「……落ち、た」


 監察使の試験会場となった貢院こういんである。結果が掲示されることになっていたその日、詩鸞は掲示板に張り出された合格者の氏名一覧を見上げて、呆然とつぶやいていた。


 そこに詩鸞しらんの名はない。穴が空くかというほどに見詰めてみても、いくどもいくども文字面を辿ってみても、ないものは、ない。


「……落ちた」


 ぽかんとしたまま、詩鸞は確かめるようにもう一度つぶやいていた。


「本当だ。あんたの名、ないな」


 隣に立った令雅が追い打ちをかけるようなことをしれっと言ってくる。傷ついてるんだからとどめを刺さないで、と、詩鸞は思わず、紫黒の眸で相手を睨み据えた。


「誰のせいですか!?」


「うん。そうだな。俺のせいかもしれない」


 詩鸞の八つ当たりに令雅がまたさらりとそう答えたりするものだから、ますます情けない気分に襲われる。詩鸞はがっくりと肩を落としてうなれた。


「っ、うぅ、ばか令雅……あなたのせいなわけがないでしょうが。単にわたしの力量不足ですよ」


 そう認めて、詩鸞は、はあ、と、大きな溜め息をつく。すると令雅は、ちら、と、困ったように苦笑した。


「だが、試験の後、あんた、俺が注いだ神気の扱いが難しかったと言っていたじゃないか。なら、実際、半分は俺のせいだ」


「……そんなの、もともとわたしの神気の扱い方がへたくそなんですよ。ここであなたに落第の責任まで背負われたら、ちょっと自分がみじめになります。やめてください」


「なるほど、わかった。じゃあもう言わない」


 令雅は肩を竦め、あっさりと引き下がった。


 並んで貢院を出て、そのまま帰途につく。


 いったん神気をすっかり失い、その後、陰陽和合だか陰陽双修だかの術で令雅から気を分け与えられるという特殊な状況に、どうやら詩鸞の身体の感覚はまだまだ馴染んでいないようだ。おかげで、試験のときもいろいろなことがいままで通りとはいかなくて、十分に力を発揮することができなかった。


 とはいえ、何をどう言いつくろってみたところで、落第は落第である。


「まあ……また四年後にがんばることにします」


 詩鸞は気を取り直すように言って、ふう、と、息をついた。


 それから、すこし笑う。自分でも不思議なことに、わりとすっきりした気分だった。


 幸い、辞退でも棄権でもなく単純な不合格なので、受験資格が失われるようなことはない。しかも、次回の試験では一次の学課試験は免除されるから、これから四年、実技の修練に励むことにしよう、と、そう思った。


「次の試験は四年後か……どうするんだ?」


「なにがですか?」


「それまでの間だ。――俺の屋敷は部屋も空いているし、次の試験に備えてあんたがこのまま京城に留まるっていうんなら、ずっとうちにいてくれて構わないんだが」


「あ……」


 詩鸞は、はた、と、立ち止った。


 そうか、と、思う。そういえば、その問題が残っていたのだった、と、思い出した。


 詩鸞はそもそも監察使の試験を受けるため、京城である瑛洛えいらくへ上京してきていた。すべての試験日程が終了し、結果も出たいまとなっては、もはや京城に留まる理由はなくなっていた。


 否、最初から――合格しようがしまいが――今回の京城での滞在は限られた期間になるはずだったのだ。


 試験が終われば、東の辺境へ帰るつもりだった。


 それなのにどうして、あたりまえのはずの帰還を、いま、こんなに迷うのだろう。


 理由など、考えるまでもない。詩鸞は紫黒の眸でじっと令雅を見詰めた。


 ひと房、青銀がまじる前髪が、風にもてあそばれる。焦げ茶色に赤毛のまじった令雅の髪も、ゆるく、なぶられていた。


 橙まじりの金茶の眸が、こちらを真っ直ぐに見返している。


 このまま次の試験が行われる四年後まで、令雅の屋敷に置いてもらったらどうだろう。令雅はそれでもいいというが、きっと悪くない暮らしだ。


 令雅は詩鸞を大事にしてくれるだろうし、たとえ詩鸞が何もせずにいたって――もちろん試験のための準備はするにせよ――何ら文句を言ったりはしないに違いない。変わらず、詩鸞の暮らしを甲斐甲斐しく世話してくれるのではないだろうか。


 とても、楽だ。


 けれども――……それで自分はしあわせだろうか。ほんとうに満足だろうか。


 なんだかちがう、と、そんな気がしていた。


「わたし……」


 意を決して、詩鸞は口を開いた。


「うん」


 令雅は静かに応じた。


「わたし、一度……利陶へ帰ろうかと、思います」


 自分の逡巡に決着をつけるように、詩鸞は真っ直ぐに令雅を見て言った。そして、にこ、と、笑う。


「向こうで暮らしていた家もそのままですし、菜圃はたけとかも、留守の間のことを人に頼んだままになっています。これでも一応、近所の子供たちに字や計算を教えていたりもして、それも、気になっていますし」


 京城へ来る前、詩鸞には、利陶の廬《むら》での暮らしがたしかにあった。それを放ったままにしておくことは、やはり、できなかった。


 それに、今回は監察使の資格がとれなかったので帰郷は先になってしまうとはいえ、なき故郷、芝蒼しそうへの想いもある。次の試験への準備をしつつ、故郷の芝蒼のために出来ることを考えたいという気持ちにもなっていた。


 大事なものを、めいっぱい大事にする。


 けれど詩鸞は、大事な故郷をちゃんと大事にする前に失ってしまった。


 それでも、いま、思う。過去は変えられないが、芝蒼の現在いまの向こうには、もしかしたら、未来みらいがあるのかもしれないのだ。


 それがどんな形なのかはわからなかったが、いつか故郷の地に再び立つ日がきたら、そこから、何かが始まるのかもしれない。来るべきそのときには、自分は芝蒼とどう関わっていきたいのか、四年の間に、考えておこうとも思っていた。


 そのためにも、一度、故郷へ帰る。


 また四年後に上京するときまで、令雅とは別々に生きる。


 しゃくではあるが、すこし淋しい気もする。けれども、自問の結果、詩鸞が選ぶべきはその道であるような気がしていた。


 令雅のために何かしてやれるなら、彼の傍にいたい。でも、役にも立たないのにただ傍にいるだけでは、きっと、自分は満足しない。


「――そうか」


 詩鸞よりも一歩先まで歩いていた令雅が、そこで立ちどまってこちらを振り向いた。相手は短い言葉とともにゆっくりと頷くと、金茶の眸を細めた。


「まあ、俺としては、どっちでもいいが」


 続けてそんなふうに言われて、ふと、胸が詰まった。否、ちくりと痛んだ。


 それだけか、と、おもう。


 理不尽なのはわかっているが、令雅の反応にすこしばかり腹が立っていた。帰ると決めたのは自分のくせに、そんなにもあっさり詩鸞を帰してしまってそれでいいのか、令雅はすこしも寂しくはないのか、と、相手を責めるような気持ちが湧いてくる。


 令雅には、迷いはないのだろうか。


 せめて一度くらい、引き留めの言葉を発してくれたってばちは当たらないだろうに。


 知らずうつむいて、詩鸞はてのひらを握り込んでいた。


 故郷は捨てがたいが、やはり令雅の傍にもいたいのだ。帰る、と、いま決めて言ったばかりなのに、ほんとうはまだ詩鸞は逡巡したままなのかもしれなかった。


 やっぱり帰らないでおこうかな、と、舌の根も乾かぬうちにへらりと笑って前言を撤回したい自分を、矜持でなんとか押さえているだけなのだ。


 自分だけがこんなふうに思っているのだろうか。別離を重く受け止めているのは、詩鸞だけなのだろうか。


 だったら腹が立つし、くやしくて、さびしくて、せつない。詩鸞はくちびるを噛んだ。


 一生を捧げるとか言っていたくせにこの薄情者め、と、握っていたこぶしを令雅に向けて振り上げてしまおうかと思った、そのときだった。


「べつに、どっちでもいい。あんたが利陶へ帰るなら、俺が会いに行くだけのことだから」


「……え?」


「なんだ?」


「いえ……会いにきてくれるんだって思って」


「当然だろう。――そもそも、あんた最初から、監察使の資格を得たら辺境へ戻るつもりだと言っていただろう? あんたが帰ってしまうのを見越して、こっちは利陶へいく口実だってすでに用意済だ」


 ふ、と、令雅は笑った。


「口実……?」


「うん。――皇帝陛下にひとつ、褒美をねだってみた」


「褒美、ですか」


「そうだ。今回は大変な目にあったからな。その見返りとして……領地を賜りたい、と、頼んだ」


「領地、ですか」


「ああ……東の辺境の、芝蒼という廬を」


 続いた令雅のことばに、詩鸞は息を呑んだ。令雅は、金茶の眸で真っ直ぐに詩鸞を見ていた。


「不幸にも妖魔の被害にあった上、愚かな人間の欲のために理不尽に焼き払われて、いまは無人になってしまっている廬だ。ここを再びおこそうと思う。いつかまた人が住める廬にしたい。そのために、ぜひとも自分に領地として賜ってほしいと頼んだ……陛下は、快く聞き入れてくれたよ」


「令、雅」


「ある程度の形になってくるまでは、近隣の廬である利陶を足掛かりに芝蒼へ通うことになるだろうから……会いにいく」


 しんとした声で、真っ直ぐに告げられて、詩鸞は眸を熱く潤ませた。


「詩鸞。もしあんたが次の試験で監察使の資格を取って、芝蒼へ出入りできるようになったなら、俺の仕事を手伝ってほしい。もしも資格が取れなくても……いまは利陶ということになっている国の東の果てを、いつか、俺がまた芝蒼にする。そこまでを、人の領域に戻す。あんたの故郷は、俺がまた興すから……そうなれば、資格なんかなくても、あんたは故郷に帰れるよ」


 なんでもないことのように言って、令雅はやわらかく笑った。


 令雅がいま簡単に口にしたことを成し遂げるには、実際、どれほどの困難が伴うのだろう。それを思って、詩鸞はくちびるをわななかせる。言葉が出てこなかった。かわりに、相手との距離を詰めて、無言で逞しい身体に抱きついた。


 顔を上げると、令雅はまだ笑ったまま詩藍を見下ろしていた。


「お気遣い、ありがとうございます」


 詩鸞は伸び上がると、令雅の首に腕をまわして口づけをした。 


「でも、後半は余計なお世話ですよ。次こそはちゃんと及第するんですからね!」


 くちびるを離して照れ隠しに文句を言うと、相手は、くく、と、喉を鳴らした。


「じゃあ、あんたと一緒に芝蒼に行ける日を、楽しみにすることにする。そのときは天翔も……ああ、そうだ。まずは利陶まで、天翔と共に、あんたを送っていこう」


「でも、京城を離れて、大丈夫なんですか?」


「平気だ。新たな鳳凰が誕生し、京城の結界は万全だからな。佑祥もいることだし」


「それなら……お言葉に甘えてしまおうかな」


 利陶まで、令雅の乗騎の天翔の背に乗って、ふたりで向かう。すこし照れくさい気もするが、反面、うれしい気持ちもあった。


 詩鸞は、ふと、空を仰ぐ。


 澄んだ青の、果てしない広がりの中を、悠々と、一羽の鳥が飛んでいるのが見えていた。遠く、ほととぎすの啼く声が響いた気がした。

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【BL】八千八声を啼き続け あおい @aoi_tsuki

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