第27番 愛弟子のおねだりは断れない
屋敷の一室。
「兼雅の母──沖尼は、私の義弟の嫁だ」
俊陰様は緑茶の入った湯呑を口元で傾けた。
「……義弟。妻の弟は防人で、今は海岸沿いの防衛任務に従事している。屋敷には滅多に帰れず、必然的に、兼雅は沖尼が女手一つで育てた。無論、周りの助けもあったが」
「それが良くなったわけですね」
「結果的にはそうなる」
俊陰様は頷いた。
「沖尼は元々、貧しい農民の出自でな。地位というものに強い憧れを持っていたんだ」
「地位。つまりは、双命家当主の母親という地位ですか」
「そうだ。彼女を貶すようではあるが、沖尼は強欲だ。望んでいたものを手にすると、更にそれ以上のものを欲するようになる。当初は余裕のある生活を望んでいたが、次第に、権力をな」
「その強欲さが、虐待とも言える教育の根源ですね」
「その通りだ」
俊陰様は同情し、嘆くように首を左右に振った。
やはり、哀れだ。沖尼という女性は、自分の子供を道具のようにしか思っていない。愛情なんてこれっぽっちもないのだろう。自分の望む権力を手に入れるための、奴隷に過ぎない。
そんな母親の下に生まれたのは悲劇だ。
災難、不運としか言えない。
だが、それ以上に、兼雅の人生を悲惨なものにしてしまった原因は──。
「彼に才能があったことも、不幸ですね。それゆえに、親も本人も諦めることができなかった」
「あぁ。厳しい現実を言えば、多少人よりも才能がある程度では当主にはなれない。一線を凌駕するほどの、圧倒的な才覚と実力がなければな。幼い彼は、それを知らなかったのだ」
「それで、十何年も闇雲に……」
「棒に振ったとは言わないが、何の楽しみもない、苦痛に塗れた人生を歩むことになってしまった……だが、一番の不運はそれではない」
「え?」
「一番の不運は──同じ時代に、同じ家に、私の妻がいたことだ」
ハァ。
深い息を吐き、俊陰様は続ける。
「圧倒的にして絶対的。妻……夕雨は皇家に仕えた歴代の奏世師、その誰よりも素晴らしいとされた、正に最強にして最高の奏世師だった。彼女の存在が、彼には一番応えたことだろう」
「確かに……どれだけ努力しても辿り着けない者を見てしまったら、心の一つや二つ、折れても不思議じゃない」
「実際、心を折っていた。顔を絶望に染めていたよ……」
湯呑を置き、俊陰様は天井を見上げて言った。
「今でも鮮明に憶えているのは、妻の葬式だ。多くの者が妻の死を嘆き、悲しんでいる時……彼はどんな表情をしていたと思う?」
「……想像もできません」
「笑っていたんだ」
唖然とした。
「それは何とも……酷い話で」
「そうだな。当時の私も同じように思い、同時に怒りに震えた。愛する人の死を笑われたのだから」
でも。
俊陰様は少し笑った。
「怒るに怒れなかった。彼の事情は知っていたからな。自分に巨大すぎる劣等感を植え付けた者が消えたのだから、喜ぶのも仕方ない」
「だとしても、あまりにも場が悪すぎる気が」
「大きな感情は堪えられるものではない。思わず、溢れてしまったのだろうな」
苦笑し、俊陰様は僕に言った。
「だが、どれだけ苦労をしていようと、彼に代表と当主の座を渡すわけにはいかない。夕雨が『双子百合』の担い手に選んだのは落葉なのだから。明日は、頼むぞ」
「……俊陰様」
すぐに返答はせず、少しの間を空け、僕は尋ねた。
「……以前、貴方は僕に完膚なきまでの勝利をと言いました」
「あぁ、勿論憶えている」
「そのことについて僕は、兼雅の心を再び折り、奏世師の道から退かせるという目的があると推察しているのですが」
「見事。その通りだ」
「その場合、彼は……兼雅は、どうなるのでしょうか」
先ほどの会話を思い出す。
自分には唄しかない。これに人生の全てを捧げてきた。
兼雅はそんなことを言っていたが……仮にもし、彼を奏世師の道から退かせることができたとしよう。
その場合、彼はどうなる。
彼の、これからの人生は……。
「安心しなさい」
僕の不安と疑問に、俊陰様は微笑んで答えた。
「次に示す道は用意してある。君が心配する必要はない。遠慮なく──叩きのめしてやりなさい」
◇
俊陰様との対話から少し経った頃。
落葉の寝室にて。
「お父様とは、どんな会話をなされていたのですか?」
「兼雅のことを教えてもらっていたんだよ」
風呂上がりで湿った落葉の艶やかな白い髪を拭き、櫛で梳かしながら、僕は彼女の質問に答えた。
「彼の出自とか、家族のこととか、どんな教育を受けてきたのかとか。彼の半生をね」
「兼雅様の半生ですか……」
落葉は複雑そうに唸り、両腕を組んで言った。
「あちらは分家ですので、色々と情報は入ってきます。なので、彼が色々と大変な経験をされていることはわかっているのですが……どうしても、苦手です」
「まぁ、色々と酷いことを言われたからね」
「はい。少し怖いですし……何より、あの人たちが私を見る時の目が受け付けなくて」
「どんな目を?」
「なんていうか、私を見下している上に……怒りとか憎悪とか、そんな感情が宿った目です。特に沖尼様は露骨で、嫌なことも言われます」
「うわぁ、会いたくない」
僕は思わず顔を顰めた。
まだ直接顔を合わせたことはないけれど、もうわかる。僕とは確実に合わない人だ。
きっと、明日の決闘前には顔を合わせることになるんだろうけど……どんな目で見られ、何を言われるのか。今から嫌になってきた。
「師匠。私、明日が嫌になってきました」
「奇遇だね。僕もだよ……よし、いいよ」
髪を梳かし終え、僕は櫛を近くの箱に入れ、落葉に言った。
「明日が憂鬱なのは僕も同じだけど、だからと言って夜更かしするわけにはいかない。決闘に備えて、もう寝なさい」
「え!?」
嘘でしょっ!?
そう言わんばかりの声を上げた落葉は、襖の隙間から見える月の位置を確認した。
「まだ夜は浅いです! それに決闘は明日の夜なのですから、もう少し起きていたいです! お話したり、双六をしたりしましょうよ!」
「駄目。そんなことしたら夜通し遊ぶことになるだろう。それに普段よりは早いけど、もう十分夜は深まった。寝なさい」
「えー……まだ眠くないので寝れないです」
「なら、身体を横にしているだけでもいい。目を閉じていれば、その内寝れる」
「うー……じゃ、じゃあ、妥協して……」
一度言葉を止めた落葉は少しだけ頬を紅潮させ、僕が纏う衣服の裾を指先で摘まみ──おねだり。
「い、一緒に寝てください」
「一体何処が妥協なのか」
「だ、妥協ですよ! 眠くないのに眠るんですから!」
「眠れと言っているのは君のためなんだよ」
まるで僕が落葉に眠ってくれとお願いしているようだな。心外な。
僕は頭を掻き、小さな溜め息を吐いた。
「なんか君、日に日に我儘になっていないかな」
「し、師匠を信頼している証です」
「いや、そうなのかもしれないけど、もう少し自重というか、大人になれというか」
「あー、あー、一緒に寝てくれないと明日本気出せないかもなー!!」
「この小娘ぇ……」
棒読みに加えて、へたくそな口笛を吹いた落葉に、今度は盛大な溜め息を吐いた。
拒絶するのは容易い。一言『嫌だ』と言えばいいだけの話なのだ。突き放し、この部屋から出ればいいだけ。
しかし。
「だ、駄目ですか?」
「……」
不安と期待が入り混じる瞳。
これを見て、拒絶することのできる者などいないだろう。もしもいるとしたら、とんでもない薄情者だ。僕はそんなに冷たい男じゃない。
落葉の我儘は、僕にも原因があるんだろうな。
僕がお願いされたら断ることができないことを知っているから、彼女は頼み、甘えるのだ。
これまでの分を取り戻すように、沢山。
弟子に甘すぎるのは、明確な僕の欠点だな。
自覚した自分の至らぬ部分を反省しつつ、しかし、これを直すのは難しそうだと半ば諦めながら、僕は落葉の寝具の隣に、今夜自分が眠る布団を敷いた。
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