第28番 安らかな眠りを
燭台に灯る火を消し、僕は畳に敷かれた敷布団の上に身体を横たえた。
寝室を照らす光は月光だけ。程よく暗く、また気温も最適。適度な疲労感もあり、瞼を下ろせばすぐに夢の世界へ旅立つことができそうだ。
まぁ、そんなにすぐ眠ることは叶わないのだけど。
「師匠、起きてますよね」
「流石に布団に入って数秒で眠ることはできないからね」
天井の木目を見つめたまま返すと、ゴソゴソと身体の向きを変える音を響かせながら、落葉は言った。
「いよいよ、明日ですね」
「そうだよ。君の成長を見せる時だ」
「……まだ、信じられない自分がいるんです」
横目で落葉を見ると、彼女は横たわったまま空に浮かぶ月を見つめた状態で続けた。
「何年もずっと一人で修行して、全く芽が出ずに嘆いていた落ちこぼれの私が、たった三ヵ月で龍奏を習得して、他の奏世師と戦うことになるなんて……師匠に出会う前の私が聞いたら、きっと嘘だと信じないでしょう」
「成長したのは、君が頑張ったからだよ」
「フフ……自分の指導のお陰とは言わないんですか?」
「僕が言うように見える?」
落葉が笑って首を振った。
「いいえ、ちっとも」
「だろう? そもそも、そんなことを言う人間は指導者失格だ。弟子の成長も成果も、全て当人の努力が齎したもの。僕がしたのは、ほんの小さな手助けだけさ」
「謙虚ですね。奏世師は傲慢でなくてはならないと言っていませんでしたっけ?」
「奏世師としての僕は傲慢だよ。でも、教育者としては常に謙虚でいないと、弟子はついてこないし、成長しない」
お前の成長も成果も、全て自分の指導のお陰だ。
そんな風に言う教育者の下では、誰も育たない。多くの者は褒められ、称賛されることで成長するのだ。努力を認められなかったら育たないどころか、離れて行ってしまう。
教育者は奢らず、謙虚に。
これは鉄則だ。
「私は……」
月を眺めていた落葉が、こちらを向いた。
「私は、師匠のことを救世主のように思っています」
「え、なんで?」
「暗い未来しかなかった私の人生に、光を齎してくれた人だからです」
柔和な笑みを浮かべて、落葉は続ける。
「師匠がいなかったら今の自分はいませんし、何より、この先の未来も酷いものでした。代表と当主の座は奪われ、双命家は取り潰され、一族全員が路頭に迷う。そんな未来も十分あり得ました。師匠は私にとって……いえ、一族にとって、希望の光なのです」
「大袈裟な……」
「大袈裟なんかじゃありませんよ。寧ろ、これでも表現しきれないくらいで……本当にありがとうございます、師匠。私に唄を教えてくれて」
「落葉」
僕は彼女のほうに顔を向けた。
「お礼を言うのは、まだまだ早い。今の僕たちはまだ、双命家の代表として位決めの儀に参戦することすらできていないんだから」
「そうですね。まずは明日、しっかりと勝ちましょう……師匠」
「うん?」
話している内に眠くなったらしい。
落葉は睡魔に襲われているようで、瞼を半分閉じたまま、僕のほうへと腕を伸ばし──。
「いつか、きっと……師匠のこと、教えて、くださいね」
「…………参ったな」
額に手を当て、僕は再び天井を見つめた。
僕の嘘は見抜かれていたらしい。当然か。あまりにも穴があり過ぎたし、少し考えればおかしな点にはすぐ気が付く。やはり、即席で考えたのが良くなかったらしい。
……まぁ、最初からいつまでも隠し通せるとは思っていなかったけど。
今はまだ話せない。
けど、いつの日か、僕の全てを話すことができる日が来たら嬉しい。
君が憧れる奏世師は僕なのだと、そう打ち明けることができる日を、心待ちにする。
「それは……いつかね──って、落葉?」
「……」
見ると、落葉は瞼を下ろして寝息を立てていた。
普段よりも幼く見える、可愛らしい寝顔。姿勢を戻す前に意識を闇に沈めたらしく、伸ばされた腕はそのままになっている。
「……おやすみ」
聞こえていないであろう言葉を口にし、僕は愛弟子のあどけない寝顔を少し眺めた後、瞼を下ろして眠りに就いた。
伸ばされた落葉の手を、優しく握り返したまま。
◇
「…………っ、ん──ぅ」
闇の底に沈めていた意識を浮上させた僕は呻き、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
真っ先に視界に映ったのは、木目上の天井だ。月光よりも明るい陽光が室内に差し込んでいるからか、眠りに就く前よりも鮮明に見えた。
どうやら、いつの間にか朝になっていたらしい。
外で泣いている雀の声が鼓膜を揺らす。また気温も上昇しており、布団の中にいると暑さを感じた。
いつもと眠っている部屋が違う。
僕は何でここで眠っていたんだっけ。というか、今は何時だ? 随分と長い間、眠っていたように感じる。
完全な覚醒前で朧げな意識と記憶。
それでも、僕は何とか頭を働かせながら、目元を擦ろうと左腕を持ち上げ──。
「ん?」
指に感じた違和感に、僕は首を傾げた。
「なんか……ぬるっとしてるんだけど」
具体的には、左手の人差し指と中指。
その二本が、指先から第二関節くらいまで湿っている。しかも水気とは違う。擦り合わせると確かな滑り気を感じる。
一瞬汗を掻いたのかとも思ったが、汗に粘性はない。
何だこれ。唾液か?
と、僕は指に付着した粘液の正体を考えていた──その時。
「……師匠」
声のしたほうを見ると、開け放たれた襖の前に、落葉が立っていた。
軽い運動でもしてきたのだろうか。彼女の肌には汗を掻いた痕跡があり、頬は赤く上気している。また着物が着崩れており、微かに乱れた息遣いも相まって、何だかとても色っぽい。
片手には、水で濡らした白い手拭。
おはよう。
いつもと違う雰囲気は気にせず、僕は落葉に挨拶をしようと片手を上げた──が。
「師匠」
再び僕を呼んだ落葉はフラフラと覚束ない足取りでこちらに歩み寄り、僕の傍で膝をついた。
そして、持っていた手拭で、僕の滑り気を帯びた指先を拭った。
「え、落葉?」
「いいですか、師匠」
もしかして、この粘液の正体を知っているのか。
と、僕が問いを口にする前に……落葉は光の消えた瞳で僕を見つめて言った。
「貴方は、何も見なかった……いいですね?」
「え、いや、でも──」
「いいですね?」
「あの、流石に……」
「い・い・で・す・ね?」
「……は、はい」
あまりの重圧に、僕は首を縦に振ることしかできなかった。
結局、あの粘液は何だったのか。
その正体は、今も謎に包まれたままである……。
宵月の奏者は世界を奏でる 安居院晃 @artkou
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