ナナの地へ飛ぶ
BOS(Boston Logan International Airport)を日本空輸008便が午前7時30分の定刻通りにその翼をアメリカの地から羽ばたかせた。
2人掛け席のチケットをナリアはリンドから渡されていた。
もう一つはリンドとカサーリアで、それ以外の同行者は中央席(3人掛け)の少し離れたところとなっていて、きっとリンドの気遣いなのだろうとナリアは感謝しながら受け取った。
天候は晴れで素晴らしい日和、スーツケースと共に大学運転手付きのバンへと乗り込むと窓際の席へと腰を下ろした。
窓からは喫茶店が見えていて、ラーナ女史とクックルスが楽しそうにお喋りをしているのが見える、やがて車が動き出すとこちらに手を振りあった。
見送りをすることは互いに初めての行為であり、後々とても驚き、憎まれ口を叩く友人の存在の有難さに感謝した。
国際線の出発カウンターで手荷物の手続きを済ませたところで、自らのパスポートを見つめ直してナリアは思わず焦りを見せた。Official Passportのままで日本へと渡航することを連絡していなかったのだ。前回のフィールドワークは連邦政府機関も関わる案件で、他の大学とも複雑な繋がりを持つ共同研究プロジェクトだった。必要に迫られて、カサーリア教授には幾度目かの、ナリアにとっては初めて公用パスポートを手にすることになる。
同行した連邦職員は『有効期限が失われそうになったら、通常への切り替えの手配を』と伝えられていたが、それ以降、渡航することもなかったのすっかり忘れており、そして職員はにこやかに微笑みながら『使用する場合は、私のオフィスへ連絡を頂ければ手続きしておきます』とも伝えてくれていた。
「ナリア、パスは大丈夫よ、リンドが電子も各所への連絡も済ませてあるわ、スマートフォンにメールが届いているはずよ」
立ち止まったナリアに気がついたカサーリアがそう言って声を掛けた。
「ありがとうございます、教授、リンド」
お礼を伝えてナリアは出国の自動ゲートの列へと並んだ。簡易的な審査を終え搭乗機の待つゲートへと歩いてゆく。
周りを歩く人々は多種多様の人種で、多種多様なお洒落をした人々が歩いている。これがアメリカなのだ。もちろん、ストリートの裏路地ので起こる酷いこともナリアは知っている。
でも、多種多様な人間がアメリカに住んでいることは確かだ。
国に軍人のように忠誠を誓うということもある意味では必要なのかもしれない。けれど、アメリカという国を愛して誇りを抱いている人々が集まっているのがアメリカだとも思う。もちろん、数多くの意見はあるだろうが、少なくとも国を無くせと国内から聞こえてくることはほぼ無い。
『国民が自立しているから国が富み、国民が寄生すると国は滅ぶ』
何かの論文にそんな当たり前の事が書かれていたのを不意に思い出す。まだ、アメリカは大丈夫だ、自らの意見を正しく発言できる機会は失われてはいない。
『ナリア、背筋を伸ばして!』
唐突にナナの厳しい声が耳に響く。
反射的にナリアの背筋は伸びた。思考に伴い前かがみより本来の位置へと。
『堂々としていれば意外と物事は動くものよ、勝った時も負けた時もね』
勝負やトラブルで負けた時などにナリアが愚痴を溢すとき、まず聞く前のナナの第一声は電話口でも隣に居てもこの2つの言葉だった。もちろん、ナナの背筋は常に伸びていてどんな時も格好が良く自信に満ち溢れている。理由を尋ねてみたことがあった。もともとのナナはそうではなかったらしく、農場に来ても暫くは小さく遠慮をするように生活をしていたらしい、だが、夫があるときその姿を咎めた。
『戦争に負けたのは君の国であって君個人ではない。君は何人にも、もちろん僕にも屈服する必要はないし、なにより、僕は凛々しくそして優しい君が好きだ。だから、イツマデモリントサイテホシイ、君は私の妻で命を懸けて守るから』
この翌日、ナナは夫の言葉に励まされて新しい家族と向き合い、そして今につながるのだと話してくれた。
『ナリア、ナナも沢山の失敗をしたわ。でも、それに臆することなく、背筋を伸ばして周りをみてごらんなさい。いつだってそこから新しいスタートを切ることができるのよ』
『でも、何かを言ってくる人がいるよ』
『もちろん、人間だって動物の一部よ、だから恐ろしい世界なの、相容れない人は必ずいるし、全員と仲良くするなんて絶対に無理なこと。誰かから何かを言われたのなら、それがあなたに役立つことなら聞けばいいわ。役立たないなら無視すればいい。そして最後の決断をするまでに心許せる人に相談をすること、一人で決めることは死期を早めるからね』
『人間も動物なの?』
『もちろん、牛や羊と変わらないわ、だって、生きているのですもの。でも、考えることができるのは人間の特権よ、良い方にも、悪い方にも。そして、それを判断するためには周りをよく観察することが大事、良い場所にいて、酷い場所には居ない事ね』
最後の言葉をナリアはとんでもないと思った。
けれど、今の歳になってからある程は理解ができている。酷いところに酷いままに留まることは決して良いことではないのだから。
「ナリア、大丈夫?」
「教授、大丈夫です」
ぼんやりとしながら歩いていた、そのためカサーリア教授が心配して声をかける、それに返事をしてナリアは背筋を伸ばして歩き始めた。そして姿勢を丸めて少し怯えながら歩く人を見かけた。きっとナナがこの国へとやって来た時と同じような感じだったのだろう。そして心細さや複雑な心境に思いを馳せ、すれ違ったあの人に良いことがありますようにと祈った。
航空機に乗り込み隣は空席という幸運に恵まれたナリアは、ふっと隣にナナが座っているような錯覚を覚えて頭を軽く振った。どうも、訪れると考えてからというもの奥底の記憶が良く思い浮かぶ。
何かの天啓なのかもしれないとナリアは思うことにした。
扉が閉まりアナウンスが流れる、シートベルトサインが出て、ゆっくりと歩みを始めたジェット機はランウェイを進んでゆく。若干の待機後に管制官のゴーサインが出たのだろう、滑走路を慌ただしく湖面を走る雁のように急加速を始め、胃の中がふわりと浮く気持ちの悪い感触をナリアにあじわせてボストンの街並みを眼下に見せつけた。
12時間のフライトの旅は快適だったと言えるだろう。
iPadとタブレットブックの2つの電源を入れて起動し、アプリで研究中の河川などのデータを確認てゆく、複数の関与しているプロジェクトのマネージャーや連邦政府機関からのメールをチェックしては的確な返事を送った。ごくまれに数通ほどカサーリア教授に転送されるべきメールが混ざり込んでいたので、送るべき相手とリンドへも転送をした。
没頭している時のナリアは周りが見えない。
のめり込んでしまうと外界をシャットアウトしてしまうからだ。だから、3回ほどキャビンアテンダントが機内食のことを訪ねてきて、3回目の語尾の辺りで気がついた。
もちろん、食事は満足のいくものだった。
食べ終えたナリアは3時間ほど更にのめり込み、成すべきことを成し終えて窓の外を見つめる。大きな主翼の先に綺麗な青空が海のようであり、綿菓子のような雲が泡のようにふわふわと浮いては流れていく。それをジッと見つめていると、やがて瞼がゆっくりと下がっていった。
夢を見た、ただの夢を。
ナリアは緑豊かな大河のほとりに立ちぼんやりと景色を眺めていた。
豊富な水量を湛える川は量を変えることなく、ゆったりとされどほどよく上から下へと流れゆく。空には大きな鳥が天高く気持ちよさそうに飛び、青空で気持ちよさそうに泳いでいた。足元はとても長い堤防で両端が見えぬほどだった、風がそよいでナリアの腰まであるグレーの長い髪を撫でるように揺らす。
流れの音、風の音、そして草の揺れる音、自らの呼吸の音、空の鳥の鳴声、それだけが響くだけの世界。
その心地よい世界でナリアは足元の草地へと腰を下ろした。柔らかな草の感触と折れた葉が若々しく香しい匂いを放つ。
「綺麗な川だわ」
率直な言葉が口を突くほどの透明度だった。
深度のある川なのにその水面の底が透けて見えていた。数多く泳ぐ魚たちがときよりキラリ、キラリっと輝いて宝石のようだ。キラリっと魚が光を強く反射して、その眩しさから思わず目をギュッと瞑る。
視界に闇が訪れる。
眩しさに目が慣れてくるにしたがって、瞼の膜を超えて光は入り込むはずなのに外は闇夜のように暗い。ゆっくりと瞼を上げると陽の光は消え失せていた。青空も飛ぶ鳥も、透明な川も、煌めく魚たちも、すべての姿が消え去っていた。真っ暗な空には低く雲が立ち込めて、いや、立ち込めているようだった。目の前に流れているであろう川は濁った黒い水を湛えて、恐ろしい叫び声を上げて流れている。雨こそ降っていないが、空は今にも泣きだしそうなほどの悲しみを抱えているようだった。
走る足音が聞こえてきた。
一人は逃げるような足取りで、でも、逃げることにためらい持っていた。
もう1人はそれを実直に追いかけているのではなく、追いかけているが相手の足取りがためらいを見せているのを感じては、落ち着かせようとでもするかのような足取りだった。
やがて二人は足を止めた。
逃げることを諦めた訳でも、追いかけるのをやめた訳でもない足音は、何か決意めいたものをナリアに印象づけた。
「…………(息継ぎをしながら話す男の声)」
「…………(拒絶するような女の声)」
「………!(否定する男の声)」
「………(悲しくも嬉しく泣く女の声)」
「・・・・・・・・・(この場に似つかわしくないほどの優しい男の声)」
「………(切ない女の声)」
「…(決意を宿す男の声)」
「…(決意を宿す女の声)」
内容までは聞き取れない、目が慣れてくるとやがて2人の黒いシルエットを見つけることができ、声から若い男性と若い女性ということは理解できた。
静かなる情熱の会話だったと思う。
話の内容は一切理解できなかったというのに、その声に籠る想いは痛いほどに伝わってきて感じ取ることができた。
そしてドンと地響きのような大きな炸裂音がした。
シュル‥‥シュルル…と音が空へと昇って行く、とても大きな花が空に咲いた。雲はいつの間にか晴れていて、その大きな花が咲くとやがて炸裂音が響き渡った。独立記念日にチャールズ川で打ちあがる花火よりも大きいそれは、やがてパラパラと音を残して闇夜へと消えていくとすべてが暗転した。
やがて座っている地面の感触が変化した。先ほどまでの柔らかな草の感触ではない、固い石の感触となる、水の流れは大河の濁流から深い谷間を流れ下るものへとなり、濁流は清流へと戻った。
木造の古いアーチ橋が数メートル先に影のように見え、相変わらず人物はシルエットで今回は年齢やましてや表情などをうかがい知ることはできない。
「…………(年老いた女の怒鳴る声)」
「…………(悲痛な中年女性の声)」
「…………(赤ん坊の泣き声)」
「…………(母親と思われる若い女の悔やむ声)」
「…………(年老いた女の怒鳴る声)」
橋の上のシルエット達は並んだままで動くことはなかった。
そして打ちあがってきた花火が空に大きく花咲いてさく裂する。花火が消え、シルエットが闇夜に溶けてゆく。ナリアはごつごつして冷えた感触のする岩の上で座ったままそれを眺めて、そしてその存在は世界から消えた。
「長らくのフライトお疲れさまでした。もう間もなく、当機は日本国成田国際空港に着陸いたします」
機内放送に起こされてナリアは窓から外の景色を眺める。いつの間にか深く、深く、寝入ってしまっていて、眼下には東京の夜景が広がっていた。
The Promise of Nana and Naria 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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