第15話・仮説の中の犯人

 陽子は紗智との待ち合わせに、烏丸御池にある小さな喫茶店を選んだ。レトロな雰囲気で、流れる曲がいつもクラッシックで心地いい。息子の翔太に教えてもらった場所だ。今では、翔太よりも自分の方が常連になり、翔太があまり行かないでよ、冗談交じりにとぼやいている。母子家庭で幸いにも反抗期がなかったのは救いなのか。清掃の仕事一筋で、夫からの養育費もなしで子供一人を大学に入れることの大変さは、やってみればわかる、といいたい。翔太の反抗期は翔太自身が自制してくれたのか、母親としてあるべき成長の変化を抑制させてしまったことに、心が痛む。

 アイスコーヒーの氷が溶ける前に、紗智がやってきた。ジーンズにベージュの秋物のセーター。シンプルだが品がいい。姿勢もよく、マスターの目が一瞬釘づけになったようにも見えた。

「遅れてすみません」

 紗智はテーブル席手前に座る陽子に斜め横から詫びた。

「いいのよ、私が少し先に来たんだから。それよりも、敬語はやめない。どこか堅苦しくて。夜学に通っていると、皆年齢違うんだけど、敬語を使っていると友達になれないって先生にもいわれて」

「つまり、それって私のこと、友達と思ってくれてるってことですか?」

「そうよ。だって、お互いに秀一君の周辺になにかモヤモヤする謎があるって関係じゃない。だったら、敵対しても上下関係があってもだめで、協力し合える友達でないと」

 陽子は饒舌に話をした。

「ありがとう」

 紗智は、ありがとうのあとにございますといいそうになったのを堪えた。紗智が頼んだアイスコーヒーがテーブルに置かれると早速陽子は話を切り出した。


 私は夫と随分前に離婚して、大学生になる息子が一人。清掃会社に勤めながら、今年から夜間の高校に通っているの。そこで知り合ったのが、久保隅秀一君。彼の祖母が久保隅咲江、彼女は偶然にも私の努める清掃会社にいたの。過去形なのは、もう辞めたから。私の方が中途入社だから、彼女の方が先輩社員ってこと」

 紗智はアイスコーヒーを飲みながら、ホットコーヒーにすればよかったと後悔した。店の空調はあまり効いておらず、足元が冷える。

「その彼女と金銭トラブルがあったのが、杉浦っていう同僚の女性。彼女、先日バイク事故で亡くなったの」

「バイクを運転していて、事故?」

 紗智が合いの手を入れた。

「ううん、バイクに轢かれて」

「あ、それニュースで見たわ。弁護士が運転するバイクに轢かれって、地元のローカルニュースだけど」

「私、会社には止められていたんだけど、お葬式にいったの。っていっても、直葬って知ってる?火葬するだけの簡易な葬儀で、杉浦さんの息子さんが喪主でひとりいたのよ。辻って名乗ったんだけど、彼が席を外した時に彼のバッグから写真が見えて、その写真がコレ」

 陽子は興奮しながら、紗智にスマホで撮った写真を見せた。そこには、紗智の若い頃の姿が映っていた。

「これは、私だ。え、いつの。二十歳ぐらいの頃の。どうして、その杉浦って人が持ってるの?気味が悪い」

 紗智は戸惑った、舞台での写真ではなく、完全にオフショットだったからだ。オフで写真を撮ることはほとんどない。劇団から厳しく禁じられていたからだ。スキャンダル週刊誌が強く台頭していた時代、もし売れたときオフショットの写真が将来の足を引っ張ることがある。実際に紗智もそうやって売れそうになって、消えていった先輩俳優をたくさん知っている。

「私、劇団では写真を禁じられていたから、こういう写真を撮らせることはなかったんだけどなぁ」

 紗智はとまどいながら、もう一度陽子のスマホをじっと見た。どこか疲れた顔だが、若さの方が勝っている紗智がそこにいた。緑のカーデガンを着たバストショット。髪は長い。主役クラスの頃だ。よく見ると見慣れたイヤリングが目についた。これは、そうだ。思い出した。早田千賀子からもらった、イヤリングだ。もっと大人っぽくなりなさいといわれて、なんでもない日にプレゼントされた。ゴールドのクロスリングで、動きのあるシルエットだ。当時は劇団の主宰、合田とのデートでよく付けていた。

「この写真、早田千賀子が撮ったものだと思う」

「早田千賀子って、あの久保隅咲江ってことよね」

「はい、思い出しました。彼女、カメラを買ったっていってて、記念にって。劇団からは禁止されていたんだけど、いつもチケットをたくさん買ってもらっているし、断るのもなんだか」

 紗智は当時のことを思い返していた。合田との不倫関係まで記憶が甦り、胸の奥が痛んだ。合田に会いたいというわけではない、あの頃の自分を説得できるなら、という叶わない想いに痛んだのだ。

「それを杉浦って私の同僚が持っていた、そして息子と名乗る辻って男の手に渡っていた」

 陽子はいった。

「息子と名乗るってどういうこと?」

「この辻って男は、杉浦が若い頃に離婚した夫に引き取られたっていってたんだけど、違うみたい。何かを探してる。たぶん、杉浦はこの写真で久保隅咲江をゆすっていたみたいなの。杉浦が会社を辞めた理由は、久保隅咲江との金銭トラブルで訴訟したって訊いたけど、たぶん杉浦のゆすりが原因で久保隅咲江は会社を辞め、杉浦も追いかけるようにして辞めたみたい」

「辞める理由になっていないのに」

 紗智はつぶやいた。

「杉浦は前科があって、オーナーがいうには杉浦を入社させたのは久保隅咲江らしいの。二人は主従のような関係があったみたいだけど、恩義という点で。でもある日、杉浦は久保隅咲江の弱点を見つけた。それが、あなたが映っている写真。どうして弱点なのかわからないけど。そう考えるのが道筋として正しいと思わない?」

 紗智は背もたれだけが異常に高い椅子を浅く座りなおした。背筋を伸ばしたが、伏し目がちに目線をテーブルに落とした。くしゃくしゃになったストローの袋が瀕死のミミズのように店内の風で動いているように見えた。

「私、十五年前に二歳ぐらいの子供を早田千賀子こと久保隅咲江から預かりました」

「ええ、この前いってたわね。二カ月で五百万円って」

 陽子は伏し目がちの紗智に目をやった。

「あの子、秀一君だと思ったんです。偶然四条であったときも、この前食堂であったときも。でも、秀一君の話を聞いていると、【正美】っていう男の子なんじゃないかって。私が預かったのは」

「正美くんって、翔太と同じ母子家庭らしいのよ。お母さんはすごく正美くん想いらしかったんだけど、なんだかおかしくなってきたみたいで」

「おかしい?」

「そう、看病にも来ないし。母子家庭でそんなに裕福でもないのに、個室らしいのよ。正美くん」

 陽子は続けた。

「重野正美、母親は重野英子。正美くんは不登校でいじめにあってたみたい。これは、秀一君から前に訊いた話なんだけど」

「いじめで不登校に、それで今は入院ってお母さんもつらいでしょうね」

 紗智はようやく顔を上げた。

「それでね、翔太、私の息子ね。翔太が正美くんと同じ高校を卒業しててね、この前同窓会でこんな話があったのよ」

「いじめでその正美くんのお母さんが弁護士と乗り込んだらしいの」

「弁護士?」

「そう、弁護士」

 紗智は陽子の話の道筋が見えなない。

「その弁護士の名前が、一ツ橋要。杉浦杏子を轢き殺した犯人」

 ようやく話がつながった、紗智は思わず前のめりになった。陽子の声を聴き洩らさないようにと無意識のことだった。

 重野英子と杉浦杏子が一ツ橋要でつながった。久保隅咲江と重野英子は秀一と正美が元同級生で友人つながり。久保隅咲江と杉浦杏子は清掃会社の元同僚。杉浦も一ツ橋も亡くなっている。一ツ橋は自殺だと報道されたが、自殺するように誰かが仕向けたかもしれない。杉浦も事故に見せかけて、一ツ橋が殺害したのかもしれない。一ツ橋は誰かに頼まれたと考えると、合点がいく。だけど、ここから話が進まない。紗智は自分が預かった子が、秀一のいう通り重野正美だったと仮定した。重野英子と久保隅咲江は当時から接点があったと考えられる。

「これが私の知ってるすべて」

 陽子は飲み干したアイスコーヒーのグラスを回した。中で溶けた氷が躍る。

「私が預かった子が、重野正美なら、どうして久保隅咲江から預かったんでしょう。他人の子供を」

「杉浦杏子が久保隅咲江をゆすっていた材料が、あなたの写真だとすると。預けたことそのものが、何か後ろめたいことなのでは?」

「たとえば、どんなこと?」

「あくまでも仮定だけど、重野英子から正美君を誘拐して、あなたに預けていたとか」

 紗智には思い当たる節があった。外出が夕方の決まったコースのみと決められていたこと。その外出自体も、監視されていたと感じていた。外出ができる状況というのは、警察が動いていない証だと紗智は思い返した。誘拐ならそんなにリスクのあることを許さないだろう。だとするなら、英子と咲江の間になんらかのトラブルがあって、咲江は有利に交渉をするために正美を誘拐したのではないかと、紗智は考えた。そうでもないと、この杉浦という御名が咲江をゆする材料にならない。咲江のこうした犯罪めいたことをゆすった結果、一ツ橋に殺害されたのだと考える方が合理的だ、紗智は考えた。

「英子と咲江の間にどんなトラブルがあったか」

 紗智はぼそっとつぶやいた。

「そこで、この暗号なのよ」

 陽子はテーブルにノートを広げた。解読した正美の暗号、

25=こ

95=ろ

31=さ

94=れ

35=そ

13=う

「ころされそう」というものだった。


「これは?」

「これは、正美君が秀一君に預けた音源の曲順から読み取れた暗号。ポケベルの文字コード」

「だとして、これは正美君がころされそうってメッセージなのかしら」

 紗智は疑問を陽子にぶつけた。

「どうなんだろう。どう考えても正美君がポケベルの文字コードを暗号に仕込むなんて考えにくくて」

 確かにそうだ紗智ぐらいが高校生のころポケベルが流行った。というより、それしか通信手段がなかったのだ。公衆電話から彼氏にベルをしてくるなんてよく友達にいったものだ。

「だとすると、この暗号の主は?」

 紗智が陽子に訊いた。


「重野英子なんじゃないかなって」

「杉浦、一ツ橋、が亡くなって、次は重野英子ってこと?じゃぁこの黒幕ってやっぱり久保隅咲江ってことなんじゃ」

 紗智は自分でそういいながら、あの早田千賀子こと久保隅咲江が殺人の黒幕であるのだろうかと信じられなかった。

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