二十 歪んだ執心

 羽姫が剣を構えている。けれども、詩鸞はいったい何が起きているのかわからなくて、ただただ、ぽかんと固まっていた。


 そんなこちらの身体を必死のていで令雅が押しける。詩鸞を背に庇うように前に出る。


 羽姫が持ち上げた剣は、そのまま、令雅の身体めがけて振り下ろされた。


 剣先が令雅の身を容赦なく斬り裂いた。令雅は、ぐぅ、と、呻く。返すつるぎで腹をつらぬかれて、口から血を吐き出した。


「な……っ」


 詩鸞は、引き攣った、悲鳴染みた声をあげた。


 羽姫は笑って剣を抜く。


「ど、うして……」


 驚愕に目をいっぱいに瞠り、信じられない思いで詩鸞はつぶやいた。


「あら。京城衛の役目は終わったから、かしらね。ふふ、ありがとう、令雅。あなたもぼろぼろだけど、もう、太風もぼろぼろね。伝説の妖魔をひとりでここまで追い詰めるだなんて、さすが最年少で京城衛の将軍になっただけのことはあるわ。――この状態の太風なら、もう、禁軍がいれば生け捕れる」


 そう言って、羽姫は目を細めた。


「はっ……や、はり、か」


 苦しげな、絞り出すような声が聞こえて、詩鸞ははっとした。見下ろすと、口から血を流しつつ、令雅が羽姫を睨み据えていた。


「令雅……しゃべっては……」


 詩鸞は令雅の身を案じる。酷い怪我なのだ。一刻も早く手当てをしなければならないのは明らかだった。


 だが、助けはこない。羽姫の背後には、朱家の私兵らしき男たちが立って、京城衛に対して睨みを利かせていた。


 向こうに佑祥が見えている。けれども、迂闊うかつに近づける状況ではないらしく、じりじりと間合いをはかっていた。佑祥のほかの京城衛の兵卒たちも、同じである。


「令雅……血、が……」


 詩鸞はふるえる声でつぶやき、とにかくも己の着物の袖を裂いて、令雅の傷口に宛がった。


 令雅が呻き、苦悶に顔を歪ませる。でも、しないよりはましだ。


 詩鸞は泣きそうに眉根を寄せた。布が赤く染まっていく。誰か、と、おもう。誰か早く助けて、と、荒い呼吸を繰り返す令雅の身をきつく抱いた。


「……お、まえ……」


 令雅がまた薄目を開き、羽姫を見据える。


「俺の部下、を……殺した、な」


 令雅が口にする部下というのは、おそらくは最初に羽姫とともに太風を追って出た京城衛の兵卒のことだろう。羽姫は、太風の巣の傍で妖魔に襲われ、その際に乗騎や同道した者がやられてしまったと言っていた。が、令雅は羽姫の口から語られたその言葉を真実だとは思っていなかったようだった。


「あら、意外。気づいてたの? いつからかしら?」


 羽姫が、場にそぐわぬ、明るく弾んだ声で言う。令雅はますます相手をめつけた。


「おまえ、に、再会した、とき……おまえ、は、妖魔に襲われたと、言った。が、戻った部下の、乗騎の傷、は、明らかに、刀剣によるもの、だった」


 そういえば、そうだった。令雅の部下の遺骸を背に乗せ、自らも酷い怪我を負ってなお戻ってきた霊鳥にあったのは、刀剣による傷だと令雅は言っていたではないか。だから誰かの陰謀が絡んでいかもしれない、と、令雅は最初からそうした可能性を考えの中に入れていた。


「あの、発言……そのうえ、ひとり戻った、おまえ、を……うたがわざるを、えなかっ、た」


 羽姫が消息不明だったのは表向きのことで、実際は、彼女こそが、何らかの目的のためにずっと暗躍を続けていたようだ。羽姫を保護し、彼女の口から妖魔という明らかな虚言が出たときから、令雅は彼女を疑いはじめていたらしかった。


「あら、残念。露見しないように両方とも始末させたはずだったのに、鳥のほうは生きてたのね。詰めが甘かったわ」


 ふ、と、羽姫は冷酷に笑った。


「――なにが……目的、だ」


「目的? そんなの、決まってるじゃない。太風を得る時、鳳凰を得る。――わたしの父の、皇位のためよ」


「……馬、鹿な、ことを……」


「そうかしら? 至尊の地位だわ。父が皇帝ともなれば、あたしだって、いち皇族ではなく、公主ひめの身分よ」


「それ、が……なんだ、と」


「父は前帝の長子、本来なら皇帝になったはずだったのよ。それが、鳳凰の託宣だかなんだかのせいで、いまの皇帝に横から皇位をさらわれたの。自分のものになるはずだったものを取り戻そうとしたって、別に、おかしくないでしょ?」


「お、ろか、だ」


「なんとでも言ったらいいわ。とにかく、太風はあたしたちの手に入る。それもこれも、令雅、あなたのおかげね。あなたが太風を弱らせてくれたおかげで、父は十五年越しに、ようやく太風を手に入れ、鳳凰……皇位を、得るの。悲願成就よ」


 ふふ、と、羽姫はまたおかしげに笑った。


「……十五、年?」


 詩鸞は羽姫の何気ない発言を聞き咎めて、鸚鵡返しに口にしていた。


「十五年前に……あなたの父上は、いったい何を……?」


 羽姫の父は、禁軍将軍なのだという。その人物が、十五年前にしたこととは、何だ。口の中が苦い。なんとも嫌な予感を覚えつつ、おそるおそる、たしかめるように口にした。


 そして羽姫は、また、何でもないことのように言う。


「東の辺境に太風が出たのよ。皇帝は、令雅の両親を辺境に遣いに出した。父はそれに、禁軍を引き連れて、同道したわ。またとない好機だった。皇帝を出し抜いて、皇帝より先に、太風を捕らえようとしたの」


「そ、れで……?」


「火攻めにしたんですって。生け捕るまであと一歩のところまで行ったのに、太風は結局、天へ昇ってしまったって。たぶんあれは死んでしまったのだろうって、お父様はおっしゃっていたけれど……思い出すたびに、ほんとうに悔やまれるとも、ことあるごとに言っていたわ。あとすこしで、皇位は己のものになっていたはずなのにって」


 羽姫の言葉に、詩鸞は色を失った。このひとは、どうして、こんなにも明るい声であの日のことを語っているのだろう。あのとき、罪もない芝蒼の人々がどれだけ失われたのか、知らないのだろうか。考えないのだろうか。


「そ、んな、ことの、ために……」


 詩鸞の声は、怒りをふくんでふるえた。


「そんな、自分勝手な欲望の、ために……わたしの廬を、焼いたの、ですか」


 妖魔の害を広げないために、芝蒼の廬でその進撃を止めねばならなかった。そのために、廬に火をつけるのも仕方のない選択だった。そうに違いない、と、これまで自分を納得させてきたのが、馬鹿みたいではないか。


「ああ、あなた、芝蒼の人間なのね。そんなことって言うけど、尊い大業なのよ。そのいしずえになれたことを、芝蒼の民は、誇るべきじゃないかしら」


「っ、ふざ、けるな! わたしの、廬は……家族、は……そんなことの、ために……うしなわれた、の」


「まあ、すこしは、あわれかもしれないわね。だけど、大業に犠牲はつきものでしょ。仕方がなかったのよ」


 あわれだと口にしながらも、すこしも憐れんだふうもなくあっさりと言われて、詩鸞は息を呑んだ。口惜しさに握り込んだてのひらに、爪が食い込む。憤ろしくて、たまらなくて、言葉が出てこなかった。こぶしがふるえる。目頭が熱い。


「――それ、は……」


 そのとき、令雅が、ぜい、と、息をした。はっとした詩鸞は令雅を見下ろす。


「っ、令雅……だめ」


 無理をしないでくれ、と、懇願するように詩鸞は令雅を抱く腕に力をこめた。けれども相手は、歯を喰いしばって羽姫を見据える。詩鸞の怒りをも代弁するかのような、それはひどく強い眸だった。


「仕方がない、など……それ、は、犠牲に、する側、が、言って良い、言葉じゃ、な、い」


 途切れ途切れに、呻くように、令雅は言う。


 それでも羽姫は、は、と、鼻を鳴らすだけだった。


「ずいぶんよくしゃべるのね、令雅。もしかして時間稼ぎのつもりかしら。あっちであなたの部下が機をうかがっているものね。助けが来ると思ってるの?」


 令雅は、ぐ、と、言葉を呑む。羽姫の指摘の通りだったのかもしれない。


 その様子を見た羽姫が、図星みたいね、と、笑った。


「でも、無駄よ。じきに父が禁軍を率いてきて、あそこの京城衛もふくめて、みなを取り囲むわ。みんな片付けてしまえば、ここで何があったか知る者はいなくなって、好都合だから。――あなたたちにも、父の大業の犠牲になってもらうわね」


「っ、ふざけないで!」


 詩鸞は叫んだ。


「大業の犠牲? 仕方がない? そんなふうに考えている者に、至尊の位などふさわしいわけがない! 人の上に立つ資格など、ない……っ!」


 民が国のためにあるのではない。国が民のためにあるのだ。最も大事にするべきたみないがしろにして気に留めない者に、国を治めることができるはずもないではないか。そんな当たり前のこともわからぬ者の、くだらない野望のために、自分の廬はあんな悲劇に見舞われなければならなかった。それが、口惜しくて、口惜しくて、ならない。


 怒りをぶつけた詩鸞を、口許に嘲るような笑みを浮かべて、羽姫は見下ろした。


「とるに足りない庶民のあなたに、いったい何がわかるの。さっきも言ったけれど、あたしの父はさきの皇帝の長子なの。本来なら皇位につくはずだった、尊い身分なのよ。皇位は父のもの、それこそが正当だわ。手にするはずだった地位を取り戻そうとして、なにが悪いっていうの?」


「やり方ですよ! やり方っ!」


 詩鸞は令雅をぎゅっと抱いて、声を荒らげた。


「皇位を継げる血筋を持つ者がそれを望むのは、べつに、かまいません。わたしのような取るに足りない庶民にとって、そんなもの、どうでもいいことですからね。でもね、国が守るべきは、民ではないのですか? 国とは、民の集まりではないのですか? その民を蔑ろにし、踏み潰してまで得る皇位に、いったいなんの意味があると? 皇位を望むというなら、民のために我が身をなげうって尽くすくらいのことを、あたりまえのようにしてみたらどうなんですかっ?! やることが逆なんですよ! 逆! そんなんだから皇位につけなかったのでしょうが! ふざけるなっ!」


 一気に言い募る。目頭が熱かった。感情の昂りは涙となって、気付けばまなじりからほろりと伝い落ちていた。


「令、雅……令雅」


 いつか令雅が詩藍に詫びてくれた夜を思い出す。国に代わって、皇帝に代わって、廬を焼いた張本人の禁軍将軍に代わって、令雅は真っ直ぐに詩鸞に謝罪の言葉を述べてくれた。


 そもそも彼が直接関わっていたわけでもないのに、それでも、国のためには仕方がなかった、と、そう開き直らず、すまなかったと言ってくれた。それだけで、詩鸞の心はどれほど楽になっただろう。


 それに、と、詩鸞は思う。


 令雅は詩藍に犠牲を強いることを最後まで嫌がった。全体の利益を考えるなら、最初から、詩鸞を無理にでも抱いて呪詛を解いてしまえばよかったのだ。それなのに、最後まで、なるだけ詩鸞の都合を優先しようと努めてくれた。


 そのくせ、自分は真っ先に、我が身を賭した戦いの渦中に身を投じてしまうのだ。


「令雅……令、雅」


 詩鸞はぼろぼろと泣きながら令雅を抱き締める。


 令雅が、ぜい、と、苦しげに息を吐いた。


「……泣く、な」


 掠れ声が耳許に囁く。


「あなたが、泣かしてるん、です……この、うそつき」


「……うん……ごめん」


 それが最後の言葉だった。令雅は薄っすらと笑むように口の端を持ち上げたまま、詩藍の肩に頭を預けるようにして目を閉じた。


「令雅……令雅、ねえ……生きて帰るって、約束、したじゃない」


 それなのに、令雅の命は流れ出してしまおうとしている。抱き締めた身体が冷たくなってきていることに、詩鸞はいつしか、気がついていた。呼吸が弱くなっている。


「令雅……ねえ、令雅……帰るって、やくそく、は……?」


 語りかけても、令雅はもう何も答えなかった。ただぐったりと詩鸞に身をもたせかけている。


 詩鸞は、ぐい、と、乱暴に涙を拭った。それから令雅を抱き締めなおす。もういちど泣いてしまったら何か不吉なことが起きてしまう気がして、今度は必死で涙を堪えた。


 令雅にくちびるを寄せる。ふれあわせると、そこはひやりと冷たくて、背筋がぞっとなった。接吻は血の味がした――……そして、たぶん、これは昏い死の味でもあるのだ。


「いやだ……い、や」


 令雅を抱えた詩鸞は、やっぱり堪えきれなくて、嗚咽をもらす。燃え盛る故郷を前に泣き濡れたあの日のように、滂沱と涙を流し、ひたすらに声をふるわせた。


 プゥルゥグィ、と、ほととぎすの高い啼き声が響いた。


 令雅を抱く詩鸞の身から、彼岸と此岸とを行き来するという鳥が飛び立っていく。プゥルゥグィ、プゥルゥグィ――……不如帰帰るに如かず、と、鳥は啼く。


 国を失った男が、帰りたいと泣き続け、ついに姿を変えたのが鵑なのだという。帰りたい、大切な場所へ。帰りたい、大事な者のところへ。帰ってきてほしい。ほかのどんなことよりも、ただ、それだけを望む。


 不如帰、不如帰、と、それはいったい誰の想いなのだろう。


 詩鸞か、令雅か。


 詩鸞は涙にぬれた頬を、令雅の冷たい頬にこすりつけた。


 みるみる鳥の数は増え、詩鸞と令雅の頭上を、啼きながら飛び廻る。


 やがてその鳥たちが、螺旋らせんをえがくように、空の奥へと飛びのぼった。


 そのとき、ばさり、と、大きな羽音が響いた。それまでじっとしていた太風である。肢を折っていた巨鳥が、不意に、ばさ、ばさ、と、翼をはためかせたのだ。


 そして、一気に、天高くへ舞い上がる。


「なっ……まだ、そんな力が……!」


 羽姫が慌てたように太風を追おうとした。乗騎の鳥の背にまたがって、舌打ちをひとつ、私兵を引き連れて飛び立とうとしている。


 でも、詩鸞にはそんなことは、もうどうでもよかった。だって、令雅が、動かなくなってしまった。令雅の命は、この手からこぼれ落ちるように、どこかへ消えていってしまった。


「うっ……っ、ぅ……ふ、ぅ」


 詩鸞は令雅を抱いたままで空を仰いだ。鵑が空に吸いこまれるように消えていく。鳳凰のしもべ、彼岸と此岸をつなぐ鳥。いま彼岸あちらの世界へ連れ去られてしまった魂を、その鳥は、呼びもどしてはくれないだろうか。


「……令、雅……」


 詩鸞が天空を仰いだままでつぶやいた時だった。天の奥底で、ちか、と、何かが光った気がした。


 その刹那のことだった。


 ばさばさ、と、またしても大きな羽音が響いた。


 太風ではない。否、太風だ。


 遥かな天の彼方から、もう一羽、赤い巨鳥が姿を現していた。


「太風が、二羽、ですって……?」


 羽姫が呆然とつぶやいている。


 二羽はすぐさま互いに近づくと、羽を打ち交わし、嘴を寄せ合い、カァン、と、高く啼き合った。しばらくじゃれるように、上になり、下になり、その場を飛び廻っていた。


 やがて飛びながら、二羽は首を絡めあって、羽を結びあった。重なったその姿がぐにゃりと融ける。かと思うと、二羽はそのままひとつに収斂し、合一して、やがてそこには、一羽の優美な赤い鳥が姿を顕していた。


「……鳳、凰……」


 詩鸞はつぶやくようにその霊鳥の名を呼んだ。

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