麻友子の偽りの日々

マツダセイウチ

第1話

 スマートフォンから目覚ましの不快なアラームが鳴り響き、麻友子は目を覚ました。ムクリと身体を起こす。今日もまた退屈で下らない、理解不能の1日が始まってしまった。


 階段を降りるとリビングになっている。家族のため、母が朝食を用意してくれていた。この光景は麻友子が子供の頃から変わらない。


「おはよう麻友子。ご飯できてるよ」


「ありがとう」


 お礼をいって麻友子は席についた。今日の朝食のメニューはご飯に豆腐とワカメの味噌汁、小松菜のお浸し、焼いた塩鮭と絵に描いたような和食の朝食だった。それを見て麻友子は、


(今日は洋食が良かったな)


 と思ったが口には出さず、静かに朝食をとった。塩鮭をほぐしながら、愛情とは何かを麻友子は考えた。自分は家族に恵まれていると麻友子は思う。父も母も優しく、仲がよく、収入も充分あり家庭的なトラブルとは無縁だった。だがそうであるがゆえに、今麻友子は食べたいとも思わない和食を食べなければならない。拒否しても良いのかもしれないが、そうすれば母は傷付くだろう。麻友子は母が善人であることをたまに恨めしく思うのだった。贅沢な悩みなのは分かっているが、食べたいものを好きなタイミングで食べられないというのは麻友子にとって小さからぬストレスだった。


「ごちそうさま」


 朝食を終え、麻友子は食器を下げた。キッチンでは母がフライパンを洗っている最中だった。母は笑顔で泡だらけの両手を差し出したので、麻友子は汚れた食器を手渡した。


「美味しかった?」


「うん。とっても」


 これは本音だった。麻友子の母は料理が得意だった。だがあいにく麻友子は食事にそこまで関心がなかった。もし自分1人だったら朝食はパンだけ、あるいはコーヒーのみでもいいくらいだった。


 麻友子は大学を出て働き始めたばかりだ。本当は一人暮らしをしたいが、まだ自由になるお金はそれ程多くない。まとまった貯金ができるまで憧れの自由気ままな生活はお預けだ。


 麻友子は洗面所で顔を洗い、部屋に戻って身支度をした。白いブラウスにグレーのスラックス、黒いレザーのベルトを締め、机の上の鏡を引き寄せ化粧を施す。麻友子自身はお洒落全般に興味がない。ブラウスもスラックスもパンプスも窮屈で機能性に乏しく、化粧に至っては何の意義も見出だせない。ただ世間では身だしなみに無頓着な人間は糾弾の対象であるため、仕方なくそれなりの時間と費用を割いているのだった。


「こんなのが重要なんてね。馬鹿みたい」


 髪をシニヨンにセットしながら麻友子は1人呟いた。


 通勤用の鞄に必要なものが入っているかチェックし、スラックスと揃いのジャケットを羽織って麻友子は部屋を出た。リビングの先に玄関がある。リビングでは麻友子の父がいて朝食をとっていた。麻友子の方が会社が遠いため早朝に出勤しなくてはならず、最近は朝は入れ違いになるのだった。


「いってらっしゃい、気を付けるんだよ」


「うん、いってきます」


 麻友子は挨拶も馬鹿らしいと思っていた。だがしかし世間では挨拶の有無が好感度に直結している。麻友子は人に好かれようと嫌われようとどちらでも構わなかったが、家庭や会社でヘイトを買いすぎると色々とやりづらくなるため、馬鹿らしいと思いつつ快適な生活のために挨拶をしないわけにはいかないのだった。


 家から最寄駅まで自転車で10分。自宅付近から駅まで行くバスも出ているが、運動不足解消のためあえて自転車を使うことにしている。麻友子は運動が割と好きなタチだ。最近はようやく暑さも和らいで、頬に受ける風が心地よかった。


 駐輪場に自転車を預け、麻友子は駅に向かった。通勤ラッシュで人だらけの駅は、何回見てもうんざりさせられる。改札を抜け、ホームで電車を待つ。やって来た電車はすでに人がいっぱいで、座れるどころか立つのもやっとといった感じだ。もはや無の境地で麻友子は電車に乗り込んだ。満員電車に揺られながら、これだけ大勢の人間が不快きわまりない満員電車による通勤通学に耐えていることが信じられない気持ちになった。例えパジャマで床に寝転びながら仕事をしたって成果が同じなら良いのではと思うが、世間や社会の上層の人間はそうは思わないらしい。社会は理不尽と非合理なルールでいっぱいだった。それに抗うほどの力は麻友子にはない。


 麻友子の勤める会社は最寄り駅からほど近いところにある。入口でICカードのチェックを済ませ、すれ違った同僚や上司に挨拶をし、デスクについてパソコンを起動させた。その隙に退勤後に届いたファックスを取りに行き、デスクに戻ったらメールをチェックする。始業のチャイムが鳴ったらデスクの電話が鳴り出すだろう。今日も暇すぎず、忙しすぎない1日でありますようにと麻友子は祈った。


 時計の針は12時を少し過ぎ、仕事が一段落したので、麻友子は昼休みを取ることにした。デスクから立ち上がると同期の桜崎が声をかけてきた。


「あ、影島さんお昼行くの?一緒に食べない?」


「いいね。いこいこ」


 口ではそういいつつ、お昼くらいひとりになりたかったのに、と麻友子は少しがっかりした。桜崎は一人になれない質のようで、このように頻繁に麻友子に声をかけてくるのだ。はっきり断ると角が立ちそうなので、麻友子はそれとなくお昼を一緒に食べなくても済むような理由を考えなくてはと思っているところだ。


 社食のランチは無料で提供されている。今日のランチは麻友子は日替わり定食、桜崎はパスタセットを注文した。カルボナーラをつつきながら、桜崎は意味深な表情をして言った。


「ねえ聞いた?経理の鈴木さん、営業の田辺くんと付き合ってるらしいよ」


「えー、本当?うちのエースの田辺くんとなんて鈴木さんすごいね」


 笑顔でいかにも興味があるような態度をしつつ、麻友子はまたこの手の話題かと内心ため息をついていた。麻友子の周りの人間は老若男女問わず恋愛話が好きな人ばかりだった。麻友子にとっては蟻が何種類いるかと同じくらいどうでもいい話題だが、学生時代興味のなさを顕にしすぎて対人関係がギクシャクしたことがあり、それが面倒だったので、以来話をあわせることにしたのだった。その後桜崎の話は同棲している恋人の愚痴と惚気話に移っていった。麻友子は欠伸を堪えながら、桜崎の話に笑顔で相槌を打った。


 午後の仕事もつつがなく終了し、麻友子は定時で上がれそうな予感に心踊らせた。今の仕事は退屈だしなんのやりがいも感じないが、麻友子はこれまでの人生で生きがいだのやりがいだのを感じたことはないし、それでいいと思っている。楽しくなくてもいい。苦痛さえなければそれで上出来だ。それが麻友子の人生哲学だった。


 資料を片付け、退勤の準備をする麻友子の横に、スッと誰かが近寄ってきた。顔を向けるとメガネを掛けネイビーのスーツを着た男性が立っていた。他部署の月森という男性だ。麻友子より3年ほど先輩で、部署が違うので余り接点はない。月森は若干緊張の面持ちで麻友子に話しかけてきた。


「あの、影山さん。この後用事ある?」


 何だろう、こんな時間に。仕事で何かあったのかと麻友子は訝しんだ。


「いえ、特に何も」


「そうなの?それなら晩ごはん一緒にどう?おごるからさ」


 なんだそういうことか。麻友子は舌打ちしたい気分になった。せめて帰りくらい一人にしてくれと叫びたいくらいだった。麻友子は若干芝居がかった仕草でこめかみに手を当ててみせた。


「ごめんなさい。今日何だか頭が痛くて…。早く帰りたいんです」


「そうだったの。じゃあ一緒に帰らない?電車はどっち方面?」


「下りです」


「じゃあ俺と同じだ。途中まで一緒に行こう」


 月森はなおも食い下がってきた。頭痛は嘘のはずだったが、何だか本当に頭が痛くなってきたような気がした。しかしこれ以上断りを入れるのは危険だと麻友子は判断し、月森と一緒に退勤することにした。


 月森と共に会社を出て、駅の改札を抜け、いつもは真ん中らへんの車両に乗るのだが、今日は前方の車両に乗ることにした。そこならボックス席があるからだ。些細なことかもしれないが、横並びの席で隣同士で座るのは距離が近すぎて落ち着かなかった。いっそ全然見ず知らずの人間なら耐えられるが、月森のような顔見知り程度の微妙な知り合いとの距離感は麻友子にとっては難しかった。そういう思惑には気付かない様子の月森は、麻友子と向かい合ってニコニコしながら話し出した。


「影島さんと話してみたいなって思ってたんだけど、ほら、部署が違うじゃん。だからなかなか機会がなくて」


「そうだったんですか。飲み会とかも今は部署ごとですもんね」


「そうなんだよ。今日はごめんね。頭が痛かったのに誘っちゃって。影島さん休みの日は何してるの」


 何か予定があると言わないと、と麻友子は思ったが休日に何もしていなさすぎて返答に迷った。


「えっと…。最近は資格がほしいのでそれの勉強ですかね…」


 苦し紛れの嘘だったが、月森は信じたらしく、感心した表情をした。


「へえーえらいね。でもたまには息抜きしないと。今度一緒に出かけない?連絡先教えて」


 月森の嬉しそうな顔を見て、この人は私のことが好きなのかもしれないと思い、麻友子は苛立ちと心の痛みを感じた。麻友子はまだ一度も本気で人を愛したことはない。月森は人柄も容姿も悪くはないが、それでも愛情をもてそうな予感はこれっぽっちもしなかった。その事実は月森を傷つけるだろう。お願い、私を好きにならないで。私はあなたの期待には応えられそうにない。私みたいな冷たい人間を愛さないでと言えたらどんなにいいかと麻友子は膝の上の鞄の持ち手を握りしめた。


 結局断りきれず、麻友子は月森と連絡先の交換をした。今夜あたり誘いの電話かメールが来るだろうと思うと麻友子はげんなりした。まあでも部署が違うから毎日顔を合わせるわけではないし、断っても仕事に支障はないだろう。何度か断れば月森も諦めるはずだ。そうだそうしようと麻友子は決意した。


 玄関を開けて「ただいま」というと、リビングの方から「おかえりー」と母が返事をした。


「あら、どうしたの。疲れた顔して」


「うん、今日はちょっと仕事が忙しくて」


 また嘘をついてしまった、と麻友子は思った。社会人になってからこういった小さな嘘が増えてきた気がした。そして嘘をつく罪悪感が日に日に薄れていくのが少し恐ろしかった。大人はみんなそうなんだろうか、と麻友子は考えた。


「そうなの。お父さんは飲み会で遅くなるから二人で食べちゃいましょ」


 食卓の上には鶏肉の照り焼き、三つ葉の味噌汁、小松菜の胡麻和え、粉ふきいも、卵焼きがほかほかと湯気を立てて鎮座していた。照り焼きは大好物だ。麻友子は月森のせいで失っていた食欲を取り戻した。


「うん。ありがとう」


 夕食を終え、片付けを済ませて麻友子は風呂場に向かった。髪を解き、化粧を落として体を軽く洗ってから湯船に浸かる。お風呂は大好きだ。清潔になるしリラックスできるし、何より一人になれる。麻友子が最も愛している時間だった。


 入浴を終え、頭にタオルを巻いて部屋に戻った。机の上のスマートフォンを見ると、連絡アプリの通知に「月森」の文字が見えた。麻友子は舌打ちしてスマートフォンをベッドに放り投げた。返事は髪を乾かしてからにすることにした。面倒なことを少しでも先送りしたかった。


 リビングに行き、冷たい牛乳を飲みながらテレビを観る。今夜は麻友子が面白いと思う番組はなかった。テレビは止めて本を読み、頭から1/3ぐらいまで読み進めたところで夜更かしはおしまいにして髪を乾かそうと洗面所に向かった。


 髪を乾かしてリビングに戻ると、いつの間にか父が帰宅していたようで、テーブルに着いて麦茶を飲んでいた。


「お帰りお父さん。飲み会はどうだった?」


「まあまあ楽しかったよ。でも俺はこうして家でゆっくりしてるのが1番だな」


「そうだよね。私も同じ」


 普段は誰かに共感することはあまりない麻友子も、これに関しては心の底から同意した。父は麻友子に目をやり、目を細めて微かに微笑んだ。その表情は昔のアルバムで、赤ん坊だった麻友子を抱いている時となんら変わらなかった。


「明日も早いだろう?もう休みなさい。しっかり

 寝ることは仕事を頑張ることとと同じくらい大事だからな」


「うん、そうする。じゃあお休みお父さん」


 麻友子はそういいリビングから離れた。洗面所で歯を磨き、トイレを済ませて部屋に戻った。スマートフォンを見ると月森からの通知が3件に増えていた。返事をしようかと思ったが、面倒になったので気付かなかったことにしてもう寝ることにした。アラームがセットされているかを確認し、電気を消してベッドに潜り込んだ。気疲れしたせいか、横になってすぐ睡魔が訪れた。眠気に任せて麻友子は目を閉じた。明日も退屈で下らない、理解不能の日になる予感を感じながら、麻友子はそのまま眠りに落ちた。


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