ナナの故郷へ

 卒業したのちもナリアは大学に残り精力的に研究を続けていた。

 ナリアの専門分野は河川と水の研究で、日々、フィールドワークの調査をしながら世界各地を訪ね歩いては論文を記し、そして論文寄稿などにも取り組み若いながらにその分野では一定の評価を得るまでになっていた。

祖父と共に開墾に精を出して生き抜いた祖母譲りではないかと母親が呆れかえるほどの粘り強さで他の研究者より頭一つ抜きん出ている。

 また、学内の若手研究者のまとめ役として重宝もされていた。

 広大な大学の敷地に創立初期に建てられた洋館、古くなり解体費も馬鹿にならないと情けない理由だけで放置されていた蔓塗れ埃塗れの小さな旧事務棟を立て直したのだから。

 その埃塗れだった石造りの旧事務棟を若年の研究同期生と別学部の若年研究生と共に使えるように設備を整えて、半ば強引に占拠してから大学が渋々使用を認めて数年が過ぎていた。

 清掃は放置された年月が長すぎて困難を極めたが、そこは研究職ばかりの連中が集まったこともあって、好き勝手に汚れをそれぞれの方法で除去していた。もちろん、やり過ぎたこともあった。建設学科の学生が木製の歴史ある古びた階段を近代的なステンレスの階段に作り替えようと電動のノコギリでぶち壊そうとして、大学施設課に長年勤務している大柄な黒人男性のジョンソンと建物の歴史と景観と彼の半生を巡って険悪なムードになったりもした。だが、建築学科の学生は歴史を軽んじるような浅はかな人間はいなかった。険悪になったジョンソンの下を何度も訪れては修理の方法について相談し、そしてそのための予算まで学長の自宅に押し掛けて直訴するという若さにモノを言わせる突撃精神で認めさせた。だから3階立ての古い石造りの建物は今でも外観も歴史あるライブラリーのようであるし、館内も歴史の輝きを纏う木製の階段と廊下のままだ。

 建築学科の連中の唯一の悪戯は階段の壁両面にステンレスの鏡板を張り付けて合わせ鏡のようにして、来客たちを驚かせたことと、数人の学生に「ガチで幽霊が映る鏡だ」などと吹聴して腹を空かせて研究室に飛び込んでくる貧乏学生達の数を抑えることに貢献した。(やってきた学生に施しを与えるのは研究者の伝統になっているから、それを目当てに現れる不届きものをkillするにはもってこいだった)

 無事に建物の運用が始まって数日するとある部屋を除いて荒れ放題となってしまったけれど。

 片付けのできない他の部屋と違い、私の部屋は綺麗に整理整頓されており、毎日の掃除も欠かしたことは無い。『部屋はいつでも綺麗にしておきなさい。それこそ誰が今すぐに訪れてもいいように、良いわね、ナリア、約束よ』幼い頃に交わしたナナとの約束は破る訳にはいかない。ナナの部屋は晩年まで恐ろしいほどに綺麗で塵1つなかったのだから。

 大学より遣わされた清掃人のプロフェッショナルである年老いたラーナ女史(一説にはアナポリス出らしい)が『この部屋はまるで教会だわ、他はパンデモニウムよ。』と驚嘆するほどなので、他の部屋はよっぽどの惨状なのだろう。共用スペースの廊下についてはラーナ女史の絶対防衛圏として日々目を光らせているので綺麗であることには感謝しかない。

 この建物の中で綺麗で学者風の部屋はここしかない、だから、ときより雑誌のインタビューのために別の研究者が部屋の利用申請を私にしてくる。建築や化学、そして歴史学までのありとあらゆる研究者が利用して、その姿の写真が雑誌に乗る度に威厳を示すような本棚に並んだ書籍が水や河川の専門書ものばかりであることに誰か疑問を投げかけるものはいないのかと思うのだが、背景などはそれほど気にされてないらしい、そして、どうやら部屋の使い心地は良いらしかった。

 私はほどよい利用料を受け取り、その貸出金でラーナ女史と大学構内のカフェでお茶やランチを楽しむこともできるので不満もない。

 研究者の部屋が汚いので教授陣からは(彼らには秘書も居れば学生を片付けや清掃の手伝いに駆り出せるので常に部屋を清潔に保てるのだが)汚れにまみれたこの建物のことを「動物園」と称していた。

「ナリア、ちょっといい」

 そんな建物に人一倍清潔好な、それでいてフィールドワークでは泥に塗れて嬉しそうに笑うカサーリア教授がわざわざやって来て、個室をノックして声を掛けて来ていること自体、よほどの要件なのだろう。

「動物園にようこそ、教授、お茶でも如何です?植物学科の連中のお手製ですけど…」

 私は立ち上がって彼女を部屋の応接椅子に誘った。

「植物学科って……やばいモノじゃないわよね?」

「本人たちは真っ当な茶葉と言っていましたけど……」

「不安しか残らないわね。遠慮させて頂くわ。まだ、やり残したことは多いし、臓器は若くないもの」

 椅子に腰かけることもなく、カサーリア教授は手に持っていた大判の封筒を差し出してきた。

「今回の学会なのだけど、日本で行うそうよ」

「トーキョーですかオオサカですか?」

「ノン、なんかどこかの地方都市らしいわよ、そんなことをリンドが言っていたわ。で、あなたにも正式な招待状が来ているの。前の論文、評価よかったものね」

 リンドはカサーリアの専属秘書だ。

有能な男性でカサーリアの面倒とボーフレンドで心の弱い男性研究員のケビンの世話を焼く立派な人物である。いい加減なカサーリアが20歳も年下のリンドにヘマをしてこっ酷く怒られ縮こまっている姿を何度も見ていた。だから、彼女が封筒を持って動物園に直接足を運び、そして私に内容までを告げていることを考えると、きっとリンドに怒られ、そして指示されたのでやってきたことは容易に想像できてしまった。

「ありがとうございます、嬉しいですね。出発はいつですか?」

「そうそう、学会に関わる予算も教務課から分捕って来たわ、だから崗年の問題は気にしなくていいのよ」

「それは嬉しい!飛行機のチケットも申請しないと…」

「大丈夫、その辺はリンドが行ってくれている、もちろん、ファーストクラスではないけれど、良いわよね」

「もちろんです、教授。至れり尽くせりで助かります。で、出発はいつですか?」

 三度の問いかけにカサーリアの顔が引きつり立ち止まった。

 言いたくないことは最後まで言いたくないのがこの人の悪い癖だ。少しの間があって申し訳なさそうに、いや、これは捨て台詞に近いだろう。

「明日よ、明日」

「明日!?」

「そう、荷物を整えて朝の6時に大学に集合して。以上、教授の連絡は終わりよ、異論は認めないわ」

 私が呆れて何かを更に発する前に教授は声高々に話を打ち切り、逃げるように去っていった。私はしばらく封筒を持ったまま呆然とその姿を見送るしかなかった。

なんの事前準備もしていないのだ。

 無論、学会の事は知っていた、世界各地の同じ分野の研究者と連絡は取りあっていたけれど、今回はキャンセルにしようかと考えていた矢先にこの話だ。きっと教授に学会事務局からメールが届いて、それを見た教授が「私が言っておくから大丈夫よ」などといい加減な返事を返したのだろう。だから、勤勉でお堅いことで有名な日本の今学会事務局も私にEmailすら寄越さなかったに違いない。

 自席に座りしっかりと腰を押し付けたところで一息をしっかりと吐き出した。机上に封書を投げ捨てるように置き白煙を上げて封書に穴が空くほど睨みつけてから、引き出しから祖母の形見であるナイフを取り出した。

 これはナナの嫁入り道具の包丁であったらしい。

 研ぎに研いで最後まで使ったためか、30センチ定規ほどのサイズにまで小さくなっていて、刃先はもうないに等しかった。母が使えないから捨てましょうと無造作に(母はナナの子供とは思えないほど大雑把だ)廃棄される寸前に私が貰いうけ、加工してペーパーナイフとして活用していた。封筒を開けてパンフレット類と招待状を確認する。名前は間違いなく私宛であったし、そして災厄なことに期日も間違いなく、飛行機で乗り継ぎを考えれば明日でなければ間に合わないことも理解した。

 そして学会のプレゼント企画としてパンフレットの中に挟まれていたチラシに私は目を奪われた。

「ジャパニーズサンダル、いえ、違うわ、ナナが日本語で何とか言っていたわね……」

 英語翻訳されていないそのパンフレットに形状の良く似た履物の写真が載っている。幼い頃の祖母と過ごした時間と約束が脳裏にうっすらと思い出されてくる。

「そう、ゲタ、下駄って言っていたわね、木でできた、カラコロと音のする……」

 そう、あの祖母と小指と小指と交わらせて約束をした日のことだ。

その時のナナの表情は本当に優しかった、けれど、今思い出してみると言葉の端々に哀愁が漂っていたような気もする。

「秘密がある、日本に持って行けば分かるって……」

 卓上の写真立てに目を向ける、幼い私とナナの二人で撮った写真、膝の上で笑う私と優しい微笑みのナナ、私の尊敬すべき女性で、私が目指すべき女性、私の憧れのナナ、最愛のオバアチャン。

「ナナ、私、ゲタを持って行ってみるわ」

 写真立ての祖母は嬉しそうに微笑んでくれた気がする。

そしてナナの家から帰る時が近づいても準備するのが遅かった私によく言って聞かせてくれた『ナリア、早く準備をなさい』とのお小言が聞こえてきた気がして、部屋で必要な手荷物を素早く揃えると、ラーナ女史に委細と部屋の防衛を託してアパートへと帰ったのだった。

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