第一話 理由なんてない (後編)
子猫は、日を追うごとに元気になっていく。
しかし、子猫が元気になるほどに、不思議と祖母の体調は悪化した。
「もう歳だからねぇ」
祖母はそう言って、元気になった子猫が
この間まで、祖母はあんなに元気そうだったのに、急にこんな風に弱るものなのか。
釈然としない気持ちの和哉の前に、女は再び現れた。
今度は、和哉の家の直ぐ側に。
学校帰りの自分を待ち構えていたのだと分かり、和哉はランドセルの肩紐を握りしめて家に駆け込もうとした。
「このまま放っておくと、おばあちゃんが死ぬわよ」
和哉が家に駆け込む寸前、女は言った。
その内容が衝撃的で、和哉は振り返る。
「どういうこと? なんでおばあちゃんが!?」
「キミが拾った子猫は、黒い小鬼が付いてたの」
「……“小鬼”?」
「そう、人間の分かりやすい呼び方で言えば、“死神”かな」
あまりにも不吉な名を告げられて、和哉は強く眉根を寄せたが、女は少しも表情を変えずに淡々と続けた。
「小鬼が付いたものは、十中八九生命を落とす。でも稀に、偶然助け手を得て生命を拾うの。キミが拾った猫みたいに。そうするとね、小鬼は代わりに別の生命を持っていくのよ」
「別の生命……」
「猫は助かった。代わりに、この家で一番弱い生命が狩られるわ」
「そんな!」
和哉は女に詰め寄り、その顔を見上げた。
しかし、そこに輝く黒々とした瞳に息を呑んで後退りした。
この目を、知っている。
そうだ、あの日、今にも死にそうな子猫を見下ろしていたカラスと同じ……。
「……カラス?」
女は、初めて驚いたように表情を変えた。
「勘がいいわね、キミ。なら話は早いわ。猫を私達に渡しなさいな」
「私達?」
カァーッ カァーッ
上から鋭く声が降ってきて、和哉は急いで視線を上に向ける。
風に揺れる電線の向こう、電信柱のてっぺんに、艷やかな黒い羽根を畳んだカラスが二羽、こちらを窺うように見ていた。
「あの猫は私達の獲物だった。私達に猫を返すなら、子鬼も一緒に連れて行ってあげる」
「ちょっと待ってよ! せっかく元気になったのに、猫を殺すの!?」
「そういう運命だったのよ。それとも、おばあちゃんを見捨てる?」
ぐっと和哉は言葉に詰まった。
どちらの生命も、簡単に差し出したり出来ない。
「じゃあ……。じゃあ、代わりに僕が……」
言いかけて、口籠った。
それこそ、そんな簡単に口に出していいのか?
僕の生命だって、一つしかないのに?
「和哉ー? 帰ったの?」
背後でガチャリと玄関の扉が開いて、母が顔を出した。
「おかえり。お友達と話してた? なんか声が聞こえた気がしたんだけど……」
「あ、ただいま。それが……」
母に答えてから視線を戻せば、さっきまで女が立っていた場所には誰もいなかった。
バサリと羽音がして、和哉は空を見上げる。
飛び立った三羽のカラスが、暮れ始めた空を西へ羽ばたいていた。
数日、何も起こらなかった。
猫は相変わらず元気に動き回っているし、祖母の咳は治まってはいないが、悪化もしていない。
あれから、女は現れていない。
時折カラスは外で見るけれど、特にこちらを見ている風でもない。
もしかして、あの女の人がカラスだなんて、ただの夢だったのかも……。
和哉がそんなことを考えた頃、喉に違和感を覚えた。
数日雨続きで急に気温が下がったからか、風邪を引きかけているのかもしれない。
しかしその夜、急に和哉は発熱した。
「明日、病院に行きましょうね」
そう言って母は、ベッドに横になった和哉の額に冷感シートを貼る。
和哉は頷いて、そのまま微睡んでいた。
……熱い。
喉が痛くて、息がしづらい。
こんな風に急に風邪を引くなんて、いつぶりだろう。
「風邪じゃないかもしれないわよ?」
どこからか、ザラリとした女の声が聞こえて、和哉はドキリとした。
見回しても、辺りは真っ暗で何も見えない。
「どういうことだよ!」
「小鬼が標的を変えたのかもしれないってことよ」
明らかにバカにした調子で、闇の中から女が笑う。
標的?
子猫から、おばあちゃんに変えたように?
今度は、僕に?
和哉の身体から汗が噴き出た。
「あははは、だから猫なんか放っておけば良かったのにさぁ!」
女の口調が変わった時、リンと軽やかな鈴の音が鳴った。
暗闇に細く稲妻が走る。
何かがパッと散るような感覚があって、急に息が通った。
冷たいものが額に当たって、スゥと気分が楽になり、和哉は目を開けた。
「ああ、起こしちゃったね」
「おばあちゃん」
祖母が新しい冷感シートを貼ってくれていた。
今のは、ただの夢だったのだろうか。
ナーと猫の声が聞こえて、声の方へ向くと、ベッドの上に子猫がいた。
「和哉のことが気になるのか、ずっと鳴くから一緒に連れてきたんだよ」
猫は、目が合うと嬉しそうにベッドの上を跳ねた。
首に付いたリボンが揺れ、小さな鈴がリンと鳴った。
「……それ?」
「これね、今日お母さんが付けたんだよ。もううちのコにするつもりになってるんじゃないかねぇ」
祖母は子猫を撫でて笑う。
猫は、気持ち良さそうに目を細めた後、和哉の顔の近くまで跳ねて来て、再びナーと鳴いた。
「和哉、よく助けたね」
祖母から不意に掛けられた言葉に、和哉は瞬いた。
「……僕、この子を助けて良かったのかな?」
「当たり前じゃないか。死んでしまうかもしれないって、怖かったろうに、よく頑張って連れて帰ったねぇ」
祖母が微笑んで頭を撫でた。
和哉はぐっと奥歯を噛んだ。
そうしないと、涙が出そうだった。
本当は、自分が子猫を拾った為に祖母の生命を危険に晒してしまったのかと思い、心の隅で後悔していた。
怖かったのだ。
だけど、そんなのは違う。
絶対に、違うんだ……!
深夜、和哉は部屋の窓を開けた。
少し離れた電柱に、弱い街灯が灯る。
目を凝らせば、その光を避けるようにして、窓際の庭木にカラスが一羽止まっていた。
「答えは決まった?」
カラスの嘴から女の声が響いたが、和哉は驚かずに頷いた。
「うん、決めたよ」
「…………どの生命を渡すの」
和哉は窓枠をギュッと握った。
「どの生命も、差し出したりしない。持っていくなら、
カラスの止まった庭木が、ざわりと揺れた。
気付けば、木のてっぺんに、残りの二羽が止まっている。
「キミ、それじゃあ筋が通らないわ」
「筋なんて、最初から通ってなかったよ」
「なんですって?」
「ひとつの生命を救う為に、他の生命を差し出せなんて、最初からおかしかったんだ。そんなの認めない」
目の前のカラスが、翼を震わせて嘴をカチカチと鳴らす。
「キミが認めなくったって、運命は運命よ」
「いやだ、誰の生命も渡さないよ。だって、皆生きて欲しいんだ!」
「……まるで子供の癇癪だわ」
「それの何がいけないんだ!」
和哉は憤った。
あんなにボロボロだった子猫は、元気いっぱいに動けるようになった。
祖母の手は、固くてしわくちゃだけど、とても温かい。
そして、熱が出たって、僕も生きてる。
皆、今、自分の力で生きてるんだ。
その生命を、どうして言われるがまま差し出さないといけないのだろう。
どうして、理不尽なことを簡単に飲み込んでしまいそうになっていたのだろう。
助かる生命の代わりに、別の生命を差し出すなんて、そんなことあっていいわけがない。
いいわけないじゃないか!
「僕は運命なんて信じない! 死神なんてお断りだ!」
強く強く言い放った和哉を、闇の中から黒い瞳が見つめる。
次の瞬間、バサリと開いた両翼から突風が吹きつけた。
「うわっ!」
渦巻く風が部屋に吹き荒れ、和哉は咄嗟に目を閉じた。
目を開けば、目前の窓枠に女が腰掛けていた。
驚いた和哉の肩越しに、女の腕が素早く伸びると、彼女は何かを掴んで引き抜くように持ち上げた。
その手には、黒い靄の塊のようなものが握られている。
時折ウネウネと細いものが伸びるそれは、見ていれば吐き気がするような、どこか醜悪な塊だった。
「ねえ、キミ、あの時、なぜ子猫を拾ったの?」
唐突に掛けられた問いに、和哉はようやく靄から目を離し、女を見た。
女は無表情であったが、和哉に問う瞳は真剣だった。
だから、和哉はしっかりと彼女の目を見つめて、キッパリと言った。
「死んでほしくなかったからだよ。目の前の生命に生きて欲しいと思うことに、理由なんてないよ!」
女は微笑んだ。
まるで人のように、柔らかく。
「その答え、気に入ったわ」
女は喉を反らし、手にしていた黒い靄を素早く口元に持って行くと、大きく開いた口で一飲みにした。
驚いて目を見開いた和哉に、再び強く風が吹き付ける。
「うわっ!」と腕で顔を庇った和哉の耳に、女の声が響く。
「生きなさい。生きられる内は、精一杯。守りなさい。その手で、守れるものならば」
強く吹き付ける風が収まって、和哉はそっと目を開ける。
開いた窓の向こうで、街灯がぼんやりと灯る。
風に揺れる庭木には、カラスの姿はもうなかった。
○ ○
「ミヤ、行ってくるね」
和哉は、我が家の飼い猫になった子猫を抱き締めてから、玄関を出た。
「いってらっしゃい、気を付けてねぇ」
「行ってきます!」
庭で花に水をやっていた祖母に手を振り、道路に出る。
ゴミ捨て場の近くを通ると、道路でゴミ袋を突付こうとしていたカラスが、急いで飛んで逃げた。
和哉は足を止めて、電線に止まって羽繕いを始めたカラスを見上げた。
あのカラスは、あの時のカラスだろうか。
どのカラスも同じに見えて、よく分からなかった。
あの後、和哉の風邪はすぐに治って、祖母もゆっくりと回復していった。
あれから、女の姿は一度も見ていない。
あの夜の出来事は、熱に浮かされた夢だったんじゃないかと、今は思う。
“黒の小鬼”なんて、本当は、最初からいなかったのかもしれない。
……だとしても。
僕は、今生きているから。
カァーッ
電線の上で、カラスが鳴く。
和哉は一度深呼吸して、再び歩き出した。
《 第一話 理由なんてない/終 》
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