影と王について

うみしとり

影と王について

 それは私の影の中にいる。

 夕暮れの路地裏の、電線と灰色が重なって遠くに紫がかったオレンジ色を見上げた時に影はひときわ長く伸びてその中に蠢く何者かが息を吹き返す。

 学校帰りで、部活で疲れて、下を向いていたからだろうか。

 黒の中に浮かび上がる二つの白い丸、一切の感情を感じさせない顔らしきものと目があった。

 それはじっと私を見つめている。

 私を食べようとするわけでも、何か危害を加えるでも助けてくれるわけでもなく、それはただ私の全存在を見透かすようにじっとこちらを見つめている。

 それがとても嫌な感じだった。背筋がじわりと冷たくなり、意図しない汗がたらりと頬を垂れていく。


 目を逸らし、見ないふりをして、大通りへと駆け出した。

 機械のような二足歩行で通り過ぎる歩行者に、私は孤独じゃないことを知る。行きかう人々は無表情で、時たま手元で何かをいじりながら通り過ぎていく。車が通り過ぎてうるさいのに、無音の様に感じるのは夕日が辺りを艶めかしく一様に照らしているからだろうか。

 まるでフォトフレームの中に飾った一枚の風景写真の様に、現実感を失った世界に私は荒い息をしている。

 見上げれば太陽がまぶしくこちらを照らしている。ああきっとあの明るい光の中では私の影は生きられまいとほっと胸を撫でおろし、いっそあの暑苦しい光球が地上3mまで降りてきてくれないだろうかと願ったりもした。そうすれば私は影の視線を感じることも無く、のびのびと背伸びをすることができるのだ。


 しかし現実は遥か彼方の宇宙空間に浮かんだ忌々しい残暑が辺りをプラスチックでも解かすがごとく無機質に照らし続けるだけなのだ。そして私の影はいつだって真下からこちらを伺っている。

 息を吸い込み、大きく吐き出す。いつか人はこの影に対峙しなければいけないのだ。私の番が来ただけなのだと心を決めて私は私によって形作られた暗がりへと向きなおる。そのくろいくろい鉛筆で書きなぐったような黒のたまり場に二つの白い点。裁定する訳でも採点する訳でもなく、こちらをじっと見つめるそのからっとした表情に私は声を掛ける。


「おい、なんとかいったらどうだ」


 それは相も変わらず私をじっと見つめている。せめてにやにや笑いの一つでも浮かべてくれればまだ人間味も感じられたろうに、味方とも敵ともつかぬそれはじっと影の中から私を見つめるばかりであった。

 制服にいやな汗が滲む。

 私は早く帰ってあしたの授業に備えねばならないのだ。いつまでもこうして街角に突っ立って意味のない豆腐の押し問答をしている時間などないのだ。


「なんとかいえ!」


 のれんに腕押しという言葉があるが、のれんの方がまだ優しい。彼はそっと押せばふわりとたなびいて、またもとの位置に戻って来るではないか。攻めか受けかで例えるなら受けであろう。押せば遠ざかってしまうが、押すのをやめればふわりと舞い戻ってくる。やがて振り上げたこぶしにぴったりとまとわりついて……

 閑話休題。


 そんなに単純な話が、私と私の影の中に居る何者かの間にあろうはずもなかった。何を言っても答えない影に私は憤慨し、お前のことなどもう知らぬと歩き出す。スクールバックを肩にかけ、この世の王者がごとく肩で風を切って歩く。腕立て三回で力尽きる肩に斬れる風もなかなかないだろうが、それでも私が王と思えば私は王であるのだ。夕暮れの中で従者を持たない孤高の王である。従者をもたぬ王などいるだろうか、いや逆に従者を持たぬからこそ自由の王であれるのだろうか。結局のところ真の王とはただ己が一人身を持って王とする存在なのだろうか。


 喉が渇いたので百三十円を支払って自動販売機から緑色の炭酸飲料を出力する。喉に居れれば爽やかな炭酸がお腹で弾けて気持ちいい。


 つまるところ適度な炭酸飲料と、ハンバーガーと、グランドキャニオンがあれば人は王になれるのだ。偉大な渓谷を前にしてバンズで肉汁たっぷりのビーフを挟む、それを口に入れて炭酸飲料で流し込む。これにまさる王の権利はあるだろうか。いやない。それからたまにコミケに行ければ申し分ない。所詮権力も争いもつまらないものなのだ。肉汁が口に溢れる喜びに加えれば……。


 領地を拡大せずともバーガー1つで満足できる私が統治する社会はきっと平和なのだろう。閑散期に駆り立てるような兵役や、ぼろくず以外はすべて取り上げてしまうような重税を課すこともない。ただ王がカウチに座ってポテトを食べているだけ、畑の上で老人が腹を打ち、地を踏み鳴らして「王がなんだ、ただのオタクじゃないか、最近の若者はまったく……」とのたまうような。


 やはり私は、王の器にふさわしい存在だ。

 だれか戴冠式を執り行ってくれ。


 ただこの孤高の王も、影の前では無力であった。


「ついてくるな!」


 そうヒステリックに叫んだとしても、飼い主候補を見付けた捨て犬のごとき忠実さで私の影は私に追従する。その中にいる何者かも同様である。漆黒に浮かぶ二つの白玉がずっと私を見つめている。


「くそっ!」


 私はそう言い捨てて、足を速める。前後に素早くふとももを動かして、時速15キロくらいで街を行く。

 なめるな、美術部で鍛えた瞬発力を。

 イメージが浮かんだらすぐに筆を動かさなければ、それは曖昧な霧の中に溶けて消え去ってしまう。だから私の脳裏に情景が浮かぶコンマ三秒後には色が塗られている。この瞬発力を持ってすれば影など容易に置き去りにできるに違いない。


 期待を込めて見つめた私は、変わらぬ現実の前に打ちひしがれることになる。それは息も切らせず私に追いついて見せた。なんなら追いこさんがばかりである。


「そんな…………」


 王は絶望した。その存在に勝つ方法が分からないからだ。

 歩み寄ろうにもそれは対話を拒否し、打ち取ろうにもそれは影の中に居る。

 影を攻撃するということはつまり自身を攻撃することに他ならない。

 その存在を打ち取ったとて、私が死んでしまえば元も子もない。いくら忌々しいそれがいる世界とはいえ、私は愛しているのだから。


 膝を付き、がっくりと肩を落とした私に群衆は無関心だ。

 きっと彼らにとってみれば影など些細なことなのだろう。もっと他に考えるべきことがあるとその背広の肩幅が告げているような気がした。

 その鈍感さが少し羨ましくもある。

 影を気にした事の無い人生がどんなものか、私には想像もつかない。


 それはいつだって私の影の中に居た。子供の時からずっと、暗がりから見つめる二つの光らない光が私の目にははっきりと映っていた。夜眠るのが怖かった。電気を消すのが怖かった。その影の中の存在が私を襲うとか、そうしたことを考えていた訳では無い。ただその二つの目が、私を見つめているのだという事実がどこまでも空恐ろしかった。


 小学校を出て、中学校の桜を拝み、高校で部活に励む今日も、それは私の影の中にいる。怠惰にも言語を学ぶこともなく、物言わぬままじっと私を見つめている。


 何度目を背けた事だろう、何度眠るたびに明日は影が綺麗さっぱり消えているのだと願ったことだろう。そうした願いはいつだって潰えて、私が朝生まれる度にそれはその瞳をこちらに向けている。


「もういいかげんにしてくれ!」


 心からの叫びは、十何年の重みを伴って発露する。


「疲れたんだ……」


 同情しているのか、共感しているのか。

 だとしたら余りにも罪悪ではないか。


 私を自由にしてくれ。

 解放してくれ。

 影よ、もう私を見てくれるな。


 夕焼けに影が落ちて、やがて雲があたりを覆っていく。それからぽつりぽつりと雨が降り始めて、地に落ちぶれた王を水滴が濡らしていく。


「あああああ……」


 惨めであった。ここにはバーガーも、グランドキャニオンもない。炭酸飲料はある。汚い側溝を泥水が流れて行くだけだった。冷たい水滴は人々を通りから遠ざける。やがて私は独りになった。

 正確には一人と一存在だ。

 そこに佇んで、影の中からそれは私を見つめている。


 それでも私は王であった。


「……お前は」


 問いかける。問いかけ続けなければならない。


「……何者なんだ」


 その時、一閃の光と共に一つのアイデアが私に浮かぶ。つまるところそれは、私のということだ。


「……お前は何を見つめているんだ?」


 ゆっくりと体を起こす。流れる水の上に足を濡らしながら座り、ずぶ濡れになったスカートが重たく感じる。ただ髪を雨が伝い、影をかき消さんとする豪雨が全てをぼんやりと忘却の中に遠ざけていく。

 世界にブラーが掛かって、時が止まる。


「お前は何を見つめているんだ……」


 影が答える。言葉もないままに。

 白い二つの点が、少し拍動した気がした。


 その刹那私は理解する。

 影は影を見つめていたのだという事実に。

 そして影は、影でしかなかったという驚きに。


 私は王であって、影ではない。

 だから王は王であり、影は影である。


 それだからこそ、大切なものだったのだ。


 そして影は消え去り、王は世を去った。

 ひとり取り残された私は、止みつつある雨の中に空を見た。


 雲の堕とす影の中に佇んで

 私は世界を見ていた。


 私は王であった。

 私には炭酸飲料があった。

 帰るべき家もあった。


 時を告げるチャイムが鳴った。

 その音色が夕暮れの峡谷の様に美しかった。


 私は王であった。

 それは影の中で、いつまでも見つめていた。


 見つめていた。

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