スーサイド・ジェリーフィッシュ

雨野水月

1

 灰色の雲が、まるで出口を塞ぐように厚く空を覆っていた。

 薄暗い曇天の中、渋谷の片隅に、寂れた外観の雑居ビルがぽつりと立っている。更にその3階に居を構えているのが、探偵・仁科哲雄にしなてつおが仕事場とする探偵事務所であった。

 年季の入った応接室で、仁科は今回の依頼者の話を聞いていた。

「娘さんが自殺した理由を調査してほしい……と」

 仁科の目の前には、依頼者である女性が深刻な顔でソファに座っている。

「……はい。やっぱり、分からないんです。どうして私の娘は死ななければならなかったのでしょうか。確かに最近はよくケンカしていたけど、昔は本当に良い子だったのに……」

 山口夏帆やまぐちかほと名乗った依頼者の女性は、細く、掠れた声で話していた。年齢は、仁科と同じく40代半ばといったところだろうか。肩ほどまでの長さの髪には、ところどころ白髪が混じって見える。目尻には少しの涙が浮かび始めていた。

 仁科は、女性の気分を落ち着かせようと冷静に紅茶を促しながら、今回の依頼内容を脳内で嚙み砕いていた。

 自殺したのは、山口真希やまぐちまき。16歳、女性。渋谷某所ビルの屋上から飛び降りた。都内の高校に通っていたが、現在は登校拒否中。半分家出状態で、最近は夜な夜な渋谷や新宿の街に繰り出しては帰ってこない日もあったという。

 仁科が無言で待っていると、やや落ち着きを取り戻した山口が恐る恐るといった様子で質問を投げかけてきた。

「それであの……探偵さん、実際わかるんでしょうか? 真希が自殺した理由は……」

「ええ、安心してください。今回のようなケースなら、理由が全く掴めないなんてことはないと思いますよ」

 自殺の原因調査は、探偵の仕事としてはさほど珍しくはない部類のものだ。概ね、死亡者に関係する人物に聞き込みを行い、情報を集めていくことになる。

 二十年近くのキャリアのなかで、仁科自身もこの手の依頼は何回か経験していた。いずれの案件でも、確度の高い理由を聞き出すことができていた。

 しかし仁科は、はっきりとした理由はわからないが、今回の依頼にどこか得体の知れない不安を感じていた。不安というよりは、嫌な予感といった方が正しいのかもしれない。

 それはこの渋谷という街で、「自殺」について深入りすることに対する不吉な実感であった。

「ただ、昨今の渋谷は色々ときな臭いですからね……想定よりも調査に時間がかかってしまうかもしれないことに関しては、予めご承知おきください」

 仁科は、できる限り声色から不安を悟られないように、抑揚を大げさにつけたビジネス用の口調で念を押した。


 ここ数ヶ月、渋谷の街で自殺者が急増しているという、妙なニュースが連日報道されていた。10〜20代の若者を中心に、犠牲者の総数は数百人にも昇。死因は飛び降り・首吊りなどが多数を占めている。

 多くの評論家が、この異常事態について様々な背景を論じてきた。不景気による経済的な苦境が自殺を招いているという説から、犯罪組織に加担してしまった若者が追い詰められて自殺を選んでいるというもの、果ては自殺者の増加が地球の終わりを招くシグナルであるというトンデモ陰謀論まで、様々な憶測が日本中を飛び交っていた。しかし、それほど多くの注目を集めている事象にも関わらず、根本的な原因そのものをずばり看破してみせる者は現れていない。

 高層ビルの煌びやかなネオンとは対照的に、街には陰鬱な空気が霧のように立ち込めていることを、仁科も肌で感じ取っていた。

 だからこそ、今回の依頼は慎重に進めなくてはならない。

 仁科はばれないように顔を引き締め、依頼人との事務手続きを進めていった。

「それでは、明日から本格的に調査を始めていきます。情報提供などの面で色々とご協力をお願いするかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします。」

 最後の説明を終えると、二人はお互いに一息ついて、ソファから立ち上がった。窓の外ではもう日が落ちてきている。かなりの時間喋り続けていたことを脳が認識して、どっと疲れが湧いてきた。

 山口が帰り支度を進めていると、突然、バッグを抱えて立ったままぽつりと語りだした。理性で抑えつけていた思いが、溢れ出てきてしまうようだった。

「私の夫は、真希が生まれてすぐに病気で亡くなりました。真希は、たった一人の家族だったんです。もう半年くらい前から碌に口もきいてくれなかったけど、一人で死ぬことを選ぶような、そんな子じゃなかったはずなんです……」

「──ええ、心中お察しします」

 仁科は神妙な面持ちを作り共感した。このような感傷的な場面には仕事柄慣れている。山口は辛い表情のまま、事務所を後にしていった。


 玄関から応接室に戻ると、寂れた事務所はいつにもまして静かに感じられた。

 仁科は少し休憩しようと、仕事場に備え付けられたテレビの電源を点け、なんとなくニュース番組でチャンネルを止めた。ちょうど、経済評論家というテロップを貼られた男が、渋谷での自殺者増加の件について持論を展開していた。

「自殺者が増えているのはねえ、若者の経済的な苦境のせいなんですよ! こんな社会じゃ、誰も未来に希望なんて持てやしない! 政府は今すぐにでも経済政策を転換するべきです!」

 その意見を受けた別のコメンテーターが反論を返し、またそれに反論が繰り返される。なんだか議論が白熱しているようだった。

 未来への希望。未来ある若者。未来のための政策。

 みんなが語る「未来」という概念。

 仁科は、「未来」がわからなかった。未来を語る人の目は、それがどんなに悲観的なビジョンであったとしても、どこか輝いているように見える。しかし、仁科が想像してみる「未来」では、その曖昧な輪郭が形を結ぶことはなく、ただ漠然と、もやがかかったような光景が見えるだけであった。何の感慨も得られなかった。

 そんなことよりも、今日の依頼について考えないといけない。調査はどう進めていくか。関係者への聞き取りはもちろんとして、渋谷を歩いての聞き込みもするかどうか──

 依頼について考えを巡らせていると、気づけばニュース番組は違う話題に切り替わっていた。

 どこかの海で、クラゲが大量発生しているというニュースだった。どうやら、地球温暖化の影響で、漁業に深刻な影響を及ぼしているらしい。

 評論家は、何十年も前から対策を怠ってきた過去の我々に責任があると語っていた。未来のために、過去の責任を問うていた。

 

 過去のことも未来のことも、考えたくもなかった。思い出すことも、計画することも、すべてが鬱陶しく感じる。ただただ、目の前の仕事のことだけ考えていたい。


 ──いつから自分は、こうなってしまったんだろうか。

 おそらく仁科はその答えを知っていた。


 仁科はテレビの電源を切った。

 こんなことに時間を割いている暇はない。仕事をしなければならない。依頼を受けた以上は、結果を出すよう全力を尽くさねばならない。

 まずはどんなものでもいいから、山口真希という人物の情報を集めよう。

 頭を仕事モードに切り替えた仁科は、とりあえず調査を始めるべく、渋谷の中心街へと向かっていった。

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スーサイド・ジェリーフィッシュ 雨野水月 @kurage_pancake

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