ナナの地へ向けて
大学に時間に余裕を持って到着するように心がける。
ベッドから抜け出し、綺麗に整えてから、歯磨きと熱いシャワーを浴びて意識を覚醒させる。そして少しのドライフルーツを摘まんでお気に入りのミネラルウォーターを飲み、身支度を整えて鍵を確認し姿見で確認したのちにナリアは住処を後にした。 ガラステーブルの上にこの部屋の合鍵を持つ親友に向けて『決して汚すな』と注意書きを残して。
早朝のランニングマン・ウーマンが出勤前の運動を熟している合間を縫うようにしてナリアはスーツケースを持って大学へと歩いてゆく。
下駄は最後に清潔なタオルへとしっかりと包み、荷造りですでに指定のスペースとなっていたところへ優しく収納した。そして一度は海を渡り終えた者を、時を経て再び海を渡ることに感慨深いものを感じた。それを手にしていた者は希望と不安を抱えていたに違いない(大小は違うかもしれないけれど)。
タクシーに乗って行こうかとも思ったが、静かなる熱を冷ますために歩いて行くことにした。外は暑さがやってくる手前で、まだ、許容できる範囲だ。
学術の街に溢れる学生達の群れを朝早くから見つけることができ、その中に混ざる。同じように旅立つものがスーツケースを引いていた。
顔見知りもいる大学フットボールチームの連中が少し先をブル・マラソン(ただ静かにすべての装備を身に着け、大地を踏みぬくように一歩一歩に力を込めてランニングする謎の行為、彼らはそう呼称している)を見つけたので『最悪、何かあっても叫び声を上げれば気がつくだろう』などとと甘い考えを抱きながら聖人になるために歩いてゆく。
早朝の風は……文学的な静かな朝を思考して迎えることができるだろうと思っていたが、手荷物のスマートフォンが絶えずその身を揺らし続けた。しかたなく開いて見れば、カサーリア教授より「今起きた」との短い文が悪びれもなく事実だけを公に布告しており、それに対してリンドはナリアが朝一番に自らに差し出された言葉だとしたら受けた傷の深さに失神してしまいそうなほどの言葉の一撃を浴びせる。けれど言われた相手は『私だから許される!!!』と声高々に宣言し通信終わりとなった。『!!!』の多さが誇りの高さを表すかのようでクスっとナリアは笑う。恩師で師匠はその道のベテランであり、この道のプロフェッショナルである。どんなことにも。
暫く歩みを進め、やがて、先ほどのやり取りがあまりにも馬鹿馬鹿しくなるという正しい判断に至り、ナリアは頭を空っぽにしてただ歩みだけを進めることにしたのだった。
フットボールチームが校門の中へ粛々とされと獰猛に突入していく姿を見つめては大学の塀伝いにゆっくりと歩いてゆく。門の警備をしている大学警察の馴染みの警官に挨拶をして構内へと入った。そのまま慣れ親しんだ道を引き続き歩き、昨日のメールに付随されていた動物園の横にある24時間営業のカフェに入った。
ぼさぼさの寝ぐせのままの髪をしてまさに床から起きたと言わんばかりの学生や研究徹夜開けのハイテンションな学生、女性研究者として最低限の身支度を整えて来ているレディーたち。数人の顔見知りの研究生と挨拶を交わしアイスカフェオレを注文するとカップを手に持つ、そして空いた窓辺の席へと腰を下ろした。
「あら、おはよう」
「ラーナさん、おはようございます」
見知った声に振り向くと動物園の清掃業務を一通り終えて、こざっぱりとしたラフな服に着替えたラーナ女史がコーヒータイムを得るべくやってきていた。
「さっき教授棟でシャワー室に走っていくカサーリアを見たよ。必死の形相だった。リンドの顔が思い浮かんだよ」
「お察しの通りです」
「通常営業だね、まぁ、昨日、スーツケースを運び込んでいる姿を見かけているから、少なくとも荷造りの心配はなさそうだ」
「教授が?」
「馬鹿を言っちゃいけない、リンドが、だよ」
何を言っているのだと言わんばかりにラーナ女史は屈託なく笑う。右頬に戦傷と思われるうっすらとした一本線のチャーミングな傷が見えた。
「気を付けて行ってくるんだよ」
「え?」
「旅さ、しっかりと気を持って旅をするんだ。良いことは素直に、悪いことはしっかりと考えて、そして災厄の場所に常にいることを忘れないように」
「そんな戦地に行くわけじゃ……」
「戦地と変わらないさ、いや、戦地よりも酷いかもしれない、何もわからない土地、何もわからない人間関係、なにもわからない祖母の生を受けてからの足跡、それをナリア、アンタは追って辿って旅をするんだ。どう転んだって良いことばかりということは無いだろ。それこそ、アンタの研究分野と同じことさ、穏やかな川が突然荒れ狂うように、木の葉を水が弄ぶように。だから、気をしっかり持って踏ん張ってくるんだよ」
優しい目の奥に厳しさを湛えたラーナ女史のレッドアイがナリアを映し出していた。それは予言のようでもあり、当たり前の未来のようでもあった。
「その通りね……。未知の領域への旅だもの、気を引き締めていくわ」
ラーナ女史の目が満足気になる。ナリアは深く頷いて再び意思を伝えた。
「日本に行くの?」
突然、背中を軽くパシンと叩かれる、背中のなんと言ったらよいのだろうか、ベストに痛い位置、東洋のツボと呼ばれる辺りを上手に、狙ったように叩かれていることは間違いない。
ラーナ女史は視線を逸らして珈琲を一口飲みながら我関せずと言わんばかりに窓から外を眺めはじめていた。
「なんでウチの大学の喫茶店に来てるのさ」
猫が背中と尾を立てて威嚇する声のように、トーンを落として白磁の金髪女に振り返って柔らかに睨みつける。私の威嚇に驚いた周囲が、やがて女はムッとして、周囲の男達は色めいた視線をその相手に向けているのが嫌でも分かった。
ボストンは学術の街だ。だから、数多くの大学がある。
MITやハーバード、そしてBU(ボストン大学)NU(ノースイースタン大学)などなど、そして名門で名高いバークリー音楽大学も又しかりだ。フルート奏者で実力と美貌を兼ね備えたヴィーナス、今、まさにナリアが威嚇している女性、それがクックルスだった。同い歳で180センチと同じ身長、体重は彼女の方が軽い、これは間違いない。小ぶりな腕、小ぶりな胸、小ぶりなお尻、そして美しい指、その指と共にフルートが鳴動を始めると、ハーメルンの笛吹の魔術でも描いたように皆が酔いしれ意識を導かれる。まったくお互いの専門分野は違って袖を擦り合わせることどころか、町ですれ違うくらいの関係でしかないはずなのに、2人は大学入学の年にバーで知り合って、互いに憎まれ口を叩きながらも関係を続けていた。
最初の話のもめ事となったのはろくでもないほどに愚かなことで、されど大変に重要なことだった、ナリアはフランクリンパークの動物園が大好きで、クックルスはニューイングランド水族館が大好きだった。陸と海の争い、大変な不毛さだ、ウェスト・ポイントがアナポリスの『ビル』を拝借しにゆくようにナリアは常に優勢ではあったけれど、『ラバ』をベストタイミングで失うこともある。
「銀色棒の魔女さんが何の用事かしら?」
「水辺の読書女が寂しそうだったから見送りにね」
ラーナ女史は知っている、ふたりともそれなりに教養もあるし、それなりに羨むほどに綺麗なのに、この二人がセットになるとデーモンコアのようになってしまう。しかも、会話の知能と内容は酷い時には5歳児あたりまで退行し、そこにアルコールが入っていくと、ボキャブラリーのない口喧嘩の罵り合い辞典ができあがるのだ。
ただ一つの救いは2人ともラストペーパーのようなプライドは忘れずに、互いの家のどちらかでソレを行う、そしてレフリーとして毎回付き合わされるのもラーナ女史だった。
「昨日、ラーナから聞いたのだけど、本当に日本に行くんだよね」
「ええ、そうだけど……、なに、どうしたの?」
普段ならもう少し探り合いのための軽いジョブを投げかけ合うはずなのに、クックルスのいつもの元気は鳴りを潜め申し訳なさそうな顔をして、何か言い出すのを躊躇っている、まるで『トイレ貸して』と言いたげな時のような仕草だった。
「なに?何か頼みたいんでしょ?いいわよ、受けてあげるわ」
内容も聞かずにナリアはリングに上がった、もう、負けも同然だった。
「岐阜に行くんだろう。カサーリア教授に聞いたけれど下呂だって言っていた。この手紙を下呂市内にある辰巳旅館にいるリタに渡して欲しい。ついでに様子を見てきて欲しいんだ」
「あのリタの?」
カラフルなレターを差し出されナリアはそのまま受け取った。そして懐かしく羨むほどの情熱の人に畏敬の念を抱く。
「ああ、あのリタだよ」
クックルスは少し寂しそうに言い窓の外を眺めた。ナリアもまた同じように外に視線を向ける。
リタ・ストルテンベルグ・日笠は優秀なフルート奏者で、そして今はラーナ女史が収まっている場所は常に彼女が居た。演奏の腕前も感性も2人が思わず耳を傾けてしまい、窓の隙間から漏れ出でた音に道行く人が立ち止まってしまうほどの才能を持っていた。けれど、音楽大学の卒業式を終えた夜にボストンを発った。楽譜のような数年越しの恋慕をせきららに綴った手紙を残して。もちろん今も親交がない訳じゃない、メールもするし電話もする。年上の女顔の男とのツーショットも送ってもらった。
「リタになにかあったの?」
「いや、なにもない。でも、直に会えていないから心配なんだ。過保護かもしれないけれど、大切な後輩で才能を羨むほどの奏者だから、メールや電話のどおり仲良くやっているのか、ナリアの目で見てきて欲しい」
「それは……」
クックルスの気持ちは痛いほど分かる、自分も同じなのだ。いくら大丈夫だいと聞いて信じていても、親密さが高ければ高いほど数年会っていないと本当に大丈夫なのだろうかと不安になる。あの才能と人柄を大切な友人を失いたくはない。
「分かった。でも、なんで旅館なの?」
「そこで定期的に演奏会をしているらしい。後は、どこかの長ったらしい名前の都市を起点に海外でも演奏をしているらしいけれど、7月から9月の初めまでは必ず日本国内でその旅館で演奏しているのさ」
「分かったわ、探して渡しておく」
手荷物のバッグにあるクリアファイルに手紙を挟み込んでしまう。それをしっかりと見届けたクックルスはナリアに深く頷いた。
「そろそろ時間だろ、行かなくていいのかい?」
ラーナ女史が窓の先を指さした。リンドやケビン、そして他の自主参加する学生達の数人が窓の先に見える動物園の前に集まり始めていた。
「ああ、行かないと、じゃぁ、2人とも行ってきます」
「ああ、気を付けて行ってくるんだよ」
「お土産はセンスを疑うことになるわ、しっかりと選んできて、いってらっしゃい」
アイスカフェオレを飲み干してスーツケースを手に取り、店を駆けだすような軽やかさで出て行くナリアを2人は見送った。
「心配して頼んだんだろう」
「なんのこと?」
ラーナ女史の言葉にクックルスは微笑むと男性の店員にウインクして、珈琲を持ってこさせた。あざとい女だとラーナ女史は呆れる。
「大切な親友の、大切な旅なの、酷い結末だけは許さない」
窓の外をみんなの元へと走ってゆくナリアの後ろ姿を見つめながら、クックルスはそう口から漏らし、ラーナ女史は優しく頷いたのだった。
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