第二話 例え我儘でも (後編)

父は、よく笑う、元気な人だった。


学校行事にも積極的に参加して、休日には家族と過ごす事を大事にしてくれる、明るくて優しい父。

友達から「恵美のお父さん、いいよね。うちのお父さんなんて……」と羨ましがられることも多い、自慢の父。



そんな父の病が発覚したのは、恵美が中学校に入学する前のことだった。



最初の手術を決めた日、父は「お父さんは病気になんか負けない。絶対に克服してみせるからな」と、恵美と指切りした。


それから三年。

手術と入退院を何度か繰り返し、その度に父は窶れ、荒んでいった。

何が悪い訳でもない。

ただ、いくら治療を重ねても状況が好転しないことへの焦りと、治療の苦痛と疲労、溜まり続ける不安に、否が応でも沼にハマるようにジワジワと沈んでいったのだ。


それでも、恵美はずっと、守られていた。


未成年だから。

守るべき子供だから。


そういった柔らかなベールで覆われて、父と母を心配しながらも、日常を過ごし続けてきたのだった。




「このクロワッサン、相変わらず美味しいなぁ。角のベーカリーのだろう」

「そうよ。人気商品だから、昼を過ぎたら買えない時があるわ」


今朝も、父と母が朝食の席で楽しそうに会話をする。


「また食べられて、幸せだな」


リクライニングベッドで上半身を上げて、サイドテーブルに置かれた食事を摂る父を前にして、恵美は喉を通り難い食事が、更に詰まったような気分になった。



父が終末期と診断され、全ての治療を放棄して緩和ケアに切り替え、自宅に戻ったのは、半月程前のことだ。

苦しく辛い治療を止め、痛みを取ることだけに専念して、最期の時を家族で穏やかに過ごす。

それは、主治医と両親が話し合って決めたことだった。


『もう、お父さんに苦しいばかりの時間を過ごして欲しくないの』

母は言った。

『家族と楽しく過ごす最後の思い出を、恵美と母さんに残しておきたいんだ』

父は言った。


喧嘩をする訳ではないが、度々居た堪れない雰囲気を作っていた両親は、その決断をした時から、ずっと穏やかで幸せそうに見える。

好きな食べ物を口にして笑う父は、痩せこけてはいても、以前の父と同じ優しい笑顔だ。


……それなのに。


どうして私は、こんなにも息苦しいのだろう。

どうして母と一緒に、幸せそうに笑う父の姿を喜んであげられないのだろう。


自分がひどく残酷で悪い娘のように感じられて、恵美は箸を置いて立ち上がった。


「ごちそうさま」

「あら、もういいの?」

「うん。……行ってきます」

「恵美」


逃げるように居間を出る恵美に、父が声を掛けた。


「いってらっしゃい」


恵美は笑顔を作ることが出来ず、そのまま家を駆け出たのだった。





夕暮れ時、毎日真っ直ぐ帰る気になれずに緑地公園で寄り道ばかりしていた恵美は、この日とうとう、遊歩道脇のベンチに座って動けなくなっていた。

帰らなければと思うのに、腰が上がらない。


帰って、どんな会話をすれば良いのか分からない。



「お前、そろそろそこを退いてやってくれないか」


突然掛けられた男の声に、恵美は驚いて顔を上げた。

いつの間に近付いたのか、目の前にあの時の男が立っていた。


「お前がずっとそこにいると、鳥達が落ち着かなくて困っている」


男は、顎をしゃくり上げるようにして頭上を示した。

木の上で、鳥達が騒がしく鳴き続けながら、落ち着かない様子で動き回っている。

かと思えば、一羽が遊歩道まで降りてきて、鋭い鳴き声を恵美の方に向けると、素早く木の上に去った。


恵美がここに座った時から、鳥達はずっとこんな調子だったのだろうか。

恵美は意識が外に向いておらず、全く気付いていなかった。


「……気付きませんでした」

「どれだけこうやって抗議しても気付いてもらえないからと、俺達に泣きついて来た。まったく……」


溜め息をつく男の顔を、恵美はポカンと眺めた。


俺達?

泣きつく?

何を言っているんだろう。

変なの、まるで鳥と友達みたい。


恵美は思わずクスッと笑った。


「抗議したって全然気付いてもらえないのに、鳥って無駄なことするんですね」


言われるがままに立ち上がりたくなくて恵美が続けた言葉に、用事は済んだとばかりに歩きだそうとしていた男は、怪訝そうに彼女を見下ろした。


「無駄? 必死に子を守ろうとしている行動に、無駄なことなんて一つもない」

「そうですか? だって、その行動で子どもを守れたりしてないじゃないですか。この前だって、結局親鳥は落ちた雛を助けられなかったもの」


“子を守る”という言葉に、なぜか苛立って、恵美は喰って掛かった。

最近思うように出てこなかった言葉が、家庭でも学校でもないこの場所で、知らない人を相手になら、不思議と喉からスルスルと出てきた。



「……そういえばお前、この前もそうやってわけの分からない理屈をこねていたな」

「わけの分からない……?」


恵美の顔にじわりと血が上る。


「目の前の生命を前に、なぜ立ち止まってあれこれ理屈を並べるのだ。人間とは、皆そんなものか?」

「人間とは……って」


見下ろす男の黒々とした瞳は、真っ直ぐに恵美を突く。


恵美はゴクリと唾を飲んだ。

目の前の男は、確かに人間の形をしているのに、まるで別の生き物に感じる。

その視線は、恵美が幾重にも重ねて封じてある底の底まで心の中を見通すようで、自然と声が震えた。


「だ、たって、その時に思ったことを言っても困らせるだけだもの。思った通りに訴えたって、聞き入れてはもらえないもの!」

「困らせるなら言ってはいけないのか? 聞き入れてもらえなければ、行動してはならないと?」

「それは……、でも……」



カァーッ カァーッ


近い位置から聞こえた、大きなカラスの鳴き声に、恵美はビクリと体を震わせて周囲を見回す。

ザッと風が吹いて、あちこちで枝葉が大きく音を立てて揺れた。


それはとても不思議な感覚だった。

男の黒髪がゆっくりと揺れると、どこからかバサリと大きな羽音がした。

見慣れた遊歩道が、全く別の空間に感じる。

木の上から、多くの視線が対峙する恵美と男に注がれていて、ここでは嘘の言葉を口に出来ないような、特別な空気が流れていた。


「……我等は以前、理不尽な人間の力によって大事な生命を幾つも奪われた。どうやっても守り得ないと分かったが、それでも我等は渾身の力を以て抗った」

「守れないって、分かっていても……?」

「そうだ。守れない。もうすぐそこに“”が来ていた。……それでも、我等は抗った」

「どうして……?」

「どうして? それが生きる者の持つ、ただ一つの力だからだ。どんな生き物も、必ずいつか死ぬ。人間も、鳥も、虫も獣も。しかし、その死に抵抗する力もまた、どんな生き物にも等しく与えられた力だ」



死は等しく訪れる。


だからこそ、抗う力も等しく持っている。

叶うとは限らなくても、それがどんなに辛く苦しいことでも、生きている限り、抗うことは出来るのだ。



「叶わなくても……抵抗していい……」


ポツリと溢れた恵美の言葉は、誰かに言って欲しかった言葉で、誰にも言って貰えなかったもの。




突然、救急車両のサイレンが響き、世界が普段のものに戻った。

恵美は咄嗟に立ち上がる。

緑地公園の側の大通りを、赤色灯を回した救急車が走り抜けて行く。

車両が自宅へ続く角を曲がるのが見えた瞬間、恵美は駆け出していた。


さっきまでの身体の重さが嘘のように、前へ前へと足が動いていく。

ずっと厚い靄に覆われていたような頭は、今はたった一つのことしか考えられなかった。




勢い良く玄関に駆け込んだ恵美は、転びそうになりながら居間へ入った。


「恵美!?」


驚きに目を見張る父がそこにいるのを見て、恵美はもう、何も抑えられなかった。



「お父さん、死んじゃ嫌だ!」


それは、たった一つ。

たった一つだけの、言いたくて言わせて貰えなかった恵美の願いだ。



絶対に負けないと指切りしたじゃない。

一緒にいてくれると言ったじゃない。

子どもだと守らなくていい。

一緒に泣いても、苦しいと弱音を吐いてもいい。


楽にさせてくれない酷い娘だと思われても、例えこれが我儘でも。


多くの気持ちが、恵美の中でぐるぐると回る。


お父さん、お父さん!

どんなに苦しくても、生きることをやめないで!


「死んじゃ嫌だ……死なないで、お父さん……」


もうそれ以上の言葉は出なくて、恵美はただ、リクライニングベッドの上の父に縋って泣いた。

気付けば、父もまた、恵美に覆い被さるようにして声なく泣いていた。



恵美は父の痩せた手の平をギュウと握る。

握り返してくれる力は想像していたよりも強くて、更に涙が溢れた。


そういえば、病が発覚してから母の涙は何度も見たが、父の涙は一度も見ていなかったと、恵美はぼんやりと思ったのだった。




○ ○




「行ってきます」

「恵美、お弁当!」

「あっぶない、ありがと!」


真新しい高校の制服を着た恵美は、母から弁当の入った手提げを受け取り、リクライニングベッドのなくなった居間を横切る。


「行ってきます」


笑顔の父の写真に向かって挨拶をして、居間を出た。




自転車で緑地公園の側を通る時、一度ブレーキをかけて、遊歩道に並ぶ木々を見上げた。


今朝も鳥達は、様々に鳴き声を響かせながら、忙しなく飛び回る。

その中に黒い影を探してみるが、どこにも見当たらなかった。



父は余命一ヶ月を少し延ばし、二ヶ月弱生きた。


その間、父と母と恵美は、本音で多くを語り合った。

決して笑って穏やかなだけの時間ではなくなったけれど、それでも、家族の密な時間は恵美の中に残った。


あの時、恵美が本音をぶつけたことが、父にとって良かったのかどうかは分からない。

それでも、後悔はしない。

握り返してくれた父の手は、確かに、強くて温かかったのだから。




《 第二話 例え我儘でも/終 》

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