二十二 和合

「ふう」


 夕刻である。令雅の屋敷の一室で書物をひらいていた詩鸞は、虚空くうを仰いで、ひとつ大きな溜め息を漏らした。


 凝り固まった肩や腰を軽くこぶしで叩くと、んん、と、伸びをする。


 皇帝の登場によって急転直下の結末を迎えたあの日からすでに数日が経っていたが、太風の一件が片付いて以来、詩鸞には特にすることもなかった。おかげでここ数日、はからずも読書がはかどってしまっている。高く積み上がった冊子にちらりと視線をやった詩鸞は、なんだかな、と、頬杖をついてまた嘆息した。


 皇帝は、すでに十五年前から、異母兄の抱く野望を薄っすらとは感じ取っていたらしい。今回、京城の東に太風――太鳳たいほう――が顕現し、それを追っていった羽姫が消息不明になったあたりから、ひそかに皇宮司と呼ばれる組織を使って、兄である禁軍将軍の動きを探らせていたらしかった。


 そしてついに、太風の再びの出現に合わせるかのように私的に禁軍を動かそうとしたところを、すみやかに捕縛したということだった。


 あの日、城郭の上にいましめを受けた禁軍将軍の姿があったのは、そのためだったようだ。実際にあの場に集結した禁軍を率いていたのも、もちろん、すでに捕らわれた将軍ではなく、皇帝自らだったということである。


 なにしろ、鳳凰の代替わりは、有史以来はじめてのことだった。まるで前例のない再生の儀において不測の事態があったときに備えてのことであったらしいとは、詩鸞は令雅の副官の佑祥を通じて聞かされていた。


 禁軍に撃ち落され、落鳥した羽姫は、あのあと、父と同じく囚われの身となっている。叛逆罪で縄を受けた父娘おやこはいま、天牢てんろうという重罪人が収監される牢の中で、裁きの沙汰を待っているということだった。


 皇兄による叛逆計画に、鳳凰の死と再生、前代未聞の出来事が重なった京城は、しばし騒然とはなった。が、簒奪計画は未然に防がれており、実際に叛乱が起きたわけでもない。京城に実質の被害がなかったということもあり、数日経ったいま、すでにまちは平穏を取り戻したように見えていた。


 予定されていた監察使の試験もまた、期日通りに実施される。


 その日が、ついに明日に迫っていた。


 とはいえ、神気を失った身の詩鸞にとっては、監察使の道はすでに閉ざされてしまったものだ。それでも、なんとなく、未練がないでもない。


「……いちおう、受けにだけいこうかな」


 神気を操る実技の試験である。いまの詩鸞は何も出来ずに終わるだけなのは目に見えてはいたが、それでも、勝手に辞退したり棄権したりしたのでなければ、この先の受験資格だけは残る。


「でも、な」


 一方で、そうしたところでそれが何になるのだという気持ちもあった。この身に神気が戻る見込みは、ない。


 監察使の資格は手にはいらない。


 だから、故郷の地を踏む日も、来ない。


 詩鸞は、はあ、と、また長嘆息をもらした。


「これから、どうしようかな」


 これまで詩鸞は、監察使の資格を得ることだけを目標に、日々を暮らしてきた。それを失くしてしまったいま、この先をどう生きていくべきか、ちょっと途方に暮れてしまう。早いところ次の目標を見つけなくては、と、そう思うものの、それがなかなか簡単ではなかった。


 それでも、これは、後悔しているのとはちがう。


 人生の目標を失ったようなもので、たしかに胸に空虚感があるのは否定しない。それでも詩鸞は、不思議と、重苦しく暗い気持ちにとらわれているわけではないのだ――……令雅がちゃんと生きているからだ。


 京城衛将軍である彼は、あの日以来、ひどく忙しそうにしていた。屋敷の中でもほとんど見かけることがない。どうやら諸々もろもろの事後処理に追われて、京城衛の屯所との行き来だけではなく、京城内や皇宮なども含めて各所を駆けまわっているらしかった。


 ちょっとくらい顔を見せてくれてもいいものを、と、そう思うのは、きっと詩鸞の我儘わがままなのだろう。何の職も持たない自分とはちがって、彼は京城守護の重い任を負っているのだ。詩鸞のために時間を割いてくれないからといって、うらむ筋ではないことはわかっていた。


 あらためて、彼我の立場の大きな違いを、否応なく、考えてしまう。


「そういえば、ここにも……そういつまでもお世話になるわけにはいかないよな。わたし、無職だし。もう、令雅の治療っていう名目も、ないわけだし」


 令雅の身を覆っていた痣はあれ以来すっかり消えたままで、身体も特段、何の問題もないようだ。そうなれば、あとのことはもう通常の医者の役目の範疇であり、もはや詩鸞が令雅のためにしてやるべきことはない。


「どう、しようかな……これから」


 はあ、と、再び深い溜め息をつく。この問題については、考える度にひどく気分が重くなって、ついつい結論を先送りにばかりしていた。


 もう、詩鸞には、京城にいる理由がない。


 令雅の傍らにいなければならない理由も、ない。


 どうしよう、と、そっと吐息したときだった。


「――詩鸞、いるか?」


 扉の向こうから誰何すいかの声がした。


「っ、令雅」


 詩鸞は鼓動が跳ねあがるのを感じた。慌てて立ち上がって扉を開けると、そこには、軍装ではなく、珍しく普通の着物姿の令雅が立っていた。


 一緒の屋敷にいるはずなのに、顔を見るのは、なんだかとても久し振りな気がする。詩鸞はまじまじと、いまでは痣もすっかり消えた相手の顔を見詰めた。


「あ、な、なにか、わたしに御用でしたか?」


「うん、ちょっとな。――入ってもいいか?」


「え? あ、は、はい。どうぞ」


 なぜかしどろもどろになってしまいながら、詩鸞は令雅を招き入れた。


 一緒に長椅子に腰掛ける。それからもどうしていいかわからず、令雅から目を逸らしつつ、居た堪れない気分を持て余した。 


 令雅も、しばらくの間、黙っていた。


 もしかして何か言いにくい話でもしに来たのだろうか。そう思ったとき、詩鸞は、はっと顔を上げた。


「も、もしかして……いつ出ていくんだって、わたしに催促に来たとか?!」


「は?」


「だってわたし、もうここにいる理由なんかありませんし!」


「いったい何を言っているんだ、あんたは」


 令雅は呆れたように溜め息をつくと、詩鸞の肩を抱き寄せた。


 そのままくちびるを寄せられる。ちゅ、ちゅ、と、小鳥が餌をついばむような軽い口づけを繰り返され、なんだこれ、と、詩鸞は戸惑った。


「も、もう、あなたとわたしが接吻をかわす必要など、ないでしょう? ――あ、それとも、もしかしてまだ呪詛が残っているんですか? それで、治療のためにここに来たとか……」


「ちがう。――ほんとうに鈍いな、あんた」


 令雅は呆れたように溜め息をついた。


「こっちは、必要とかそういう問題じゃなく、口づけているんだが」


 いったん詩鸞からくちびるを離した令雅はちいさく肩をすくめて苦笑してから、再びこちらに顔を近づけた。


「で、でも……だって」


 詩鸞は顔を背けて、令雅からの接吻を避けてしまう。


「あんたな……だって、何だ? 理由とか必要とか、そんな問題じゃないだろう。――俺はしたいからしているだけだ。あんたは、俺とはもう、したくないのか?」


「っ、な、な、あなたね……っ!」


 言うに事欠いてしたいって何だ、と、思う。いったいこの空気は、展開は、どういうことなんだだ、と、詩鸞の頭は大混乱していた。


「あ、そ、そうだ! 結婚! あなた、結婚のご予定があったんでしょ! なのにわたしとこんなことをしていて、いいんですか? 新郎がこうでは、新娘はなよめになる人に不誠実なのでは?」


 混乱の果てに、詩鸞は思いつき半分に、そんなことを言い募った。そして、自分で言っておいて、自分がひどく傷ついた。重い気分になる。


 そうだ、令雅には結婚の予定があったはずで、それはどうなるのだろう、と、あらためて思った。呪詛は解けたのだ。たとえば、呪詛のために許嫁との婚姻が駄目になっていたのだとしたら、もう障害はない。あらためて婚儀を、と、そんな話になっていたっておかしくはなかった。なにしろ婚礼衣装まですでに用意されているような段階だったはずなのだ。


 令雅は誰かと結婚するのだろうか。


 たしかめるように、ちら、と、相手をうかがう。


「それとも、わたしを……愛人にでも、するつもりですか?」


 こちらを抱きすくめる腕をゆるめてくれない相手を、せいいっぱい、睨んだ。


 そうだ。京城衛将軍ともなれば、きっと、正妻のほかにめかけのひとりやふたり、いや、三人や四人や五人や六人、もっともっと、当たり前に持つのかもしれない。詩鸞はその中のひとりにされるのだろうか。


「あんたには俺がそんなことをするような男に見えているのか?」


 心外だとでも言いたげに、相手は眉をひそめた。


「それは……そんなこと、ない、ですけど」


 むしろ令雅なら、誰かたったひとりの相手を一途に想いきそうな気がする。でも、だったらなおさら、結婚するかもしれない男がいまどうして詩鸞のところへやってきて、口づけなど仕掛けてくるのだ。


 もしかして、独り身でいるうちの最後の遊び、思い出づくりのつもりだったりするのだろうか。


 ぐるぐると――令雅に限ってありそうもないことまで――いろいろと考えてしまって、勝手にひとりでいじけていると、令雅が、はあ、と、嘆息した。


「なんですか?」


「事後処理の仕事もあらかた片付いたし、満を持して想いを寄せる相手のところに忍んできたのに……どうしてあらぬ疑いをもたれているんだろうと思ったんだ」


「だって……結婚」


「予定がないでもなかったと言っただけだろう」


「婚礼衣装まで用意してあったのに」


 口を曲げると、令雅はちいさく苦笑した。


「強いて言うなら、その予定の相手は……あんただったんだが」


「……は?」


 思わぬ言葉に、詩鸞は目をぱちくりと瞬いた。


「最初に一緒に茶を喫したとき、蓉香ようかが吉祥の菓子も出したろう? あれも、まあ、強いて言えばあんたとの婚礼のために準備したものだったんだ」


 令雅は、くすん、と、肩をすくめた。


「……どういうことです?」


 たしかにあの日、梅の形の菓子を食べた。紅梅の菓子はめでたい席に供されるものであり、蓉香もまた特別な菓子だとか言っていた気はする。


 が、それが詩鸞との婚礼のためのものだったとは、意味がわからない。


 眉を寄せて怪訝な表情をすると、令雅が、ちら、と、苦笑した。


「なにしろ、俺が受けたのは、まぐわえという託宣だったんだ。最初、現れる相手は女性だろうと思い込んでいた」


「はあ、それで?」


「こっちの頼みは無茶そのもの。相手が呑んでくれる可能性は高くはなかろうと思ってはいたが、万一、よほどやさしく、お人好しで、俺に同情してくれるような相手だったら……まぐわいの前に、結婚を申し込もうと思っていた。無理を強いる。だからせめて、俺の一生を、その相手に捧げようと」


 詩鸞はきょとんとした。


 では、令雅と結婚を約束している女性などというものは、そもそも、存在しなかったということだ。


 なんだ、と、思う。もやもやして損をした、と、思わず口を引き結んだ。かえって腹が立っていた。


 しかし、そんな詩鸞の立腹も、続く令雅の言葉とやさしい抱擁とが融かしてしまう。


「俺は、あんたのものだ」


 令雅が詩鸞の手を取り、もう痣のなくなった己の頬にふれさせる。


「あんたは女ではなかったから婚姻というわけにはいかないが。それでも、俺のすべては、あんたのものだ。――なにしろあんたはお人好しで、やさしくて、俺のためにその身をなげうってくれたんだから……俺も、俺の人生のすべてを、あんたにやる」


 そうでなくては公平じゃない、俺はあんたのものだ、と、令雅はそう繰り返した。


「そういうつもりで、いまも、ここへ来ているんだ」


 そのまま、詩鸞のてのひらにくちびるを寄せる。じ、と、橙まじりの金茶の眸が、間近から詩鸞を見詰める。口づけされたところが一気に熱を持った気がして、詩鸞は真っ赤になった。


「なっ……っ!」


 言葉を失って、口をぱくぱくさせた。そうするうちに、ふ、と、目を細めた令雅が、ゆっくりと詩鸞を抱き込んでくる。甘えるように肩口に額を擦り付けられると、天翔に懐かれているときみたいで、なんだかくすぐったい気分になった。


「俺の一生を、あんたに」


 令雅は衒いもなにもなく、繰り返した。


 詩鸞は、むう、と、口を結んで相手を睨む。


「………………わたしより長生きするあなたの一生でないと、受け取りませんよ。あなた、わたしより二つ年下なんですから」


 精いっぱい意地をはって、そう言ってはやったが、きっと頬を染めて眸を潤ませての文句では、令雅にも効きはしないのだろう。口許をゆるめた相手が、返事をしないままに、また詩鸞に顔を近づけてきた。


 金茶の眸に見つめられる。


 気恥ずかしくて、目を瞑る。


 くちびるが重なってきた。


 最初は軽く啄むように、それから、深く重ねられた。


 うっとりとなりかけたところに、ピィ、ピィイィ、と、高い鳴き声が聞こえてきて、詩鸞ははっと我に返った。


「あ、れ……天翔の声?」


「だな。俺たちの話し声が聞こえてるんだ。それで、構いに来いと呼んでる」


「えっと……いかない、の?」


 がっちりとこちらを腕の中につかまえたままの令雅に、詩鸞はおずおずと訊ねた。


「いまは天翔より俺はあんたをかまいたい。あんたにも……俺をかまってほしい。だから、行かない。――あんたは? 天翔のところへ行きたいのか?」


 ことりと首を傾けて問われ、ずるい、と、思う。


 こんなにもしっかと抱きしめて、離してくれる気などまるでなさそうなのに、と、心の中でだけ令雅を責めた。


 そして、答えないまま、観念したように再び目を瞑る。


 途端に、令雅は詩鸞にくちびるを寄せてきた。今度はすぐに、ぬるりと舌が入ってくる。令雅とは何度も何度も口づけをかわしてきた。でも、これはもう、治療のためのそれではない。


「ん……ん、ぅ……ぁ……っ」


 ちゅく、くちゅ、と、粘度の高い音を立てながら、口の中で舌がうごめく。絡められ、吸われる。息がくるしい。でも、うっとりもする。好き勝手に、さんざん口の中を蹂躙じゅうりんされ、解放されたときには、頭はぼうっとなるし、身体はとろりとなっているしで、詩鸞はどうしていいかわからなかった。


 くたりと令雅にもたれかかると、そのまま、抱き上げられて寝台まで運ばれてしまった。しとねに横たえられ、たくましい身体にし掛かられる。


 すこしだけ重たくて、でも、あたたかくて、いのちを感じた。同じ身体を抱えて泣いた、あのときの恐ろしい冷たさとは、大違いだった。


 令雅はまず自分が脱いで、しなやかな筋肉のついた上半身をあらわにすると、こちらの帯に手を伸ばした。帯をほどかれ、あわせを開かれる。顕わになった肌を、相手の手指がゆっくりと撫でた。

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