慈鳥の翼は柔を孕む

幸まる

第一話 理由なんてない (前編)

ある日の塾の帰り道。

辺りはもう薄暗くて、駆け足気味だった小学五年の和哉かずやは、ふと、四つ角の隅にあるに気付いて止まった。


まるで小さなボロ布のように見えたそれは、よく見れば微かに動いている。


「……もしかして、猫?」


そっと近寄って見れば、和哉の予想通り、地面のそれは痩せこけた小さな猫だった。

黒い毛皮は、赤黒い泥のようなものにまみれてぐちゃぐちゃ。

右目は辛うじて薄く開いているものの、左目はケガをしているのか、それとも汚れでくっついているのか、開いていない。

ここまで自力でやって来て倒れたのかどうかは分からないが、猫はもう動くことが出来ないようだった。

前足が弱くアスファルトを掻いているが、どうやっても立ち上がることは出来そうにない。


和哉の気配を感じてか、猫は一度、ナー……と弱く細く鳴いた。



どうしよう。

和哉は立ち尽くした。


この猫、このまま放っておいたら、死んでしまいそうだ。

でも、連れて帰っても、うちでは飼えないって言われるのは分かっている。

それなら、このまま置いていく?


死んじゃうかもしれないって、分かってるのに?



カァーッ カァーッ



頭上で大きな声が聞こえて、和哉は跳び上がりそうに驚いて上を向いた。

電線に、カラスが三羽止まっている。

夕暮れの空を引き連れたような三羽は、黒々とした瞳を鈍く光らせて、こちらをじっと見下ろしていた。


いや、子猫を見ているのだ。

まるで、子猫の生命が尽きる瞬間を、今か今かと待っているようだった。


和哉は居ても立ってもいられず、子猫を拾い上げた。

引っ掻かれるかと少し怖かったが、弱っている子猫は抵抗らしい抵抗をしなかった。


カァーッ カァーッ


再び降ってきた声を振り切るように、和哉は子猫をしっかり両手で抱えて、家まで走って帰った。




「ダメよ、そんな。うちでは飼えないって言ってあったでしょう? それに、もう死にそうじゃない……」


和哉が拾って帰った子猫を玄関で見るなり、母は顔をしかめて言った。

家に入れてしまえば終わりだというように、上り框で仁王立ちして首を振る。


「でも、まだ生きてるんだ。あのまま置いておいたらホントに死んじゃうよ。カラスにも狙われてたんだ」


和哉は何とか理解を得ようと、縋るような目を向ける。


「病院に連れていけば大丈夫かもしれないでしょ!?」

「病院って言ったって、飼うつもりじゃなきゃ診てくれないわよ」

「元気になったら、ちゃんと飼い主を見つけるからさ」

「でもねぇ……」

「お願い! 僕のお小遣い、病院代で使っていいから!」


病院でどのくらいのお金がかかるかなんて知らなかったが、子猫を助けられるなら、和哉はお年玉の残りだって全部出そうと思った。


子猫を拾って家まで帰る、ほんの十分程の時間。

たったそれだけの短い時間だというのに、両手から伝わる生命の温もりは、守ってやらなければならないという使命感を和哉に芽生えさせていた。


それは、和哉にとって初めて感じるものであり、手放してはいけないような、不思議な感覚だった。



「助けられるなら、助けておやりよ」


二人の間に入ったのは、昨年、夫を亡くして一人になり、和哉達家族と同居を始めた祖母だった。

祖母の部屋である奥の和室まで声が聞こえたのだろう、襖を開けて廊下に出て来ていた。


「生きる力があれば助かるし、助からなければ、それがこの猫の限界なんだから、まずは助けられるか手を尽くしてやらないと」

「でも、お義母さん」

「和哉が連れて帰ったのなら、何かしら縁がある生命なんだよ。縁が繋がったなら、その縁は大事にしてやらなきゃ。私も飼い主探しを手伝ってみるから、ね?」


祖母の援護で、母は渋々折れた。

ちょうど帰宅した父の車で、子猫は無事に病院に運ばれて、診察と治療を受けることが出来たのだった。




和哉の家の側の電線で、小柄な若いカラスはグーンと翼を広げて伸びをした。


〔あ〜あ、獲物ごちそう奪われちゃったね〕


翼を畳んで横を向けば、彼よりも一回り大きなカラスが二羽、電柱に止まって和哉の家を見下ろしている。


〔……そうね。でもあの子、“黒の小鬼”ごと連れて帰ってしまったわ〕

〔仕方あるまい。それもまた、あの子が選んだんだ。小鬼が誰の生命を狩って行くとしても、我等には関わりないことだ〕

〔まあね……〕


二羽の会話には興味がなかったのか、若いカラスは早々に電線を蹴り、空を舞う。


ニィネェ、早く帰ろうよ。真っ暗になっちゃうよー〕

〔ああ、今行く〕


ニィと呼ばれたカラスが飛べば、一拍置いて、ネェも飛び上がり、三羽は並んで寝床へ帰って行ったのだった。





一週間後、子猫は随分と元気になっていた。

弱っていたのは栄養失調が主な原因で、幸いなことに大きなケガや病気はなかった。

潰れているのかと心配した片目も、目ヤニと汚れで目が開かなくなっていただけで、きれいに身体を洗われた今は、ぱっちりと開いて瞳が輝いている。


和哉達家族にもすっかり慣れ、居間に置いた段ボールに誰かが近付けば、ふかふかのタオルを敷いた中から見上げ、ナーナーと鳴いて甘えた。



「もう、可愛くて嫌になっちゃうわ」


和哉の母は、言葉とは裏腹に、嬉しそうな顔で子猫の頭を撫でる。

なんだかんだで、母はこの一週間ですっかり情が移ってしまっているのだ。

もしかしたら、新しい飼い主を探す必要はなくなるかもしれない。


笑いを噛み殺した和哉は、離れた場所に座っている祖母が何度も咳をしていることに気付いた。


「おばあちゃん、大丈夫?」

「大丈夫だよ。子猫が元気になって良かったねぇ和哉」

「うん」


笑って会話をするが、祖母は何処となく元気がなかった。

この一週間、咳も多いし、顔色もあまり良くないように見える。

風邪だろうか。



そんなある日、四つ角を通り過ぎようとした和哉は、子猫を拾った角に、女の人が一人立っているのを見た。

スラリと背が高く、面長の美人で、黒い長髪が風になびく。

しかし、その黒々とした目がこちらを見ていることに気付いた時、背筋がヒヤリとして、顔を反らした。

理由なんて分からない。

何となく関わってはいけないような気がして、素早くそこを通り過ぎた。


「猫、元気?」


しかし、通り過ぎた瞬間に声を掛けられて、和哉は思わず振り返ってしまった。

女は、薄っすらと笑った。


「猫、拾ったでしょう。元気?」

「……お姉さん、あの猫の飼い主ですか?」

「まさか。ただ、元気かなぁと思って」


よく分からないが、やはりあまり関わらない方が良い気がする。

何だか、この女は

和哉はそう感じて、「元気になりました」とだけ答えて去ろうとした。

しかし、更に続けられた言葉に、再び止まる。


「じゃあ、家族は?」

「え?」

「家族の誰かが、病気になったりは?」


和哉はパッと踵を返して駆け出した。


気味が悪い。

一体何なんだろう。

どうして猫を拾ったことを知っているのだろう。

和哉の家族のことまで、どうして尋ねたりする?



息を切らして家に帰れば、玄関で靴を脱ぐ時に、奥から咳が聞こえた。

祖母の部屋からだ。

祖母は先日、病院で風邪と診断されて薬をもらって帰ったが、あれから良くなったようには見えない。

むしろ、咳は増えているような……。


『家族の誰かが、病気になったりは?』


さっきの女の言葉がよぎり、和哉はぶると首を振った。





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