないよ」

「呼ばれた先には、患者なんかおらんかった。神官たちは、おまえに嫉妬したんだな。おまえが、神であるアジールの寵愛を受けるのではと恐れたんだ」

「アジールは俺に恩を売ろうとしたんじゃないかな」

どういうことかと、ヨシュアは眉を顰めた。樹は昔、植物と話す不気味なやつだといじめられていた。クラスには、樹を庇う学級委員がいた。彼女は、樹からの感謝を求めた。直接言われたわけではなかったが、言葉の端々からそう感じていた。

──誤解されるようなことをする樹くんも悪いと思う。

──樹くん、私がいなきゃひとりぼっちだよ? 

その押し付けがましさが、いじめよりも辛かった。それをきっかけに、一人でいいんだ、と思うようになった。俺には、植物がある。人間に嫌われても構わないって。樹の話を、ヨシュアはじっと聞いていた。このじいさん、不思議だよな。他の人々と違って、樹を異物扱いしない。

「そういうやつっているんだよな。優しいふりして他人を支配したがる。アジールは、多分計算だけど」

「おまえさんは、変わってるな。この国では、誰もが神であるアジール様に魅入られてしまうというのに。ハシム殿下が気にいるはずだ」

「ハシムは、お姫様と結婚するんだって。俺みたいのが珍しいから構っただけだろ」

 あんなんでも王子様なんだから、お姫様と結婚するのが当たり前なのだ。樹は、ずきりと痛んだ胸を押さえつけた。ヨシュアが気付薬を持ってきてくれる。少し休め、と言われて目を閉じた。

目覚めたら、朝だった。うわ、どんだけ寝てたんだ俺。かたわらにアジールが座っていたので、慌てて起き上がる。

「まだ寝ていてもいいよ。朝食まで時間がある」

「いや、ベッドを占領してごめん」

 そう言ったら、アジールがいいんだよ、と微笑んだ。何にも知らなければ、誰をも魅了する笑顔だと思っただろう。だけどアジールは、ただの優しい王子様ではない。彼は侍女を呼んで、樹を着替えさせた。モスグリーンの上等な絹織物で、色とりどりの植物の刺繍が施されている。アジールは、樹を眺めて満足そうな顔をした。

「君は肌が白いから緑が似合うね」

「なんでこんな服……いつもの服は?」

「お詫びだよ。僕のせいで嫌な思いをさせてしまったから」

アジールはそう言って、樹の頬を撫でた。侍女たちはうっとりしたが、これも恩を着せようとしているんだな、としか思わなかった。こちらを見るアジールの瞳は、ハシムにそっくりだ。だけど、ハシムの目はもっと温かみがある。アジールの目は一見優しげだが、よく見ると冷たい色をしている。樹はアジールの目を見据えて口を開く。

「こんな服いらないから、リアとミスティに会わせてくれ」

「彼女たちは離宮に行ったよ。ハシムの側妃になるんだろうね。正室はもちろん、アグレシアスの姫君だ」

 そしたら君はいらなくなるね。樹にだけ聞こえるように、アジールは囁いてくる。アジールはきっとわかっている。樹の弱さも、何を言われたら傷つくのかも。樹は、頬に触れているアジールの手を払い除けた。周りにいた侍女たちが息を飲む。

「いるとかいらないとか、俺はものじゃないんだ。あいつが俺をどう思ってようが、どうでもいい。人の傷を抉って、支配しようとするなよ」

「君が傷つくのは見たくないんだ。支配なんて、とんでもないよ」

 アジールはまるで被害者のように振る舞う。あんなところに女性たちを閉じ込めて。神官たちを煽って樹を暴行させて。なぜそんな顔ができるのか分からなかった。侍女たちは、ヒソヒソと囁いている。

──なんて恩知らずな。

──殿下のご厚意を無碍にするなんて、神罰がくだりますわ。

もし本当に神様がいるなら、どうして弱い人間を救わずに、アジールに力を与えたりするのだ。やっぱり、神なんていない。樹はアジールの横をすり抜けて、部屋を出て行った。リアとミスティのこと、本当だろうか。アジールの言うことは信用できない。あの二人がどうなったか、ハシムに確認を取らなきゃ。花でも摘んで行こうかと、庭に出る。樹が現れると、植物たちが嬉しそうに揺れた。

──イツキ、ヒサシブリ。

 ──ミズ、チョーダイ。

「ごめんな。色々あって、これなくて」

樹が触れると、楽しげな声をあげる。久しぶりの癒しの時間だったので、1時間ほど庭で過ごしてしまった。

花を手にハシムの様子を見に行くと、ベッドで侍女たちに世話をしてもらっていた。

「殿下のようなたくましい方が体調不良だなんて、おいたわしい。はい、あーん」

「美味いな。滋養がありそうだ」

「私の剥いた果物も食べてください」

美しい侍女に挟まれて、種類の果物を交互に食べさせてもらっている。何をやってんだ、あいつ。顔を引き攣らせている樹に、ハシムがおう、と片手を上げた。くるりと踵を返すと、靴音が追いかけてくる。

「おい、どこ行くんだ? っていうかその格好……」

立ち止まると、ハシムが面食らった顔になった。

「おまえが寝てる間、こっちはえらい目にあったんだ。それがあーんだと? ずっと寝てろ、アホ王子!」

樹はそう言い捨てて走って行く。回廊の柱に手をついて息を切らしていたら、心臓が痛くなった。樹は顔をしかめて、しゃがみ込む。

「いっ、てえ」

気にしていないなんて、ウソなんだ。ハシムが女の人といるのを見ると、不安になる。美しくもなく、可愛げもない自分が敵わないとわかっているから。不規則な鼓動に身体を震わせていたら、ふ、と影が落ちた。こちらを見下ろしているのは、アジールだ。彼は身をかがめ、樹の頬を撫でた。

「辛い思いばかりして可哀想だね、樹。僕が君を愛してあげる」

ハシムにそっくりな、美しい顔が近づいてくる。反射的に避けようとしたら、身体を引き寄せられた。僕の目を見て。囁かれた言葉に顔をあげたら、唇が重なって、思わずビクッと肩を揺らす。アジールが唇を離し、チラッと背後を伺う。振り向くと、ハシムが立っていた。──見られた。

彼は無言でこちらに近づいてきて、アジールの襟首を掴んだ。樹ははっ、としてハシムの腕を掴む。

「やめろ、ハシム」

「怒ってるの? ハシム。キスぐらい、なんてことないだろう? 君は15の時から、よく侍女とキスしてたね。こんなの挨拶だって」

「樹は違う」

「何が違うのかな。ああ、後宮に入れる対象にはならないってこと?」

「アジール……おまえおかしいぞ。どうしたんだ」

アジールはハシムの胸元に手を置いた。また心臓を止めるつもりなのかと、樹は緊張する。しかし、ハシムは動じなかった。ただ、強張った表情でアジールを見つめている。アジールはハシムの胸に手を置いたまま、口を開く。

「樹は神官に殴られたんだ。君が寝てる間に」

ハシムははっ、と顔をこわばらせた。本当か、というように樹を見る。

「ねえ、ハシム。君は強いけどただの人間だ。樹を守るのにも限界がある。だけど僕は違う。神の力を持っている」

 アジールの言葉に、ハシムが苦しげな表情を浮かべた。

「鼓動が早くなったね。後悔してるんじゃない? ハシム。王にならなかったことを」

「後悔なんかしてない。俺は、おまえとこの国を守るために軍に入った」

「わかってるよ、ハシム。君は昔から、僕を支えてくれた。君は大事な僕の弟。逆も然りだ。だから、僕のためなら、イツキを譲ってくれるよね」

ハシムがはっ、とアジールを見た。アジールはふふ、と笑う。

「心臓の音、すごく早い。君はイツキのことが好きなんだね。だけど、それって、珍しいおもちゃを気に入ってるみたいなものだよ。いずれ飽きてしまう」

「違う」

「なら、僕と戦う? 結果は見えているけど」

 アジールが手を離すと、ハシムが剣を引き抜いた。アジールは丸腰で立っている。静かに佇むアジールを見て、樹はなぜかゾッとした。やめろ、という前に、ハシムはアジールに向けて剣を振っていた。ハシムに向かってかざしたアジールの指先から、植物の蔓のようなものが出てくる。ハシムがそれを叩き切ると、枝分かれして剣先に絡みついた。なんだ、あれ。樹はゾッと身体を震わせた。ハシムは手や足に絡みついた蔓を、引き剥がそうとしている。

「くそっ、なんだこれ!」

「無駄だと思うよ。切れば切るほど増えるから」

 アジールの言う通り、蔓はちぎれるたびに増殖し続けている。植物には、自己修復能力がある。だけどあまりにも再生する速度が速い。まさに、神業だ。やがて、ハシムの身体は柱に縛り付けられてしまった。アジールはハシムに近づいて行き、彼の首を掴んだ。ギリギリと締め上げられて、ハシムがうめく。樹はアジールに駆け寄って、彼の腕を掴んだ。

「もういいだろ! あんたの勝ちだ。ハシムを離してくれ」

「イツキを譲るって言ったらね」

「イツキ……逃げろ」

ハシムは苦しげに呻きながら、剣を持つ手を動かそうとしている。アジールははあ、とため息を漏らした。

「仕方ないな。大事な弟を殺したくはないけど」

無数の蔓がハシムの身体を締め上げる力がが強くなり、唇から血が流れ落ちた。このままだとハシムが殺される。そんなの嫌だ──。樹はアジールにすがりついて、唇を重ねた。彼の瞳を見つめて、必死になって言い募る。

「あんたのことが好きになった。ハシムなんかどうでもいい」

 ハシムは呆然とこちらを見ている。

「イツキ……」

「嬉しいよ、イツキ」

アジールが指を鳴らすと、蔓が緩んだ。床に倒れたハシムに駆け寄ろうとしたら、アジールに腕を掴まれる。

「離せよ、手当しないと」

「医官がやるよ。君は二度とハシムには触らせない」

 もし約束を破ったら、ハシムは死ぬ。その囁きに、樹は身体を震わせた。脱力した樹を、アジールは満足そうに眺める。アジールは、通りかかった侍女に、医官を呼ぶよう頼んだ。倒れたハシムを見た侍女が、慌てて医官を呼びに走って行く。アジールは行くよ、と樹の腕を引いた。樹は心を鬼にして、ハシムに背を向ける。

「イツキ……」

 連れて行かれる樹に手を伸ばし、ハシムは気を失った。


樹が連れて行かれたのは、アジールの部屋の隣だった。一間続きになっていて、廊下を通らずにいつでも行き来できるようになっている。立ち尽くしている樹の背中を、アジールが押した。樹はノロノロと部屋に入る。アジールは樹をソファに座らせて、侍女を呼んだ。侍女が退室すると、アジールがカップにお茶を注いだ。どうぞ、と勧められて、樹は硬い表情でかぶりを振る。

「ハシムが無事かどうかわからないのに、のんきにお茶なんかできない」

「──まだわかってないのかな?」

 アジールの指先から伸びてきた蔓が、樹の首に巻き付いた。ギリギリと締め上げられて、苦しさにうめく。

「君は、僕のものだよ。犬は、飼い主の言うことを聞かないといけないだろ?」

 俺は犬か、と樹は思う。ハシムもよく、おまえは俺のものだと言った。あれもそういう意味だったんだろうか。ハシムもアジールと同じく、ただ樹を支配したいだけだったのか。気を失いかけたとき、アジールが蔓をほどいた。咳き込んでいる樹の背中を、優しく撫でる。

「ごめんね。痛かった?」

「こんなことして、なんになるんだよ」

 樹はかすれた声で呟く。アジールは、樹を手に入れたいわけではない。自分に歯向かわないようにしたいだけだ。アジールは気付薬をかがせて、樹をベッドに横たえた。先程まで、樹を苦しめていた指先が髪を撫でる。樹は、ぞくりと身体を震えさせた。こいつ、指先が冷たい……まるで死体みたいだ。まさか。樹はとある考えにゾッとした。本当のアジールはもう死んでいて、こいつは偽物なんじゃ?

 アジールは優しげな手つきで髪を撫でながら囁く。

「君は僕の姿を見ても、悲鳴をあげなかった。それに、異世界からやってきた。呪いが解けるかどうか、試してみる価値はあるだろ?」

「……俺は、そんな存在じゃない」

「違ったら、「ニホン」に帰してあげる。最初の約束通りに」

 樹は、自分の息が荒くなるのを感じた。本当に帰される保証はない。アジールに、利用価値がなくなった樹を生かす理由はないのだ。逃げないと。そう思うのに、身体が動かない。細い蔓が、手足をベッドの脚に縛り付けているのだ。絶望に目の前が真っ暗になる。アジールは笑みを浮かべて、立ち上がった。

「夜にまた来るね。休んでいて」

アジールが居なくなったあと、樹は蔓を解こうと必死になった。しかし、もがくほど拘束がきつくなる。切れば増えることはハシムで証明されている。つまりは、どうにもならない。だから神の力なのか。ハシムが敵わないのに、樹になんとかできるはずがない。樹はもがくのをやめて、天蓋を見つめた。

「なあ、ほどいてくれよ」

 返事を期待したわけではなかったが、蔓がかすかに動いた気がした。そうか、こいつらも植物だから会話ができるかもしれない。樹はその反応に期待して、こう続けた。

「ほどいてくれたら、水やるから」

 ──アジールニシカラレルカラ、ダメ。

「叱られないよ。俺、手洗い行きたいんだよな。だめ?」

 ──チョットダケ。ヘヤカラニゲタラアジールヨブ。

蔓がわずかにほどけて、樹はベッドから降りることができた。やっぱり、身体が動くと気分がましになる。ありがとな、と蔓を撫でる。バスルームに入って、バスタブに腰を下ろした。チラッと排水口を見た後、苦笑した。まさか、ここからは逃げられないよな。ハシムはしばらく動けないだろう。神官たちはアジールの味方だし。あと頼れそうなのは、ヨシュアぐらいしかいない。

「にしても、水不足なのに風呂があるのか」

樹はバスルームを見回した。お湯はどこから持ってきてるんだろう。太いダクトが見つかったので、中を覗きこんでみる。ダクトには、白っぽいものがこびりついていた。これって、硫黄? もしかして、大浴場からお湯を引っ張ってきてるのかも。

「おーいっ、誰かー」

 樹はダクトの向こうに呼びかけてみた。返事なんかあるわけないか。ため息をついて、バスルームを出た。夜になると、侍女たちがやってきて樹に食事を取らせた。バスタブにお湯を張り、樹の身体を丁寧に洗う。自分でやると言ったのだが、完全に無視された。風呂から出た樹は、粉をはたかれてローブを着せられた。浴室の鏡には白い男が映っている。

 なんか、出棺前の死体みたいだな。そんなことを思っていたら、アジールがやってきた。彼も風呂に入ったらしく、艶やかな白髪が濡れている。まだ獣姿になっていないんだ、と樹は思う。ご苦労さま、と声をかけられた侍女たちは、頬を赤らめ、そそくさと部屋を出て行った。アジールは樹の隣に腰掛けて、髪を撫でてくる。

「緊張してる? 初めてじゃないよね」

「あのさ、やっぱりやめないか」

「どうして?」

 別にお互い好きでもないのに、と言おうとしたら、甘い匂いが漂ってきた。侍女が置いていった香炉からだ。なんだこの匂い。めまいがする。樹はくらっ、と頭をふらつかせる。アジールは樹を抱き止めて、優しく背中を撫でた。それだけで背中がゾクゾクと震える。先程まで、何も感じていなかった。アジールの湯上がり姿を見た時すら。

「この、匂い……」

「媚薬作用がある麻薬だよ。危険なものじゃないから、安心して」

危険じゃないドラッグなんかないんだよ。学生時代の、教授の言葉が脳内に蘇ったが、アジールに唇を奪われると薄れていった。

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