桜の木の下で告白すれば恋が実ることとそこに死体が埋まってることは矛盾しない

空洞蛍

さくらと桜田

「……はあっ」


 私立繚乱高校、3-A。

 分厚い文庫本を閉じて、桜田直弼さくらだなおすけは大きな溜め息を吐く。

 誰もいなくなった教室でひたすら読書に没頭するのが、彼の日課だった。


「本はいいよな。何もかも忘れて一つの作業に没頭できるんだ。『あの日』のことも……」


 桜田は本の内容に頓着していないし、覚えてもいない。

 過去を忘却することだけを目的にページを捲る彼は、欲に飽かせて快楽物質を貪る依存症患者と本質的には全く同じだった。

 脳内麻薬が切れた意識の中に、『あの日』の記憶が蘇る。

 逃げるように顔を上げると、視界に映った時計は夕方の6時を指していた。


「……喉乾いたな」


 桜田は教室を出て、自販機のある一階の広場へと向かう。

 緑茶を買って教室に戻ろうとする道中、枯れた桜の樹が目に入った。

 この樹の下で告白すれば恋が実るのだと、以前聞いた覚えがある。

 だが、桜田が誰かに想いを伝えることはない。

 何故なら……。


「俺の好きな人は、もうこの世にいないからな」


 高校1年生の夏、大山おおやまさくらは信号無視のトラックに轢かれて命を落とした。

 慌ただしく動き回る人々と蝉の鳴き声を遠くに聞きながら、桜田は目の前で起こったことを信じられず呆然と立ち尽くしていた。

 さくらの体から赤黒い血溜まりが広がり、桜田の運動靴を濡らす。

 桜田は血溜まりを踏み締めて、さくらの手を握った。

 理屈でなく、そうするしかないと思った。


「さくら」


 薄暗い空を見上げて、桜田は想い人の名を呟く。

 樹の下で微笑む彼女の姿を思い浮かべながら、彼は制服のネクタイを締め直して言った。


「……好きだ。俺と付き合ってくれ」


 当然、返事はない。

 冷たい空っ風に吹かれながら教室に戻ろうとした矢先、背後からニヤついた声が聞こえてきた。


「何、好きな人でもいるの?」


 否定しようと振り向いて、桜田は言葉を失う。

 そこに立っていたのは、大山さくらその人だったのだ。

 小柄な体格に男子と見紛う短髪、そして大きな桜色の瞳。

 さくら以外にあり得ない。


「ちょっと、シカトはなくない? ねえ聞いてる? おーい!」


「お前っ、……さくら、なのか」


「はぁ?」


 桜田が恐る恐る尋ねると、さくらはわざとらしく腕を組んで溜め息を吐く。

 彼女はむっとした顔で続けた。


「何当たり前のこと言ってんの? あたしはあんたの幼馴染で、2年前にポックリ死んだ大山さくら。正真正銘ご本人だよ」


「ご本人……」


「オリキャスだよ」


「オリキャス言うな」


 桜田は深呼吸してもう一度目を開くが、さくらの姿は消えない。

 ひとまず彼女の存在を現実のものとして、桜田が問いかけた。


「で、何でわざわざ化けて出てきたんだよ」


「化けてないですー、地縛霊ですー」


 さくらは自慢げに言い返す。

 彼女の最期を思い出して、桜田が呟いた。


「地縛霊って、未練があってこの世に留まってる幽霊のことだよな。……そりゃあるか、未練の一つや二つくらい」


 将来の夢や楽しみにしていた予定をある日突然奪われてしまったら、死んでも死に切れないだろう。

 もし自分がさくらの立場だったとしても、地縛霊になっていたと思う。

 明るく振る舞う彼女の内心を考えながら、桜田は質問をぶつけた。


「なあ、さくらの未練って何なんだ?」


「その前に、今度はあたしから質問させて。……桜田くんはさ、好きな人いるの?」


「ぶっ!?」


 いきなり不意を突かれ、桜田は思わずオレンジジュースを吹き出す。

 目の前にいるとは口が裂けても言えず、彼はしどろもどろになりながら誤魔化した。


「いや、い、いないけど」


「ふぅん」


 さくらは余裕たっぷりに頷き、指で桜田に屈むよう促す。

 目線の高さを合わせた桜田の耳元に口を寄せて、彼女は悪戯っぽく囁いた。


「あたしにはいるよ、好きな人」


 臨界点を突破した衝撃が、逆に桜田の頭を冷やす。

 彼は自分でも驚くほど冷静な口調で言った。


「つまり、その恋を成就させればさくらは成仏できるんだな?」


「んー、多分」


「手伝わせてくれ!」


 桜田は頭を下げて頼み込む。

 怪訝そうな目で見下ろしてくるさくらに、彼は訴えかけた。


「友達の最期の望みくらい叶えてやりたいんだ。頼む!」


 さくらは腕を組み、暫し考え込む。

 長い沈黙の末、彼女は明るい声で告げた。


「いいよ。協力させてあげる」


「本当か!?」


「そこまで頭下げられちゃね。というわけで、明日は1日予定を空けておくこと。いい?」


「分かった!」


 明日もここで会うことを約束して、二人はハイタッチを交わす。

 同時に最終下校時刻を知らせるベルが鳴り、桜田は慌てて教室へと戻っていった。

 校門を出る時に先程までいた樹の方を見ると、さくらと目が合う。

 これが夢でないことを願いながら、桜田は彼女に手を振り返した。


「おはよう、時間ぴったりだね」


「遅刻したら二度と会えなくなりそうだからな」


「分かってんじゃん」


 翌朝。

 待ち合わせ時間ちょうどにやって来た桜田を、さくらが腕を組んで出迎える。

 練習試合中の野球部が打ったホームランの音を遠くに聞きながら、二人は3-Aの教室に向かって歩き始めた。


「あれ? 地縛霊って動けないんじゃ」


「学校の中ならいいの」


 さくらはそう言って扉をすり抜けていく。

 桜田も後に続こうとして頭をぶつけ、額を押さえながら扉を開けた。


「じゃ、早速作戦会議を始めようか」


 桜田が自分の席に座ると、さくらは黒板に何かを書き始める。

 色とりどりのチョークで大きく書かれた文章を、桜田は気の抜けた調子で読み上げた。


「あたしたちの恋を叶えるぞ大作戦……? 『あたしの』じゃなくてか」


「聞けばターゲットもあたしのこと好きらしいからね。ま、両片思いってやつよ」


「両片……」


 それなら自分はただの邪魔者ではないか。

 罪悪感が込み上げてくる胸を押さえ、桜田は俯く。

 さくらが真面目な声で言った。


「ちょっと、何か作戦考えてよ。手伝うって言ったの自分でしょ」


「あ、ああ」


 作戦と言われても、恋愛経験ゼロの桜田では何も浮かばない。

 悩みに悩んだ末、彼は潔く白旗を上げた。


「何も思いつかねえ……」


「頼りない助手だなぁ」


「しょうがないだろ!? 大体、ターゲットの情報が少なすぎるんだよ。名前とか」


「幼馴染の桜田くんなら分かるでしょ?」


「分かんねえよ」


「仕方ないなぁ。じゃあ仮にSくんとしておこうか」


「本名を言ってくれよ……」


 頑なに好きな人の本名を明かさないさくらにやきもきしつつ、桜田はノートに『Sくん』と書き込む。

 続けてプロフィールや趣味、行動範囲の記入欄を作り、口を開いた。


「まずは情報を絞り込もう。趣味は?」


 いきなり核心に迫るような発言をすれば、はぐらかされてしまう。

 まずは重要度の薄い情報から聞き出し、徐々に絞り込んでいくのが重要だ。

 数年前さくらと見た映画に出てきた作戦を引用すると、彼女はあっさりと乗ってきた。


「最近はよく本を読んでるね」


「そいつはこの学校の生徒か?」


「うん。3年生」


「っし。まずは図書室の貸し出し履歴を洗うぞ」


「頑張れー」


 図書室に向かう桜田を、さくらは手を振って見送る。

 ノートの筆跡を指でなぞりながら、彼女は呆れたような声で呟いた。


「そろそろ吹っ切れないとダメだぞ、直弼」


 さくらは桜田のシャーペンを手に取り、『S』の後ろに文字を書き足す。

 想い人の真名を記し終えたその時、クリアファイルを手にした桜田が戻ってきた。


「は、早かったね桜田くん!」


 さくらは慌ててページを捲り、真名から注意を逸らさんと咄嗟にペンを走らせる。

 不審な動きに気がついた桜田が、ノートを覗き込んで言った。


「何、この5秒で描いたみたいな落書き」


「フランスパン星人だよ! フランスパンの国からやってきた親善大使でね、道ゆく人の口に片っ端からフランスパンを捩じ込むんだよ!」


「侵略の尖兵じゃねえか」


 大袈裟に落書きの解説をしながら、さくらは心の中で安堵する。

 ノートから注意を逸らしたのも束の間、桜田がクリアファイルの中身を取り出して机の上に広げた。


「図書室から貸し出し履歴を借りてきた。この中にさくらの好きな人は載ってるか?」


 さくらは履歴を一通り確認するが、そこに目的の名前はない。

 正直に首を横に振ると、桜田が大きな溜め息を吐いた。


「はあ……いい加減教えてくれよ。さくらの好きな人」


「それはさぁ、桜田くんが自力で気付かないと意味がないっていうか」


「どういうことだよ。何でさくらの恋愛相談でそんな結論になるんだよ」


 桜田は苛立ちを募らせ、無意識に語気が荒くなる。

 しかし言葉に詰まるさくらを見た瞬間、彼の中にある仮説が浮かび上がった。


「さくらの未練って、本当は恋愛関係ないんじゃないか?」


「えっ」


 あからさまに動揺するさくらの姿に、桜田はますます疑惑を深める。

 そして彼女が後ろ手に隠したノートの中に秘密があると、桜田は確信した。


「さくら、俺のノート返せ」


「やだ……」


「返せ!」


 桜田が手を伸ばした刹那、教室の窓ガラスに風穴が開く。

 窓ガラスを突き破って飛んできた野球ボールを見た瞬間、桜田は考えるより先に動いていた。


「ッ!」


 さくらを突き飛ばした桜田の頭にボールが激突し、衝撃を受け止め切れずに倒れ込む。

 脳が揺れるような感覚の中で、さくらの声が響いた。


「大丈夫、血とか出てない!? じっとしてて!」


 ぼやけていく視界に、床に落ちたノートのページが映る。

 そこに最初の文字とそれ以降で筆跡の違う単語を見つけた瞬間、彼は意識を手放した。


「……ん」


 次に目を覚ました時、最初に見たのは幼馴染の心配そうな顔だった。

 もし自分が生まれたてのヒヨコなら、彼女を親と認識していたかもしれない。

 などと考えながら体を起こすと、さくらが思い切り抱きついてきた。


「桜田くん! よかった、死んじゃうかと思った」


「さくらが連れてきてくれたのか。ありがとな」


「ふふん、晩ご飯奢りで手を打とう」


「はいはい。でも、先生はどう突破したんだ?」


「霊パワーで気絶させた!」


「馴染んでやがる」


 在りし日と同じ温度感の会話を交わしていると、二人は自分たちの間合いがあまりにも近すぎることに気がつく。

 慌てて距離を離してなお聞こえる鼓動の音にニヤつきながら、さくらが悪戯っぽく言った。


「ドキドキしてるね。あたしはただの友達なんじゃなかったの?」


「あのなぁ……揶揄うのもその辺にしとけよ」


「じゃあここから真面目な話。桜田くん、あたしの好きな人分かった?」


 桜田は重々しく頷く。

 意識を失う間際に見たノートの中身を、彼は辿々しく告げた。


「桜田、直弼」


「正解。あたしが地縛霊になってまで想いを伝えたかった相手は、他でもない桜田直弼くんでした」


「……さくら」


「これで少しは、前に進む気になれたかな」


 さくらは祈るように呟く。

 それはやがて涙声に変わり、彼女は桜田の背中にしがみついた。


「進んでよ。あたしのことなんか忘れて、自分の幸せ掴んでよ。じゃないとあたし、安心して死ねないよ……!」


 命を落としてから2年間、彼女は明るさを失っていく桜田をずっと見てきた。

 立ち直ろうとして上手くいかず、絶望の底に沈み込んでいく彼の姿を。

 だからさくらは地縛霊になることを選んだ。

 彼の悲しみを解き放つために。


「……それでもやっぱり、俺に幸せになる資格はないと思う」


「なんで!」


「あの時、トラックに惹かれたお前を俺は助けてやれなかった! 怖くて仕方なかった。本当に怖い思いをしたのは、さくらの方なのに」


「でもさっきはボールからあたしを庇ってくれたじゃん!」


「あんなの償った内に入らねえ! ……俺はずっとさくらに償いたかった。だからお前が俺の前に現れて、未練を話してくれた時、本当に嬉しかったんだ。これでようやく過去を清算できるって」


 しかし、彼女の未練は自分を立ち直らせることだった。

 それを叶えるためには、一番許せない相手を許さなくてはならない。

 大切な幼馴染を救えなかった、過去の桜田直弼を。

 止め処なく溢れてくる涙でベッドを滲ませながら、彼は確かめるように言葉を紡いだ。


「俺は、さくらに愛されていいのか」


「うん」


「俺は、さくらを愛していいのか」


「桜田くんは、どうしたいの?」


 背中から伝わるさくらの熱が、段々と弱くなっていく。

 桜田は涙を拭って立ち上がり、彼女の手を取って歩き出した。

 行き先は、あの桜の樹。


「幼稚園の頃さ、結婚の約束したよね」


「それいつの話だよ」


「あれまだ効力あるかな」


「たった今、時効じゃなくなった」


 生者と死者から二人の幼馴染に戻って、さくらと桜田は歩みを進めていく。

 そして桜の樹を背に微笑むさくらを見つめて、桜田は想いを告げた。


「好きだ。さくら」


「あたしもだよ。直弼、大好き」


 二人の心が重なり、さくらを現世に留めていた未練の鎖が消える。

 さくらは最期にとびきりの笑顔を見せると、真っ白な灰となってその場に崩れ落ちた。


「じゃあな、さくら」


 吹き抜ける風に攫われて、灰が桜の樹を包み込んでいく。

 歩き去る桜田の背中で、桜の樹が季節外れの花を、二輪咲かせていた。

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