第二話 例え我儘でも (前編)

町外れの空き家が並ぶ一角。


手入れのされていない古い大木の根元に、一羽のカラスがいた。

木の上に止まらず、目を閉じてじっとしているのは、具合が悪い為だろうか。

下生えの上で、黒く艷やかな羽根を膨らませているカラスは、よく見れば細かくふるふると震えていた。



ネェ、ご飯持って来たよ〕


少し小柄な若いカラスが空から舞い降り、うずくまるカラスに駆け寄った。

嘴にはどこからか持って来たものか、千切れた肉片が咥えられていた。


ネェと呼ばれたカラスは、薄っすら目を開いたが、首を振って再び目を閉じた。


〔アタシはいい。お前がお食べ、イチ〕

〔……まだ食欲ないの?〕

〔うん。せっかく持って来てくれたのに、ごめん……〕


イチがしょんぼりして肉片を下に落とした時、もう一羽の大きなカラスが、空き家の屋根を蹴るようにして降りて来た。

その嘴には、小振りなイチヂクが一つ咥えられている。


ニィ

〔彼女はこういう時、果実しか食べないんだ〕


そう言って、彼は蹲る雌のカラスの嘴にイチヂクを近付ける。

彼女はゆっくりと顔を上げて、イチヂクを突付いた。


〔甘い……。よくこんな綺麗な実を見つけたね〕

〔偶然、な〕


偶然と言うが、最近はどこの家も、実の成る木には鳥避けのネットを掛けてあって、野鳥にはそうそう食べ頃の実は手に入らないものだ。

おそらく彼は、ネットをくぐったか、隙間を見つけて潜り込んだのだ。

どちらにしても、人間に見つかればただでは済まない。


〔危険なことをしないで〕

〔……あの大きさの小鬼を喰らっておいて、よく言う〕


彼に鋭く睨まれて、彼女はバツが悪そうに顔を背けた。



数日前、子猫を助けた和哉かずやという少年の家で、彼女は“黒の小鬼”を喰った。

小鬼は最初見た時よりも、それを喰らった彼女は体調を崩していた。


〔ヤツラをもう喰うな〕

〔分かってる。……でも、仕方なかったのよ〕


単純に追い払うことは出来たが、小鬼は追い払われても、狙った生命を狩るまでは諦めない。

あの場から小鬼を払う為には、喰うのが一番早かったのだ。


小鬼を喰おうと思えば喰えることは、以前一度だけ経験したことがあるので分かっていた。

ただし、以前喰ったのは小さな埃の塊のような小鬼だったのだが。



「そうそう、もう喰わない方が良いよぉ?」



突然、ザラリとした声が聞こえて、カラス達は警戒をあらわに声がした方を見た。


欠けたブロック塀の上に、濃い褐色の小さなイタチが寝そべっていた。

ベロンと伸びた身体の横を、太い尻尾がユラユラと揺れる。


「そう何度も喰われちゃ、こちらも困ってしまうからねぇ」


クククと笑ったイタチの目は、深く穴が穿たれたように暗く、周りには黒い靄が飛ぶ。

このイタチは、“黒の小鬼”の仲間。

生命を狩る小鬼達を統べるものの一つだ。


〔何の用だ〕


険の籠もる声をカラスが出せば、イタチは再びククと楽しそうに笑った。


「警告してやろうと思ってねぇ」

〔警告だと?〕

「そっ。カラス達あんたら、これ以上小鬼を喰えば、のものになっちまうよ?」


イチがブルルと羽根を震わせて問う。


〔“こちら側のもの”って、どういう……?〕

「俺等と同じ、死と呪いを運ぶものさ」



“死と呪い”



雌カラスは不快感を滲ませて立ち上がると、カッカッと地面を蹴りつけた。

カラスは不吉の象徴として形容されることが多く、人間達から理不尽に忌み嫌われている。

それだけでも忌々しいのに、実際に小鬼達と同じものになるとは。


〔嘘をつくな鬼め!〕


雄カラスはバサリと大きく翼を広げ、苛立ちを隠さずブロック塀の上のイタチに突進したが、その爪が届く寸前、イタチはヒラリと塀から降りた。


「嘘なもんか。現にあんたはもうただのカラスじゃないだろぅ?」

〔黙れ! だとしても、我等はお前等のようにはならない!〕


再び飛び掛かったカラスを避け、イタチは低い姿勢で素早く駆けて物陰に入った。

小さな靄黒の小鬼がそれに続いて跳ねて行く。


「人間なんか、放っておけば良いんだよ。助けてやったって、感謝なんて微塵もされやしない。カラスは嫌われ者のままだよぅ?」

〔やかましい! 失せろ!〕


カァーッ カァーッ


三羽に一斉に鳴かれて、イタチはブルンと大きく首を振った。


「やれやれ。とにかく、警告はしたよぅ?」


その声と共に、イタチは姿を消す。

イタチが消えると、小さな靄黒の小鬼はわらわらと散って、溶けるように消えて行ったのだった。




○ ○




恵美えみは、目の前に落ちている鳥の雛を見下ろして、立ち尽くしていた。


中学校からの下校中、母の言い付け通りに真っ直ぐ家に帰りたくなくて、遠回りして緑地公園の遊歩道をゆっくり歩いていたら見つけたのだ。

まだ羽根の生え揃わない、弱々しい雛を。


見上げれば、遊歩道の両側に並ぶ木々の上には、何羽かの鳥の姿がある。

鳥に興味はないから、何と言う鳥なのかは分からないが、おそらくこの木の上には彼等の巣があるのだろう。

この雛は、きっとそこから落ちたのだ。

雛が心配なのか、鳥たちは盛んに鳴き声を上げながら頭上で動いているが、だからと言って彼等がこの雛を自力で巣に戻せるものだろうか。



恵美は通学カバンの肩掛け紐をギュウと握りしめたまま、じっと雛を見つめていた。


周りに人はいない。

恵美がこのまま通り過ぎれば、この雛はどうなるのだろう。

いや、このまま通り過ぎる以外に、恵美にどんな選択肢があるのだろう。


自分には、特別な力なんてない。

生命を前にして出来ることなんて、ただのひとつもないのに……。




どれだけそうやって立っていただろうか。

突然後ろから、男の人が横をすり抜けて通り、恵美はびっくりして声を上げそうになった。

全く気配を感じなかったので、近くには誰もいないと思っていた。


驚く恵美を一瞥すらせず、男は躊躇うことなく雛を掬い上げると、一度雛に顔を近付け、大きな木を見上げて軽く膝を曲げた。

そして、恵美が「あっ」と声を上げるより早く、低い位置の枝に跳び上がった。


そこからはあっという間で、彼は更に上の枝まで身体を持ち上げ、枝葉の影にあった鳥の巣に雛を返して、地面へ飛び降りたのだった。



「すごい……」

思わず漏らした一言が聞こえたのか、男は初めて恵美の存在に気付いたように視線を向けた。


スラリとした長身に、肩下程の長さの黒髪を無造作に一つに括っている男は、整った顔立ちがどこか神秘的に見える。

その彼の黒々とした瞳で真っ直ぐに見つめられ、恵美は急に落ち着かない気分になって口を開いた。


「あ……、あの、助けたいと思ったんです。でも、私じゃ巣に戻せないし、野鳥はむやみに触っちゃダメだって聞いてたから……だから私……」

恵美は、男に責められているような気がしたのだ。


しかし、男は僅かに怪訝そうに眉根を寄せた。

「別に言い訳する必要はない」

「い、言い訳じゃ……!」

“言い訳”と言われて、恵美の顔が赤くなったが、男は興味がなさそうにフイと顔を背けた。


「生死に手を出すも出さないも、人間お前の自由だ」


言い捨てて、男は木立の間に消えた。

胸にグサリと刺さった言葉を反芻する恵美の頭上を、バサリと大きな羽音を立ててカラスが飛び去って行った。




「おかえり、恵美。遅かったのね」

「うん、ちょっと……」


帰宅してすぐ、玄関で靴を脱ぐ恵美に母が声を掛けた。


「出来るだけ早く帰ってって、言ってあるでしょう」


非難を含む声音に、恵美は軽く唇を噛んで俯く。


『もう一緒に過ごせる残りの時間は少ないんだから』


何も言われなくても、そう続けられたような気がして、気分が沈んだ。



「そんな風に言わないでやってくれ」


優しい声で母を窘めたのは、居間に設置されたリクライニングベッドに身体を預けた父だった。


「でも、あなた」

「恵美が学校で過ごす時間だって、大事なんだよ」

「そうだけど……」


まだ何か言いたそうな母の手を握り、父は恵美に笑い掛けた。

痩せた身体、こけた頬。

健康だった頃の父の面影はほとんどない。


「おかえり、恵美」

「ただいま……」


恵美は精一杯の笑顔で応えた。


残された父の時間は、後一ヶ月と宣告されている。



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