第10話

 神様に見捨てられた……

 その言葉は、カイルにとって初耳だった。しかし、心のどこかでその言葉を知っていたような気もした。ずっと前から。ただ聞かないようにしていただけなのでは……

 蚊が不快な羽音とともに、カイルの頭の近くを飛んできた。

 だが、カイルはじっとしていた。

 耳障りな羽音に耐えていた。

 すっと蚊の羽音が止んだ。

 カイルは羽音がしていた側の耳の近く、鎖帷子から皮膚が露出している首筋のあたりを、思いきり平手で叩いた。

 パシンという小気味よい音ともに、蚊はぺしゃんこに潰れた。

 手のひらには蚊が吸ってきた真っ赤な血が、満開の花のように広がっていた。

 呆然としているカイルの横で、ジェルが老婆の胸ぐらを掴んだ。


「見捨てられた、だとぉ!? よりにもよってなんてこと言いやがる? あぁ? 自分の命が惜しいからって、適当なことを言うんじゃねぇ」

「やめろ。ジェル」

「カイル。このババアの首をさっさとはねろよ。これ以上、世迷い言、口にされてたまるか」

「その手を離せ」


 カイルの静かな物言いに、ジェルはじっと顔を見た。

 それからゆっくりと、手を下ろした。

 老婆は静かに服の乱れを直しただけだった。


「考えてみれば、あれだけ好き放題やって、神様に見捨てられてないっていうのも、むしがいい話かもな」

「なんだと!?」

「砦の中の賭け事で破産した騎士を二人知っている。それから妊娠させられたはいいが、相手がさっさと本国に帰ったせいで、一人赤ん坊を育てている女がいたよな。毎朝、車を引いて行商をしている」

「異教徒の中にも、そんなことをしている奴らはいるさ」

「それから聞いた話じゃ、教会は聖人の教えを俺達が普通に使う一般的な言語には訳さず、あえて古代の難解な学術語でのみで写しているそうだ。一般人が理解しにくいようにして、一部の司祭や教会の奴らが利権を獲得するためにな。だからお前だって内容をちゃんと理解できてないんじゃないか? そんなことをしていて、本気で見捨てられてないっていうのは、よほどおめでたいと思うね」


 ジェルも今度は何も言い返さなかった。


「だが、神様がいるという説も捨てたわけじゃない」

「何だと?」


 老婆がカイルの顔を見て、面白そうに首を傾げた。


「神様はいないっていう説も、俺は俺なりに筋が通っている気がする」

「……」

「だから調べてこようと思うんだ」

「調べる?」

「ああ」


 この砦に来た時、カイルは世界の広さを知った。砦に来る多くの商人、砦の周りの地理、東の世界、海の向こう。まだまだ知らない世界がある。


「もしかしたら、砦の外に調べに行くべき時が来たのかもしれない。神様がいるのか、いないのか。本当に見捨てられたのか。本気で調べようと思ってさ」

「砦の外だと?」


 カイルはニヤリと笑った。


「そうだよ。ジェル。砦の外だ」


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