第26番 制限された人生
「誰の声だ?」
僕は聞こえた声に首を傾げた。
これまでに聞いたことのない声だ。この国に流れ着いてから、僕が出会っていない人のもの。怒気を孕んでいたようにも思えたが……。
この疑問に、声のしたほうを向いた智風が答えた。
「これは
「沖尼?」
「はい。兼雅様の母君です」
説明し、苦笑いを浮かべた。
「少々……いや、かなり個性的な方でしてね。情熱が強いというか何というか。私はあまり関わりたくない」
声が聞こえるほうを見る智風の瞳には、同情が宿っていた。
それは、兼雅に対して向けられたものなのだろう。今現在、この大きな声の持ち主と相対しているのであろう、彼へ。
「私はそんな弱気なことを言う子に育てた覚えはありませんッ!」
「──」
「敬意や品位など犬畜生にでも食わせておきなさいッ!! 貴方の役目は、あの落ちこぼれたちを倒し、双命家の代表になること。考えるのはそれだけで十分です」
恐らく兼雅も何かは返しているのだろうが、如何せん、距離が遠い。それに声量も小さいため、聞こえてくるのは沖尼という女性の怒号だけだ。明らかに俺たちを見下している、不快な声と言葉。聞いているだけで、僕は苛立ちを覚える。
「関わりたくないって理由、よくわかったよ」
「そうでしょうね。傲慢で不遜。地位も権力も、奏世師としての腕前も、特別なものは何も持ちえない。しかし分家とはいえ名家に嫁入りしたことで自尊心が肥大化し、自分を特別であると思い込んでいる大馬鹿者……彼女への印象は、こんなものです」
「大多数の人が嫌う、典型的な人間性の持ち主だね」
「えぇ……けど、彼女が本当に酷いのは──」
と、智風が何かを言いかけた時。
耳を疑う言葉が鼓膜を揺らした。
「一流の奏世師になるために、双命家の代表になるために、私は貴方のために様々なことをしました。暗い蔵の地下に課題を達成するまで閉じ込めたのも、失敗する度に身体を鞭で打ったのも、貴方が飼っていた雀の首を斬り落としたのも、全て貴方のためを思ってのことですッ! これまでの全てを無駄にしないためにも、必ず勝ちなさいッ! あの夕雨はもういないのですから!!」
僕は絶句した。
沖尼はあくまでも自分は正しいと言っているけれど……それは大きな間違いだ。そんなの教育とは言わない。虐待だ。子供を自分の望みを叶えるための道具としてしか見ていない。兼雅の扱いはほとんど、奴隷に等しい。
「典型的な毒親、というやつですよ」
智風は変わらず同情を宿した目を向けつつ、言った。
「彼は囚われ続けているのです。自由を奪われ、親の道具であり続けている。可哀そうでならない」
「……もしかして、貴方が兼雅さんと手を組んだのは」
「えぇ」
頷き、智風は視線をこちらに向けた。
「救ってあげたいんですよ。代表になれば、彼の努力は報われますから」
笑顔で、妙に軽い言い方。
それに違和感は憶えたが、僕は深くは追及しなかった。
気持ちはわかる。毒親を持ち、言いなりになり、暴力で押さえつけられ続けた不幸な彼に手を貸したいと思う気持ちは。
双命家の代表として、位決めの儀に出る。
長年の目標であるそれが叶えば、彼は確実に報われる。それは間違いない。
「必死、なのでしょうね」
不意に、落葉が呟いた。
「酷いことをした人とはいえ、親は親です。想いに応えたいと思うのは、多くの子供ならば思うはずですから」
「……確かにね」
同意し、しかし、と僕は首を左右に振る。
辛い人生を歩んできたことはわかった、自由を奪われていることも、強い想いを持っていることも。
でも、駄目だ。譲れない。同情で勝たせてやることはできない。
こちらも同じなのだ。約束と想いを胸に抱いている。負けられない理由がある。
しまったな。聞かなければ良かった。
兼雅の事情を聞いてしまい、僕の中に同情が生まれてしまった。少し、ほんの少しだけ、彼が報われる選択を考えてしまった。これはよくない。この不要な感情は確実に、自分の足を引っ張ることになる。
胸の内に生まれた、この邪魔な雑念。
これを取り払うためにも──。
「落葉。行くよ」
「え、何処へ?」
「兼雅のところ」
答えた僕は落葉への抱擁を解き、立ち上がった。
雑念を払うためには、本人と直接話をする以外にない。
腹を割って、宣言するんだ。
悪いけど、僕たちが勝つと。
「まさか、兼雅様のところへ?」
「うん」
「……そっとしておいてあげたほうがいいのでは?」
「嫌だよ。面と向かって話さないと、僕の中にある雑念が消えないから」
「我儘な」
「傲慢で強欲で我儘なのが、強い奏世師だろう」
砂利を踏み鳴らしながら答えた僕は智風から視線を外し、落葉を連れて、庭からは死角になっていた場所──声のした場所へと向かった。
幸いなことに、会話は既に終えられている。あの不快な声は聞こえてこない。
良かった。これで、本音で話せる。
安堵し、僕は微かな緊張を解すために一度深い息を吐いた後……視界の中央に映る縁側に座っていた兼雅に声をかけた。
「こんばんは、良い月夜だね」
「……笑いにでも来たのか」
「いいえ。ただ、怒号が聞こえたから」
僕が返すと、数秒を開け、兼雅はうんざりした様子で言った。
「いっそのこと、嘲笑してくれたほうがマシだ。同情は自分が惨めになる」
「笑えないよ。僕はそこまで酷い奴じゃない」
「…………フン」
鼻を鳴らし、兼雅はぶっきらぼうにそっぽを向いた。
話すことは何もないという主張は十分に伝わった。何処かへ行け。一人にさせろ。そう告げていることも、言葉にしなくてもわかった。
けれど、知ったことではない。
僕は自分のために、兼雅に話し続けた。
「貴方のことは嫌な奴だと思っていた。自分を特別だと思い込んで、他者を見下す狭量な人間だと」
「……間違ってはいないだろう。現に私は、そこの娘を下に見ていた」
僕が去らないと悟ったのだろう。
諦めた様子で兼雅は返し、横目で落葉を見やった。
やはり、数ヵ月前のこともあり苦手意識を持っているのだろう。
視線を向けられた落葉は逃げるように、僕の背後に隠れた。
「もう、下ではありません……」
それが精一杯の抵抗だったのだろう。
落葉は兼雅には聞こえないほどの小声で呟いた。
それは明日の決闘で証明しよう。
背後に隠れた愛弟子に僕も小声で返し、次いで、兼雅に言った。
「少しだけ、考えを改めるよ。貴方は……哀れだ」
「同情するなと言っただろう」
兼雅は僕を睨んだ。
「憐みは私に対する侮辱だ。私の人生を……全てを、貴様は愚弄する気か」
「そんなことは……」
「いいか。私は哀れなままでは終わらない。現状に甘んじるつもりは毛頭ない。明日、貴様らを打ち負かし、代表になる」
「何故そこまで固執する。傍から見ると……異常なほどだ」
「執着するさ」
自分の両手を見下ろし、兼雅は一度奥歯を噛みしめる。
瞳に、恐怖を宿して。
「私には唄しかない。奏世師として大成するために、人生の全てを捧げてきたのだ。時間も、経験も、夢も娯楽も家族も、あらゆるものを犠牲にしてきた。これで成し遂げられなかったら、双命家代表になれなかったら……私の人生は、全て無意味なものになってしまうだろう」
「それが、貴方が固執する理由?」
「そうだ。自分の歩んできた道が間違いではなかったと、自分の人生は意味あるものだったと証明するために──私は、貴様らを倒す」
強い意思と覚悟が見て取れた。
どうやら、僕たちは勘違いをしていたらしい。
兼雅は何も、母親の期待に応えようとしているんじゃない。何処までも自分のために、強制された不自由な生き方に意味を見出すために、自分を肯定するために、戦っているのだ。
何処までも、哀れな……。
先ほどにも増した同情心を胸に、僕は言う。
「貴方が歩んできた人生は哀れに思う。だけど、僕たちにも果たさなくてはならないことがある。悪いけど、手加減なんてできないよ」
「当たり前のことを言うな。寧ろ、手加減なんてしてみろ。決闘が終わった後、貴様を殺すぞ」
「それが聞けて良かった。心置きなく──貴方の世界を殺せる」
殺意すら混じった視線を真正面から受けた僕は微笑みを返した後、踵を返し、黙って話を聞いていた落葉を連れてその場を去った。
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