満ちてゆく影
神木
満ちてゆく影
仕事場は暗い。木と漆喰の壁に四方を囲まれて、窓はない。だから風通しも非常に悪く、仕事場は年中むっとしていた。光源は天井に空いた小さなスリットだけだ。そこから糸のように細い光の帯が落ちている。部屋を照らすには全然足りない。
私は光に手を伸ばしてつまみ、ちぎらないようにそっと伸ばす。光の帯は私の指に沿ってつるりと伸びていく。
ある程度伸ばし、手首をひねって切ると、赤から紫までの様々な色の火花が静かに散る。私はその瞬間がけっこう好きだ。重さがないので指からふわふわと漂う糸状の光を、近くの作業台に集める。物心ついたころからやっている作業なので正しい力加減は身体に染み付いているから、うっかりちぎれてしまうことはない。私は朝から昼過ぎまで、光を集めることに時間を使う。
昼のチャイムが鳴ると、私は集めた光が散らないように、光を練り込んである麻縄で優しくまとめて、光職人が休憩を取るために用意された薄暗い個室に行く。簡単なキッチンがあるので、そこでお茶を沸かし、トマトとベーコンとチーズを挟んだサンドイッチの昼食を取って、一休みする。光は非常に繊細な素材だし、ある程度の長さがないと摩耗して消えてしまうので、採取には神経を使うのだ。
そして昼休みが終わると、仕事場に戻る。この頃には私の指にも光が染みているので、真っ暗な仕事場の中で手の平の形がはっきり分かるほどになっている。
午後の仕事は、集めた光の束を編むことに使われる。スリットに蓋をして、集めた光が放つ灯りだけで私は作業を進める。数本ずつ端を縛って纏めた光を、三つ編みの要領で編みこむのだ。これは単純作業なので特に私の楽しみはない。さらさらとして温かい感触は嫌いではないが、光が私の中に入っていくのでのんびりとはしていられない。私の身体に光が入りすぎると、存在認識の均衡が崩れてしまうのだ。
全て編み終えると、砂糖と香料の粉末をまぶす。おいしそうな匂いを纏って、光菓子は完成する。
できあがった光菓子をバスケットに詰めて、私は仕事部屋の隣にある「ハコ」に持って行く。「ハコ」は幼体が育てられる施設だ。「ハコ」の幼体たちは、まだ認識されるだけの存在強度を持たないので、目にも見えず音も立てられず物も触れられない。でも私のような光に触る者たちだけが彼らを知覚する。知覚と言っても、はっきりと形が見えるわけではなく、芋虫の影のようなわだかまりがあるだけで、意志があるのかどうかも分からないけれど。
光菓子は、日光をのぞいて幼体の唯一の栄養源だ。光はあまり取り込みすぎると存在消失の危険があるが、光がなくては存在を保つこともできない。光職人の存在認識を補助する眼鏡をつけた「ハコ」の門番たちは私に気付くと、何も言わずドアを開けてくれる。光をふんだんに取り入れるように設計された「ハコ」に入り、まどろんでいるのか起きているのかも分からない彼らの中心に食事台に、光菓子の乗ったバスケットを置き、私は退出する。
外に出ると、門番が若い男女と話していた。
「あのう、予約していた行本です」
「ええ、お待ちしておりました。お入りください」
光が染みて風景に溶け込んでいる私は、訪れた二人からほとんど見えていないだろう。私がいても特に問題はないが、沈みかけの日光が身体に浸透してくるので、足早にその場を去る。
「ハコ」には定期的にいくつかの試験をパスした男女二人組が訪れる。彼らが幼体の中から子供を見つけたときに幼体は存在が確定される。一度に確定される子供は一人か二人だ。そしてその赤子は手続きを経てその夫婦によって養育されることになる。
あの夫妻が子供を見つけられればいいと思う。光職人の私は子供を持てないことが決まっているので、密かに彼らと、いつか見つかるかもしれない子供を祝福した。
◇
自宅に帰るころ、私は浸透した光のせいで存在強度を落としているのでほとんどの物体に触れなくなっている。人はもちろん、物さえ私に気付かなくなる。自宅のドアノブも回せなくなるので、ドアを開けずにそのまま足を踏み入れる。肉体や衣類は、ドアそのものの微細な隙間を知恵の輪のようにすり抜けるのだ。
私の家の床には光を編みこんでいるので、落ちることはない。玄関から廊下にあがる頃には、靴も衣服も干渉を失って床に落ちてしまう。試したことはないが、この状態で外に出たら、地球は果たして私に気付いてくれるのだろうか。もしかしたら地面に吸い込まれて、気付かれることなく死んでしまうのかもしれない。
床に落ちる服の音で、私の帰宅に気付いた同居人がこちらを見る。彼——たぶん彼だけれど、かろうじて人型とわかるだけの不定形な影の塊だから実際の性別は分からない。
「お帰りなさい」
ただいま、と返すけれど、私の音は存在が薄まっているので、影にしか聞こえないだろう。ここには影しかいないが。
「弟妹達は元気でしたか?」
たぶん元気だった。今日も夫婦が来ていたから、うまくいけば誰かが存在確定されることになる。
「へえ、それはめでたいことです。そうしたらまた兄姉が増えますね。弟妹から兄姉へ、二階級特進ですね」
私から滑り落ちた衣類を、影は数本の手を伸ばしてかき集め、脱衣場に放り込む。軟体に近い便利な身体をしている。影は「ハコ」から逃げ出してきた幼体で、私の観測がなければ存在を失うためにここで暮らしている。幼体は男と女の肉体による二重観測がなければ存在確定が行われないが、一個体だけの観測で歪な存在確定を得ている影は、物には触れるものの人間には認識されない。しかし私よりも頭がよく、今は匿名の作家として収入を得ていた。それは少しずつ彼の存在を確定させつつあって、少しずつ彼の色合いや現実感は密度を増していた。
部屋の暗い中で輪郭だけが薄く発光する私の前に、影が跪いて、下腹部に額を当てた。影の額は体温に乏しくてひやりとしている。そしてそのまま私たちは沈黙して、静かに呼吸を合わせた。
私の中に残留するいくつもの光は絶えず揺らめいていて、様々な色を漏らすプリズムのように散乱を繰り返す。私と影の間で色彩の火花が散り、やがて光の波と影の波が少しずつ共振を始めた。私たちにしか聞こえない秘密の二重奏が始まって、影は注意深くその旋律を聞いていた。そして旋律はいくつもの物語を示唆している。
物語の破片たちを影はひっそりと聞き、波が静まると影は顔をあげて、私のへそに唇を——目や鼻、唇のない顔なので、唇があると思しき箇所を付けた。
朝から重ねてきた光が、私のへそを通って影に流れていく。温かくぬめるような奇妙な感覚。私は影の頭にそっと腕を回して、栄養が彼の中に巡るのを待った。落ち着いた静けさは仕事に疲れた私の神経をゆっくりと落ち着かせていった。
影の食事が終わると、私は普通の人みたいに物が触れるようになる。服を着て、影の用意した肉の塩焼きとピーマンと卵の炒め物とパンを食べる。テーブルを挟んで対面に座る影は、人間の食べるものを受け付けないので、この間編んでやった光菓子を摘まんでいる。唇らしき部分に近づけると、光菓子はするりとほどけて影に溶け込んでいく。
「そろそろ名前が欲しいです。筆名ではなくて、本物の」
影は言った。
私は首を振った。最近、影は名前を欲しがっていた。私には光職人という名前しかないから、どんな名前を付ければいいか分からないし、名前を付けるとこの幼体がそのままで存在を確定されてしまいそうな気がしたからだ。
名前をあげたいとは思う。しかしそれは私からではなくて、別の夫婦に見つけられて生まれてからもらってほうがいいのではないか。もし私の与えた名によってこのような影のまま存在が確定されてしまえば、きっといつか後悔する。何しろ光職人にしか観測されないのだ。私が死ぬ頃には次の光職人が産まれるのだが、ずっと光職人の小間使いのような生活をしたいわけでもないだろう。彼が稼いだ金は全て別の口座に分けて取っておいてあるのだ——君の前には私よりもずっと面白いものがあって、ドアの外に広がっている世界はずっと興味深くて、こんな狭い部屋にいることはないのだと教えるには、私は何も知らなすぎた。私は光を編んで死ぬだけだと思っていたから。
しかし、彼の求めに応じて私は本もタイプライターも買って、彼のための口座だって作った。だからきっと私は、そのうちに根負けして名を与える。そしてきっと、歪に存在が確定した影は物語を書き続け、次の光職人ともうまくやるのだろう。そう思うと、私はこの影に祝福をしたい気持ちになった。いつか観測されるだろう子供と、あの夫婦に祈ったような祝福を。
苗字、と私は言った。
「はい?」
「下の名は考える。でも名前には姓が必要なんだろう」
「…………」
「姓は自分で考えなさい」
私は話を切り上げて食器を洗い、シャワーを浴びる。寝支度を終えて常夜灯を点けると、一つしかないベッドに私たちは潜り込んだ。
光職人に名付けられた影はどのように存在を確定させるのだろう。でもどんな風になっても、歪なまま、どこにだって行けばいいし、何をしてもいい。そして私の光ではなく影自身の経験を通した物語を聞けたなら、それでもういいような気がした。
光を食べる癖に常夜灯の薄明りを嫌う影は、布団の中の濃い暗闇に溶けるようにしてまどろんでいる。布団と私の隙間に満ちた影はうっすら冷たいが、少しずつ温かくなっていく。
「姓を決めたら、あなたは同じものを使いますか」
使う場所がない、と思った。光職人に名前はいらない。でも影から姓をもらえば、私も自分に名前を付けなくてはならないだろう。答えずに布団を引き上げたが、心が躍ったことに影はたぶん気付いていた。
満ちてゆく影 神木 @kamiki_shobou
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