ナナの故郷とは

 アパートに戻ったナリアは愛用している歴戦の猛者の傷を持つ大型のスーツケースを荷物整理するためだけに使っている部屋から引っ張り出すように持ち出した。そして前回のフィールドワークから4カ月ぶりとなる荷造りをした。

 そして研究室を出る直前にでカサーリアではなくリンド宛に教授を差し向けてくれたことについてのお礼と若干の嫌味と、現地で祖母の足取りをたどりたいので、学会後に一週間だけ日本に滞在したい旨を連絡しており、その返事が帰宅直後に届いていた。それは「No problem」(問題ない)と彼らしい簡潔な題名つきでナリアを安心させる。

 部屋のリビングには存在すれど使われずとなっている古い暖炉がある。シャーロックホームズの挿絵に描かれていたような暖炉でとても気に入っていた。その脇にガラス張りの180センチの身長とほぼ近い高さのショーケースが置かれ、中にはナリアの人生を彩ってきた『宝物』が数多く飾られていた。

 母から初めてプレゼントされたイヤリング、父から大学入学時に貰った機械式の腕時計、幼い頃よりずっと離れることなく手間暇をかけて大切にしている小さな動物人形達、そして射撃競技での優勝メダルと愛用の6連式コルト・リボルバー拳銃が置かれている。そして一番上に輝く宝石のように飾られているのが、大学の机にも置いてある二人だけの写真とナナの下駄だ。この部屋の窓よりも頑丈な鍵と防犯ガラスに守られ湿度管理システムの入ったケースの鍵を開けて写真のナナに微笑み、そっと下駄を手に取った。近くのソファーに腰を下ろして両手で大切に持っている下駄をじっくりと眺めた。

「いつみても素敵だわ」

 そう言葉を漏らしてしばらく背をゆったりとソファーに預けてナリアはじっくりと下駄をじっくりと眺めていた。やがてスマートフォンが着信メロディーを奏でる。音楽はクラッシックで、母親の大好きな曲名だったから母からだとすぐに分かった。

 下駄をソファー前のガラステーブルにゆっくりと置いてナリアは電話を取った。

「ママ?どうしたの?」

 電話を掛けてくることは珍しいことだ。いつもならメッセージでやり取りをするだけなのに。

『ナリア、怪我などはしていない?大丈夫?』

 少し焦りを伴った母親の声に思わず驚く。そして農場に引っ越して自宅となったナナの家で、ナリアに関わるものが壊れたか、もしくは割れたか、不吉な事があって心配のあまり電話をしてきたのだと直観的に悟った。

大雑把な性格なのに、チョイスしたようにオカルトのような迷信を偶に気に掛ける母親の性格にナリアは何度振り回されたことだろう。

「大丈夫よ、ママ、怪我も何もしていないわ、ところで私の何かが割れたの?」

『落ち着いて聞いてね、その、机の上に飾ってあったカップを……』

「○○○○〇(母親に対してティーンが言いそうな酷い罵声)!、あれほど触らないでって言ったじゃない!」

 頭へと瞬間的に血が巡り心がかき乱されたのが良く分かった。

 きっと部屋の換気でもしようとして何かヘマをしたに違いない。そうでもなければ私の部屋には入ることは無いのだから。そして残してきた机の上、固いアクリルケースの中にはナナの使ってくれたカップ……。陶磁器でできたそれはユノミ(湯呑)というらしい。晩年、老化と持病となった腰の病のためベッドで寝ていることが多くなったナナのために私たち家族は農場に引っ越したのだ。

 ある日のこと、ナリアに小声で『湯呑で飲みたいわ』とナナは日本語で漏らした。最初は何を言われたのか理解できずにきょとんとした私の顔を見て、ナナはそれに気がついて苦笑し、そして英語で言い改めてからカップだけをユノミと日本語で言った。

 ナナを外へ買い物に連れ出すことは難しく無理があったし、街にはそんな店は殆どなかったし、売られているものはメイドインUSAかメイドインChinaがほとんどだった。

 だから、持っていたiPadでインターネットショッピングのページを開いて見せることにした。ナナの希望を聞きながら探しているが私の検索の腕前は悪く中々にお目当てのものを探し出すことができない。ふと、ナナが近くのメモを手に取ると付随している鉛筆で日本語の文字を書いた。『郡上八幡』『春日陶器店』と。日本料理店のメニュー表にでも書かれていそうなほどの読みやすい文字の説明しようとしたナナにナリアは微笑んでから文字をカメラで撮影する認識機能で変換してから、紙の文字と照らし合わせをして間違いがないことを老眼鏡をかけたナナに確認して貰い、インターネットの検索に掛けた。数件のホームページがヒットした中で、ナナはあるページをチョイスした。日本語オンリーのホームページだったが、ナナは懐かしいそうに写真と文章を読み、そしてネット販売されている陶磁器の中から時間をかけてひとつを選び出した。

「これを買ってくれる?」

「任せて」

 私は翻訳機能を使って何とか注文を実行してゆく、さまざまな誤変換を頭の中でつなぎ合わせてどうにかクレジットショッピングを終えた。

すべてが完了したことを伝えるとナナはとても嬉しそうだった。2日後にその件の「春日陶器店」からスマートフォンへ国際電話が掛かってきて、ナリアはひどく驚いたものだ。81+から始まる番号に心当たりはなかったが、81の番号が日本であることは注文した際に記憶の中に残っていたのだ。英語表記のない店からの電話に少し恐れを抱きながら受話をタッチする。

『こんばんは、ナナミ・フィロンフォ・スローフさんでしょうか?』

 身構えたことが馬鹿馬鹿しく思えるほど、あまりに拍子抜けするほどに流暢な英語がナナの名を呼ぶ。声色は若く、ミドルクラスの学生のような印象だ。きっと時差のため日本では夜なのだろう。

「ごめんなさい。孫のナリアです。番号は間違いないので大丈夫よ」

 英語の不得意な同級生に話すように、ナリアはゆっくりとした英語で返事をする。

聞き取りやすいように優しく聞こえるように。

『よかった。お孫さんなのですね、私は春日陶器店の者です。両親が国際注文を疑ってしまって、本当かどうか確認してほしいとで失礼とは思いますがお電話してしまいました』

 素直にすべてを白状するところは若い証しだ。そしてその率直な物言いをナリアは嫌いではなかった。

「気にしないで、初めての事なら仕方ないことだもの。でもこれで安心ね。無事に発送してくれるかしら?」

『もちろん、すぐにご用意してお送りします』

「ありがとう。そうだわ、せっかく電話を頂けたのだから、ちょっとだけ我儘をお願いしてもいいかしら?」

『叶えられる範囲なら、できると思いますが……』

 声のトーンが少し下がり訝しむようなものになる。感情そのままの素直な言葉にナリアは更に好感を抱いた。

「そんなに警戒しないで。その、祖母は日本生まれなの。あなたのお店を指定したのも祖母で、その地名を書いたのも祖母なの。無理のない範囲でいいのだけど、付近の観光スポットのパンフレットを入れておいてくれるかしら、品物の緩衝材もありったけの新聞を丸めて詰め込んでくれたらすごく嬉しいわ。追加料金が必要なら支払うのでお願いできるかしら?」

『両親に相談してみますね』

 要望を伝えているのだろう、日本語での会話が受話口から漏れ聞こえてきた。意味は分からなくとも困惑しているというよりは喜んでくれているような口調だった。

『可能だそうです。追加料金はないので大丈夫です。指名してくれてありがとうございますと両親がナナミさんにお伝えくださいだそうです』

「必ず伝えます、こちらこそありがとう、では」

『ハイ、アリガトウゴザイマシタ』

 最後の言葉は日本語で締めくくられて電話が終わる、きっと店の手伝いをよくする優しい男の子に違いない、そして日本では話の締めくくりはその言葉でいつも終えているのだろう。

 やがて国際航空郵便で届いた荷物には沢山のパンフレットと、そして沢山の地方紙の新聞が緩衝材ではなく綺麗な状態で入っていて、ナナは湯呑と同じくらい喜んでくれていた。

 そんな懐かしい思い出に癒されて、いや、諭されて、再び母親に若干の怒りを抱えながらも、ナリアは極めて冷静に、きっと冷静だと思うけれど、言葉を紡いだ。

「で、ママ、湯呑は割れちゃったの?」

『割れてないわ、ケースの中でコトンと転んだけよ、パパが綺麗に直してくれたから、安心して良いわよ』

 その言葉に怒りが蠟燭の灯を消すかのごとく立ち消える、そして、心が安堵で満ちてゆく。

「良かった……。酷いことを言ってごめんなさい」

『いいのよ、ナリア。貴女は本当にナナの事が大好きだものね』

 呆れたように母親はそう言ってナリアは恥じ入った。大好きだから故に大切だから故に我を見失ってしまう、ナリアの悪い癖だったし、親であるが故にそれを十分過ぎるほどに理解していた。

「でも、本当に大丈夫よね?」

『ええ、大丈夫よ、パパが震えながら直していたわ』

 苦笑しながらそう言って不安を消し去ってくれた。父親が直してくれているのなら、失礼な話だけど大雑把な母親よりは安心できる。

「そうそう、私、明日から学会で日本に行くことになったわ」

『日本に?急な話ね』

「そう、急な話、急に知らされて、急に行くことになったの」

『そうなの、何かいるモノはある?』

「明日には出るのよ、今からじゃ間に合わないわ」

『ふふ、そうね。で、どこへ行くの?』

「場所は、ちょっと待って、確認してみるわ」

『本当に学会なの?誰かいい人と旅行なんじゃない?』

 行先も分からない娘に苦笑した母親が、そう言って揶揄ってくる。いや、ボーイフレンドの1人すらいない事について、両親が心配していることは確かだ。付き合った記憶もなければ、付き合った人もいない、今だ生娘のままで、でも、ちょっとだけそれが誇らしくもあった。

 誰がなんと言おうとだ。

「いないわよ、居たら真っ先に紹介するわ」

 資料の封筒を手元に寄せて中身の学術大会案内の裏面を見た。岐阜県下呂市と漢字の下に英語でGero city Gifu prefectureと書かれている。

「下呂市というところらしいわ」

『ああ、そこなら聞いたことあるわ、隣のマーナが日本旅行でお土産くれたもの。オンセンに入ったって言っていたわ』

 数キロ先に住むご近所のマーナさんは旅行好きで、夫を残しては良く機上の人になっていることで有名だった。

「ねぇ、ママ、ちょっと教えて欲しいの」

『なに?』

「学会が終わったらナナの生まれたところを訪れてみたいの。ママならナナが日本のどこに生まれてどこで住んでいたか知っているでしょ?」

『ナナの生まれたところね……。実を言うと私は教えてもらっていないし、聞くこともしなかったのよ、いえ、幼い頃に一度だけ聞いたことがあるわ、でもナナは言わなかった。水の綺麗なオレゴン州の片田舎が私の生まれたところだって断言するように言ったわ』

「でも……」

『ナナの性格だもの分かるでしょ?その時のナナの周りには誰も居なかった。私とナナだけ、ベッドの上で絵本を読んでもらっている時に尋ねて、ナナはそう答えた。私は小さかったけれどナナは真剣に言っているのだと理解できたわ、だから、それ以降、一切聞いていない。亡くなったときの色々な書類を見たけれど、ナナが入国し帰化した当時はいい加減だったみたいで、出生地は大雑把に日本としか書かれていなかったのよ』

「そうなのね……。ということはナナが亡くなったことも知らせてないってこと」

『ええ、そのとおり、遺言にもなかったわ。亡くなったことを知らせた日本人と言えば一人だけ、覚えているかしらヒッチハイカーのタナカさん、農場で2年近く働いたあのタナカさんだけよ』

「ええ覚えているわ」

 タナカさんはヒッチハイカーの女性だ。

オレゴン州の片田舎の更に田舎道で空腹による栄養失調と動けないことで酷いことされ、あろうことか道に打ち捨てるように行き倒れていたのを農場で働いていたミッチマイヤー夫妻に助けられた人だ。ミッチマイヤーの旦那さんが太く立派で子供が数人ぶら下がることのできる立派な腕に、野犬のように瘦せ細った女の子を横抱きにしてナナの家に駆け込んできた。私はその時ナナと遊んでいたからよく覚えている。あの、秘密の約束の暫くあとのことだったから。

温厚で優しいミッチマイヤー夫人は彼女の裂けた小さなリュックサックとボロボロの上着を悲しそうに持っていて、私がそれに手を伸ばすと触ってはいけないと注意されたのも覚えている。なので、タナカさんが何かとんでもないことに巻き込まれたことは確かだった。シェリフのバックターナー保安官がナナの呼び出しにひっそりとやってきて、酷く混乱してたどたどしい英語すら話すことができなかったタナカさんの通訳をナナが行い、そしてやってきた救急車で街の病院へと共に向かっていった。

 農場の男達と獰猛だけど私には優しかった飼い犬たち、そしてショットガンやハンドガンを持った保安官と応援の人達は広大な農場の畑をまるで西部劇のワンシーンのように大きな松明を掲げて隙間なく捜索し、畑にコソコソと隠れていた愚か者たちを見つけ出しては滅多打ちにして保安官に引き渡して、普段のにこやかな笑顔を失った保安官とバッジを下げた者達が恐ろしい形相でバンへと、まるで荷物でも載せるように投げ込んでいくのを窓辺からずっと眺めていた。

 すぐに帰国できる状態でなかったタナカさんは病院にしばらく入院し、そして農場でしばらく静養しながら過ごすことになった。やがてリハビリのために働いて心身ともに健康を取り戻すと元気よく帰国していった。

 遊んでもらった時は折り紙を教えてくれて、最初にツルという鳥の折り方を教えてもらった。図鑑で調べた本物の鶴と折り紙のツルがあまり似ていない事を指摘すると、田中さんは足の生えた鶴を折ってくれて、それ以外にも数多くの折り方を教えてくれた。今も覚えているのはツルの折り方で、それ以外は記憶のどこかに消えてしまっている。

『そう、そのタナカさんに亡くなったことを告げる郵便を送っただけ、でも、そうねぇ、彼女なら何かを知っているかもしれないわ、ナナと日本語で何やら話していたもの』

「タナカさんのアドレスは分かる?」

『手紙の返事が来ていたはずだから、取ってある郵便物を探ってみればわかると思う。すぐに調べて連絡するわね』

「ありがとうママ、凄く助かるわ」

『良いのよ、ナナを大切に思ってくれていることは、娘の私としても母親の私としても誇らしいことだもの、さて、準備しなきゃいけないでしょ。きちんと食べてる?きちんと寝なさいよ』

「もちろん、食べることも寝ることも大丈夫よ。じゃぁ、日本に着いたら連絡するわ」

『気をつけて行ってくるのよ、必ず、帰ってらっしゃいね』

「うん」

「じゃぁ、サヨナラ」

「はい、サヨナラ」

 我が家というよりは農場に勤めていた者なら最後の挨拶はこの言葉で締めくくる。唯一、農場で公用語として使われていた日本語だった。

 電話を切りユノミが無事であったことに安堵してナリアは荷造りを始めた。季節は7月、日本も同じ北半球に位置しているから季節はそれほど変わらない。大学と住処のあるマサチューセッツ州・ボストンとの時差は13時間ほどであちらの時計は進んでいる。それくらいなら体には問題ないだろう。学術大会誌の日程メニューを見ても今回は招待されてはいるが、演題が必要でもなく、また、挨拶の講演もないことにナリアは本当に安堵した。今から準備をしろと万が一言われてしまえば飛行機の中で地獄を見る羽目になるのだから。

 しばらくしてクラシックの音楽が二小節ほど流れてから途絶えた。母親からのメッセージだ、私はスマートフォンの通知欄から最新の連絡を開く。

[葉書があったわ、写真を撮って送ります。もし、会えたらよろしく伝えてね]添付されファイルが開かれる、そこに封書の裏面の写真があった。

[岐阜県下呂市○○○○丁○○番地]

 学術大会のパンフレットと見比べてみる、県名も市名も間違ってはいない。漢字は全く同じで詳しい住所まで書かれていた。

[すごい偶然……ありがとう。行ってみます]

 返事をして荷物を日程分だけ詰め込み、手荷物回りの必要なモノ一式を愛用のカバンへとiPadのチェックリストで確認をしながら入れ、すべての準備を終えた。

そして暑いシャワーを浴びてからベッドでぐっすりと眠りにつく、心を躍らせながら眠ると久しぶりにナナの夢を見たのだった。

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ナナの秘密 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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