二十一 再生の時

 紅い霊鳥は、大きく羽を広げた。神秘的な鬱金うこんの眸が、静かに地上を見下ろしているかのようだった。


 人々が祈りを捧げる神廟の、祭壇に祀られている気高い神像。


 いま目の前に現れたその鳥の姿は、まさに、その鳳凰像そのものだった。


 カァン、と、鳥は啼く。ばさ、ばさり、と、羽ばたいて、ゆっくりとこちらへ降りてきた。


 詩鸞の目の前に降り立つと、鳳凰はすらりと伸びた優美な首を曲げて、そのくちばしをしずかに令雅のほうに差し出した。


 ぽう、と、あたりに光の泡が浮かび上がっては消えたような気がした。まるで冬を耐えきったあとの春の麗らかな陽射しのような、そんなやさしい気配に包み込まれる。


「あ……」


 令雅の肌を覆っていた痣が消えていく。それと同時に、血の気の失せていた頬に、ほんのりと赤味が差してくるのがわかった。


 やがて彼のくちびるが、ほう、と、静かな息をもらす。


「れい、が」


 呼びかけると、まぶたかかすかにふるえて、持ちあがった。


 橙まじりの金茶の眸が、その下に覗く。鳳凰が奇蹟を起こしてくれたのだ。詩鸞は感極まって、無言で令雅に抱きついていた。


「……し、らん」


 掠れ声がこちらの名を呼ぶ。


「ばか。この、うそつき。――一生かけて……わたしに詫びろ」


 心配したんだから、と、詩鸞は泣きながら令雅を罵った。


 令雅はまだ詩鸞に身をもたれさせたまま、わけがわからないというふうに数度、目を瞬いた。詩鸞は、令雅の身をぎゅっと抱え込むようにして、しゃくりあげる。しばらくしてから令雅は、口許をすこしだけ苦笑のかたちに持ち上げて、ごめん、と、ささやき声で言った。


 鬱金の眸を細めてそれを見届けた鳳凰が、ばさり、と、羽を広げる。


 カァン、と、ひと声高らかに啼き声を響かせると、鳥の中の鳥、翼あるものの王たる最高神は、また、ゆっくりと空中へと舞い上がった。



 しかし、喜びに包まれたのもほんのわずかの時間だった。


 詩鸞が現実に引き戻されたのは、不意に、頭上に巨大な影が差したからだ。振り仰ぐと、そこに現れたのは鳥船である。赤地に金のぬいとりが施された軍旗を掲げているのが見える。それは兵卒を乗せた軍艦だった。


「……鳳凰、旗」


 詩鸞は呆然とつぶやいた。


 中央に鳳凰の図像を戴いた旗がひるがえっている。禁軍だ。視線を巡らせると、鳳凰が飛んでゆく先、京城の郭壁の上には、数多あまたの霊鳥が並んでいた。


「う、そ」


 そう言ったきり、詩鸞は言葉を失った。


 近くにいる、佑祥をはじめとした京城衛の兵卒たちも、みな顔を蒼白にして、その錚々そうそうたる威容いようを眺めている。令雅もわずかに眉根を寄せて、くちびるを引き締め、ひどく厳しい表情を見せていた。


 羽姫が先程言っていた通り、羽姫の父が率いる禁軍が呼応したということか。こちらには京城衛の兵卒がいるにはいるが、そもそも京城衛は少数精鋭の部隊だ。一騎ごとの実力はあちらよりも勝っているにせよ、いま目前に並んだあの数の禁軍を相手にして、とてもではないが適うとは思われなかった。


 郭壁の上に、ひとりの男の姿が見えた。


 赤毛の男である。遠くてはっきりとはわからなかったが、詩鸞の中で、その姿が、十五年前に故郷の廬を焼くよう命じた男のそれと重なった。


「――お父様!」


 羽姫が喜色の満ちた声を上げる。父将軍の率いる禁軍に合流するため、乗騎を駆って、そちらへと向かおうとした。


 まさに、そのときである。


 くうを切る音とともに、弩弓いしゆみからが放たれた。それは山なりの軌跡を描いて飛び、羽姫の乗騎の羽を掠める。霊鳥は均衡を崩し、そのまま落下した。


「どうし、て……」


 詩鸞は突然の出来事に呆然とした。


 なぜ、羽姫の父が率いるはずの禁軍が、娘の羽姫を攻撃するのだ。わけがわからずに令雅を窺うと、彼はじっと城郭のほうを見据えていた。


 上空を旋回していた鳳凰が、ゆっくりと郭壁の上へと降り立った。詩鸞はそちらへと視線を巡らせる。ちょうど鳳凰が舞い降りた辺りに、いま、もうひとり、男が姿を見せていた。


 先程の、羽姫の父親らしき男とはちがう。否、よく見れば、現れた男のすぐ傍らにいまも立ち尽くす禁軍将軍は、いましめを受けているようではないか。いったいどういうことなのだろう。


「あれ、は……?」


 男は、赤毛に幾筋かの白い房髪の混じる髪を高く結い上げていた。ちら、と、こちらへと向けられる眸が、遠くとも、まるで猛禽類を思わせる。その眼差しを、詩鸞はどこかで見た覚えがある気がした。


「あ……」


 思い出して、声を上げる。あれは、監察使の一次試験の合格発表の後、廟堂の神像の前で出逢った男ではないだろうか。


 男は自らの隣に降り立った鳳凰の優美な首に、ゆっくりと手を這わせるようだった。最高神とされる気高き霊鳥は、けれど、おとなしく男にされるがままになっている。


「……陛、下……」


「え?」


「あれ……皇帝陛下だ」


 令雅のつぶやきに詩鸞は目を瞠った。再び、男のほうへ視線をやる。


 すると、それまで鳳凰を撫でていた彼は、あろうことか、そのままその鳥の背に跳び乗った。それでも鳳凰は暴れるようなこともなかった。ばさ、と、大きく羽ばたく。男を背に乗せてゆっくりと飛び上がった至高の鳥は、やがて、詩鸞たちの目の前に再び降り立った。



「陛下」


 令雅が皇帝の前に平伏しようとする。詩鸞も慌ててそれにならおうとしたが、その前に、鳳凰から降り立った男が張りのある声でそれを止めた。


「礼はよい。楽に」 


「陛下……おそれながら、これはどういうことでしょうか」


 説明してほしい、と、血筋の上では叔父にあたるのだという皇帝に対し、令雅は問いを投げた。


 男は、ふ、と、目を細めてこちらを見た。それから、己の隣に依り添うように立つ紅い霊鳥を見て、その首のあたりをゆるく撫でてやっている。


「鳳凰は、代々の皇帝に依り添ってきた最高神だ」


 鳥は、皇帝なのだというその男に撫でられ、鬱金の眸を細めていた。ちいさな顔を、男のほうにすり寄せる。それは乗騎の天翔が、主の令雅に対してしてみせるような仕草だった。


「だが、鳳凰にもまた、寿命があるようなのだ。神託で鳳凰によって選ばれ、おれが皇位を継ぐことになったとき、もうひとつ、告げられたことがあったんだ。おれの在位のうちに鳳凰の寿命が尽きる、とな。――結界が弱まっていたのは知っていただろう」


 皇帝は令雅のほうへ眼差しを向けた。令雅がちいさく頷いた。


「あれは、当代の鳳凰がついに寿命を迎えたために起こったことだ。十五、六年も前からかな。だが、鳳凰の死は同時に、新たな鳳凰の誕生をも意味する。そも、鳳凰が司るのは、生と死、破壊と再生なのだからな」


 どこか令雅に似た面差しの皇帝は、甥に向かって、ゆったりと笑んで語った。


「本来なら、鳳凰再生は十五年前、東の辺境に太風……太凰たいおうが姿を顕した際に行われるはずだった。太風とは、まだ雌雄が別個体の状態の、鳳凰の雛だと思われる。京城の東に顕現するものを太鳳たいほうといい、国の東の端に顕れるものを太凰というそうだ。鳳凰の代替わりに際してそれぞれ降臨し、人に我が血を与えて形代かたしろとする。形代同士のまぐわいをもって合一し、雌雄同体の鳳凰と成る、と、まあ、伝説にはそう語られていたわけだが、なにしろ鳳凰の寿命は長い。代替わりの前例は、有史以来これまで、一度もなかった。おかげで実際に何が起こるのかはよくわからないまま……図らずも形代となったそなたらには、苦労をかけた。心から詫びよう」


「ど、ういう、こと……ですか」


 形代などと言われても、何が何だか、まるでわからなかった。詩鸞の問いに、皇帝はちいさく息を吐いた。


「本来の血の形代は、令雅、そなたの父母が務めるはずだった。十五年前、東に太風が出現したという報告があってすぐ、おれはそなたの父母を芝蒼へと向かわせた。護衛に、禁軍をつけて、な。だが、それが失敗だった。なにを思ったか、愚かにも、我が兄は禁軍を以て、太風を殺害してしまったわけだ。――今回のことで明らかになったが、兄はどうやら伝承の解釈を誤っていたようだな」


 太風の血を得る時、鳳凰を得る。この文言は皇家にて言い伝えられてはきたものの、詳細まで知るのは皇帝に限られるのだそうだ。血の形代による鳳凰の再生をいうものだということを知らなかった皇帝の異母兄は、太風を手に入れれば皇位を得られると思い込み、それを捕えようとした。その挙句に、謝って殺してしまった。それが、十五年前、詩鸞の廬が焼かれたときのことだったのだという。


「十五年前の段階で、令雅の父母によって、鳳凰再生の儀は行われるはずだった。が、太凰が失われたことによって、予定が狂った。――今月に入って、京城の東に太風が現れたという話を聞くまで、鳳凰の再生も、半ばあきらめていたんだが……」


 太風との戦闘の結果、令雅はその血を浴びた。そこへ折しも、十五年前、幼くして太風の血を浴びた詩鸞が上京した。


「偶然ではないのだろう。宿命が動いた、と、いうべきか」


 皇帝は鬱金色の眸を細めた。


 太凰は再生を司るのだという。太鳳の血を受けた令雅を癒すたびに詩鸞の身から生じていたほととぎすは、つがいの帰還を待ちわびる太鳳の想いを彼岸へと運び続けていたのかもしれない、と、皇帝は語った。


 そして、十五年前にひとたびは失われたはずだった太凰を、再び此岸へと呼びもどした。ついには、鳳凰の再生を為さしめたのだろう、と、ゆっくりと息を吐いた。


「国を預かるものとして……そなたらの献身に、心より感謝する」


 最後に皇帝は――さすがに膝を折ることこそしなかったが――令雅と詩鸞とに深々と頭を下げてくれた。

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