死因は呪い
冬野川一郎
1
大理石の床に玲奈の足音が冷たく反響した。
またしても独り残業を処理する羽目になった虚しさを余計に演出している。
どうしても作業に時間がかかってしまう自分に嫌気がさす。
最近は残業続きだ。黒羽美術館では特別展示が開かれており、展示品の確認作業と展示替えの準備作業の連続。展示品解説の制作にようやくたどり着たころにはとっくに太陽は沈み、動物の鳴き声がかすかに聞こえる闇の中である。
「お先に帰るよ?ほどほどにね」
同僚の夏希は一時間ほど前に作業を終えていた。その後は館長からなにか別の仕事を振られているようだったが、それも終えたようだ。その要領の良さが羨ましい。
夏希とは大学からの付き合いだ。特別仲が良かったというわけではないが、なにかと近くにいて、お互い認識してはいた。それでもゼミ主催の飲み会でコミュニケーションをとる程度で、友人といえる関係性では無かった。
同じ美術史専攻で学芸員志望だったとはいえ、就職先が同じになるとは思いもしなかった。ましてこんな地方の美術館。しかも特殊な美術品を集めているような。
とはいえ顔合わせの時にその姿を見て驚くと同時に、予想していた孤独が良い意味で裏切られた。それはお互いにそのようだった。それ以来親しくなり、今では心強い同期として頼りっぱなしだ。
最後の資料をケースにしまうと、大きなため息が無意識に出た。
やっと帰れる――。
顔を上げると、頬杖をついて眉間にしわを寄せた赤ん坊がこちらを見ていた。口元は笑っているようだが、見開いた目元の印象からは、なにか恨みつらみを吐いているようにも見える。
「なぜこんな苦しいだけの世界に産み落としてくれたのだ」とでも言っているのか。現代西洋の石彫刻。黒水晶が生み出す表情の曖昧さによって、鑑賞する者の心理状態を写して印象が変わるという。しかしこれほどまでに的確に見透かされると笑ってしまう。
倉庫の中は黒水晶の赤ん坊のように不気味な作品が大量に収蔵されている。特別展示のために集められたものではない。
黒羽美術館はこういった趣向のもの――いわくつき、呪い――一般的には悪趣味なものとされる物が常設展示されているのだ。その特殊性に集まる物好きたちがこぞって、もはや聖地と化している。
壁に掛けられた時計に目をやると、すでに夜の10時を過ぎていた。
「もう帰ろう」
つい、口から出た。
睡眠が不足すると認知機能、判断能力が低下すると知られているが、最近は自覚するほど独り言が増えた。
脳の表面は膜で覆われているそうだが、それをさらに厚い膜で覆われているような感覚。頭の中のいろいろな部品がうまく働いていない。
帰り支度をしながらそんなことを考えていると、ふと倉庫の隅の引き出しに目が留まった。
例の鏡。
この倉庫にあるいわゆる呪物はどれもマイナスのエネルギーを感じさせる。その中でも特にこの鏡はきつい。入職してすぐのレクリエーションで、引き出しに入った箱を見せてもらった。
桐の箱には呪符が隙間なく貼られていた。相当古いものだろう、箱はいたるところが傷つき、カビなのか変色している箇所がいくつもある。
中には鏡一つだけ入っているそうだが、館長を除いて箱の中を知る職員はいない。
「鏡に殺された人間は片手じゃ収まらない」と言って館長は手をパーにしていた。
この美術館が呪物を扱うようになってから数か月後、隣町の大地主が突然持ち込んだ物で、"映した人間を殺す鏡"というキャッチ―なフレーズに館長も即引き受けたそうだ。しかしその逸話と禍々しい見た目、何より誰もが感じる負のエネルギー、そして譲り主の「絶対開けてはいけない」という警告から、箱の外に出してみようとした者は誰もいない。
見るものを映す鏡の性質上、鑑賞者に影響が出かねないとのことで、館長も「冗談じゃすまなそうだね」と展示はしなかった。呪いの品を扱う美術館にあって日の目を見ない呪物。やはり気にならないと言ったらウソになる。とはいえ引き出しには鍵がかかっておりその鍵も館長しか知らない。きっと見ることは無いだろう。
「いつか見てみたいな」
「……殺されてもいいから」
冷たい闇に向けたつぶやきが響いていた。
死因は呪い 冬野川一郎 @huyunogawa
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