第2話 タイムリミット

『死のうと思っている』


 目の前にいる彼女は確かにそう言った。自分が飛び降りようとしているわけでもないのに、足は小刻みに震え出した。


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 声も上擦る。右手に持った懐中電灯で彼女を照らしながら、引けた腰で一歩だけフェンス側に近づいた。


「来ないでください」


 彼女が低く冷たい声色で言い放つ。靴底とアスファルトが擦れる、ざらりという音に体が凍り付いた。この人は俺が近付いたら飛び降りる。一度そう考えたら、もう動くことなどできはしなかった。それでも。


「なんで……死のうとしているんですか?」


 投げかける言葉を止めてはいけない。直感的にそう思い、なんとか会話を続けようと必死に言葉を絞り出した。彼女は俯き、しばらくしてから口を開いた。

 

「生きていても楽しくないからです」

「た、楽しくないから?」

「はい。質問には答えました。さようなら」

「待って!もう少しお話しませんか!?」


 身を乗り出しそうな彼女に慌てて声を掛けると、彼女は動きをピタリと止めた。冷や汗が頬を伝う。ここからは慎重に言葉を選ぼう。まずは相手に共感するような言葉が大事だ。


「死にたくなるぐらい辛いことがあったんですよね?」

「違います」

「え?」

「さっきも言いましたよね?生きていても楽しくないから死のうとしているんです」


 一瞬、頭がフリーズしてしまった。自殺しようとしてるって事は余程辛い事があったのだろう、そう思って出た言葉だったのだが……。

 

「それじゃあ、さようなら」

「だから待ってくださいって!」

「まだ何か?」

「楽しい事ならいくらでもありますよ!美味しい物を食べたり、旅行に行ったりとか!」

「楽しいと感じた事はありません」

「あ、そうか。人によって楽しいことは違いますよね!」

「そういうことではなくて……」


 彼女が困ったように言い淀む。なんだろう、この妙な違和感は。シャツのボタンを掛け違えているような、ゲームの選択肢を間違え続けているようなズレた感覚。俺は何かを間違えてる?


「今日は私の誕生日です。25歳になりました」

「え?はい、お誕生日おめでとうございます」


 突然のカミングアウトに祝いの言葉を普通に返してしまった。いや、そんな日に自殺?どういうこと?俺の疑問を置き去りに彼女は話を続ける。


「仮に私が75歳まで生きるとしたら、人生の3分の1を経験した事になります」

「……そうなりますね」

「それだけの時間を生きてきて、私は楽しいという感覚を味わったことがありません」

「え?」


 屋上に風が吹いた。彼女の長い黒髪が揺れる。その時、初めて彼女の顔がはっきりと見えた。整った顔立ちで、可愛いというよりは綺麗という言葉が似合う。月明かりに照らされた今の状況も相まって、神秘的にすら見えてくる。ただ、瞳だけはどこまでも暗く沈んだ色をしていた。


「楽しいと感じた事がない?生まれてから今まで一度もですか?」

「はい。一度もありません」

「……それは、感情がないってことですか?」

「違います!!」


 初めて彼女が声を荒げた。その声色には確かに感情が乗っていた。彼女は自分でも驚いたように、はっとした表情を浮かべた。


「違うんです。私は怒りも悲しみも感じる事はできます。感情はあるんです。でも、喜んだり楽しんだり、そういった感情が……分からないんです」

「そんなことって……」


 ある、のだろうか?人間が当たり前に持った喜怒哀楽の内にある二つが抜け落ちている、もしそんな人がいたとしたら……。


「生きてる意味、ないと思いませんか?」

「いや、それは……」


 彼女の言葉に対して、違うとはっきり言い切る事が出来なかった。否定してあげたかった。

 それでも言えなかった。自分も彼女と同じ考えに至っていた事に気づいてしまったから。


「だから、もう終わりにしようと思ったんです」

「そんな……。で、でも!もしかしたら明日は楽しみや喜びを感じられる1日になるかもしれませんよ!!だとしたら、今死んでしまうのは勿体無いと思いませんか!?」

「……25年間、そう思って生きてきました」

「あっ……」


 自分の人生が良くなる事に期待しない人間はいない。俺もそうだし、彼女だってそれは同じだったんだ。そして、その期待に裏切られ続けた彼女が、ここにこうして立っている。 


「私の人生はずっとマイナスなんです。これからもプラスになることはない。だったらいっそ、ゼロになった方が良いじゃないですか」


 そう言った彼女は口角を上げて、目を細めて俺を見た。笑顔だった。喜びではなく、悲しみと諦めが混じった笑顔。それは、今まで見たどんな泣き顔よりも悲しい表情に見えた。


「だから……さようなら」


 彼女が言い終わる前に俺はフェンスに向かって走り出していた。まるでベッドに後ろ向きで倒れこんでいくような彼女の動きが、スローモーションに見えた。目の前で人が死ぬ。嫌だ。もっと速く走れ。間に合え。


 ガシャン、と音を立ててフェンスにぶつかると同時に、身を乗り出すようにして彼女に手を伸ばす。無理だ、ギリギリ届かない。


 ……そう思っていた。事実、届く距離ではなかった。彼女の方から手を伸ばしてくれなければ。何とか彼女の左手首を、右手で掴むことが出来た。そのまま彼女の身体を自分の方に引き込み、抱き寄せた。


「あ、あっぶね〜」

「……なんで死なせてくれなかったんですか」

「目の前で死のうとしてる人を、助けないわけないでしょ!」


 抱き寄せた彼女越しに、屋上から地上までの高さを確認して背筋が寒くなる。彼女の立っている場所は安全ではない。


「とりあえず、こっち側に来ましょう。また落ちようなんて考えないでくださいね?しっかり支えてるんで」


 抱き寄せた胸の中、無言で頷く彼女にさっきまでの死に対する強い覚悟は感じられなかった。もうどうでもいい、そんな気の抜けた気持ちが伝わってきた。俺は彼女の背中に回した両手を両脇にスライドさせ、しっかりホールドした状態でこちら側に引き上げた。


「これで少しは安心ですね」

「……あの、なんで私の手首を握ってるんですか?」

「だって、また死のうとするかもしれないじゃないですか」

「今はそんな気はありません。

 ……少なくとも今日は」

「それは、明日は死ぬかもしれないってことですか?」

「…………」


 俺の質問に彼女は無言の肯定で返事をした。今死ななくても、いつかは死ぬつもりである。それじゃあ問題を先延ばしにしているだけだ。根本的な解決にはならない。


「楽しいと思える事、もう一度探してみませんか?」

「……25年探し続けたのに見つからなかったんですよ?」

「俺も手伝いますから。誰かと一緒に探したことは今までないんじゃないですか?」

「それは……そうですけど」


 彼女が死のうしている原因は、人生を楽しむ事が出来なかったからだ。それなら、楽しめる何かを見つける事が出来れば、問題は解決するはずだ。もちろん、それが簡単な事だとは思っていない。


 でも、決めたんだ。彼女の悲しい笑顔を見た瞬間。落ちかけた彼女が、俺に手を伸ばしてくれたあの時。助けてあげたいって思ってしまったんだ。


「……1か月だけ生きてみます」

「え?1か月?」

「はい。1か月生きてみて楽しい事が見つからなければ、今度はちゃんと死のうと思います」

「それはちょっと短すぎますよ!せめて半年はもらえませんか!?」

「もう決めました。1ヶ月です。その代わり、1ヶ月の間に自殺しようとはしません。それはお約束します」

「……分かりました」


 タイムリミットは一か月。ミッションは彼女に楽しいと感じさせる事。まるで御伽話の無理難題のように突きつけられたそれに、頭を悩ませながらも了承した。


「手、離してもらえますか?」

「フェンスに向かって走り出したりしませんか?」

「しません。約束は守ります」


 それを聞いてゆっくりと彼女の手首を握っていた手を離す。力が入りすぎていたのか、彼女の手首は少し赤みを帯びていた。


「それじゃあ、今日はもう帰ります」

「それなら玄関まで着いていきます」

「まだ心配してるんですか?」

「それもあるんですけど。俺は警備員なんで、戸締りやら何やら色々あるんですよ」

「そうですか」


 そう言って納得すると、彼女は屋上の出入り口に向かって歩き出した。俺は彼女の少し斜め後ろから、懐中電灯で前方を照らしながら着いて行く。……ん?そういえば。


「あの、今更なんですけど、あなたの名前を教えてもらっていいですか?」

「私の名前は小桜希心こざくらのぞみです」


 小桜希心こざくらのぞみ

 それが今夜死のうとした、彼女の名前だった。

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楽しいって何ですか? 修行僧 @Training_Modes

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