十九 裏切り

「あれは……朱家の私兵か?」


 ちょうど東の郭壁を越えたあたりで、兵卒の先頭を翔けていた佑祥がつぶやいた。どこかいぶかるような声音である。


「何か、問題でも?」


 なんとなく不安に駆られて、詩鸞は佑祥に訊ねた。


 朱家といえば、すなわちとう国の皇家のことである。が、皇帝が私兵を持つ理由などはないから――皇帝直属の兵であれば、もはやそれは私兵とはいえない――羽姫の父、禁軍将軍であるという皇帝の異母兄の家が個人的に雇い入れている兵卒ということだろうか。


「一緒にいるのは羽姫さまかな。だったら、彼女の護衛か?」


 佑祥は結局、そう結論付けたようだった。


 なるほど、監察使の職務を負う娘の身の安全のために、その父が兵卒をつけてやるというのは十分に考えられるだろう。なにしろ彼女は、太風を追っていったそのままに消息を絶ち、つい先頃、奇跡的に無事に帰還したばかりなのである。


 そう考えて不思議などないはずなのに、詩鸞はなんとなく胸がざわめくような感じを覚えた。なぜだろう、と、腹の底に蜷局とぐろを巻く嫌な感覚の理由を考えてみようとしたときだった。


「っ、将軍!」


 佑祥が叫ぶような声を上げた。


 彼の視線の先を見る。空を天翔が駆けていた。風を切り、矢のような速度で飛ぶ天翔の背には、もちろん、令雅がいる。大振りの剣を手に提げていた。その向こうで、ばさ、と、大きく羽ばたくのは、赤黒い翼をもつ巨大な鳥である。


「太風」


 詩鸞は無意識につぶやいた。


 その刹那、脳裡の片隅を過るように掠めていった記憶がある――……なにか、自分は大切なことを見落としてはいないだろうか。大事なことを失念してはいないだろうか。


 ちいさく眉をひそめるうちにも、太風と令雅とが交錯した。


 破壊を司るともいわれる妖魔は、令雅の攻撃をかわして、大きく羽ばたく。その起こした風によって、令雅と天翔とが刹那、均衡を崩したように見えた。


 詩鸞は息を呑む。


 祈るような気持ちで、令雅を見詰める。


「佑祥どの……早く加勢を」


 令雅の副官に、そう請うた。


「わかってる」


 応じた佑祥は、自らの乗騎の手綱を握り直した。


 その間にも、令雅は体勢を立て直すと、巧みに天翔を操って空を旋回する。真っ直ぐに太風に向かったかと思うと、巨体のまわりをぐるりとまわり込んで、鋭く剣を一閃させた。


 カァアァン、と、高い啼き声が響く。


 真っ赤な血飛沫が花のように辺りに散った。


「っ」


 詩鸞が悲鳴のような声をあげたのは、令雅が太風の血をまともに浴びたのが見えたからだ。


 太風が地面へと落下する。


 令雅は手綱を取ってそれを追う。が、妖魔の血によって真っ赤に濡れたその身体から、ゆら、と、薄黒い瘴気が立ちのぼったのが見えた気がした。


 太風は地面すれすれまで降下すると、ばさり、と、ひとつ大きく羽ばたいた。それで得た浮力で墜落をまぬかれるものの、そのまま、地面に軟着陸する。足を折った巨鳥は、大地の上で、ひとつ、ふたつ、と、翼をふためかせていた。


 太風は満身創痍といってよい状態に見える。


 だか、損傷が大きいのは、なにも太風だけではなかった。


 令雅を背に乗せた天翔が地上へと降り立った。それとほとんど同時に、令雅の身体が乗騎の上からくずおれるように地面に落下する。


 その肌には、遠目にも――いったんは消えていたはずの――赤黒い痣が浮かびあがっているのがわかった。


 太風を斬るのに、また、天翔を操るのに神気を使ったためだろう、令雅の全身から、ゆらり、と、瘴気がくゆっている。


 令雅は剣を地面につき、天翔にすがりながら、なんとか立ち上がる。太風と見合うと、そちらのほうへとにじり寄ろうとした。


 その間、巨鳥の姿をした妖魔は、鬱金うこん色の眸で、じっと令雅を見据えていた。


 間合いをはかっているのか。


 厳しく威嚇いかくしているのか。


 それとも、なにか、妖魔には別の意図があるのだろうか。


 そんな思考が浮かんできて、詩鸞は我ながら驚いた。


 令雅と見合う太風は不思議なほどに静かだ。だからそんなことを思ったのかもしれない。


 そういえば、先程来、攻撃をしかけているのは常に令雅のほうだった。太風は令雅の剣撃をかわしこそすれ、自ら、令雅を蹴爪けづめにかけようとしたりはしていなかったように思う。


 いまも、巨鳥の妖魔は、令雅に斬りつけられた傷から血を流しながら、その場にとどまるばかりである。それはただ単に太風が弱っているということなのか。


 カァアァン、と、太風が啼いた。


 その啼く声は、いつか聴いた声に重なった――……そうだ。詩鸞はこの声を知っている。芝蒼のむらが滅びたときに聞いた声と同じだ。あのとき、詩鸞の目の前には巨大な鳥がたたずんでいた。禍々しいほどにうつくしかった。あの妖魔もまた、あるいは、太風だったのだろうか。


 そこまで考えて、ふと、思う――……あれはほんとうに妖魔だったのか、と。


 太風は伝説上にしか存在しなかったのだと令雅は言っていた。誰も実際に見たことなどなかった太風の性質について、わかることは、ほとんどない。


 それは、人を襲ったことがあったろうか。


 それは、京城に危機をもたらしたのだろうか。


 此度、京城の東の森に現れた太風は、ただ、現われただけなのだ。大風を起こして木々を薙ぎ倒したり、郭壁を壊したりしたわけではない。土地を荒したり、人馬を食い散らしたり、あるいは疫病をもたらしたりしたわけでもない。


 妖魔だと認識していた。けれども、その認識が正しいものかどうか、いったい、誰が保証してくれるというのだろう。


 そんな埒のない思考が、また刹那、詩鸞の頭を掠めていた。


 ――太風の血を得る時、鳳凰を得る。


 そういえば、誰かが、そんなことを言っていた。羽姫だったろうか。否、それよりも前に、違う誰かの口から詩鸞はその言葉を聞いている。


 ――太風有り。京城みやこの東はタイホウ、その血は破壊を司る。国の東はタイオウ、その血は再生を司る。太風の血をる時、鳳凰を得る。


 それはいったい、どういう意味だったのだろう。太風と鳳凰とが、どうつながるというのか。


 詩鸞が堂々巡りの思考に捕らわれていたときだった。


「将軍っ!」


 佑祥が叫んだ。その声ではっと我に返る。令雅がふらつき、まさに地面に片膝をついたところだった。


 令雅の副官は、すぐにも、上官を助けにいきたいのだろう。けれども、口惜しげにくちびるを噛むばかりで、大鷲をいまいる場から動かそうとはしなかった。


 再び痣を身に浮かべた令雅は、いま、瘴気を立ち昇らせている。だから友尚は迂闊に近づくことができないのだ。たとえ近づこうとしても、おそらく、令雅自身が止めるのに違いなかった。


 だが、令雅はもはや、まともに歩むことさえ出来ていなかった。なんとか再度立ち上がって、歯を喰いしばって前に進もうとするものの、足下はふらつき、一歩進んではよろめいている。


 太風はその隙を突いて攻撃してくるようなことはなかった。ただじっと令雅を見据えている。時折、ゆるく、羽ばたくばかりだ。


 禍々しくもうつくしい、その巨大な妖鳥――……。


「あ……」


 詩鸞の頭の中にはまた、かつて故郷が焔に呑まれた日のことが蘇った。あのとき真正面から向かい合った巨大な鳥――……そのときのことが、いま、目の前の光景に二重映しのように重なった。


 カァアァン、と、また太風が高く啼く。


 一歩、二歩、と、必死に太風のほうへにじり寄った令雅だったが、そこで、力尽きたように地面に倒れ込んだ。


「っ」


 詩鸞は佑祥の着物を掴んだ。


「降ろして! 令雅を、助けなければ……わたしが行きます」


 色濃く赤黒い痣を浮かべた彼の身は瘴気を発し続けている。余人は近寄れないだろう。ならば自分がいかなければ、と、詩鸞は思った。


「降ろして! はやく!」


 鬼気迫る声で言うと、気圧されたように佑祥はうなずいた。


 霊鳥を操り、地面へと降下させる。佑祥の乗騎が着地するやいなや、詩鸞は鳥の背から飛び降りて、一目散に令雅のほうへと走った。


「お、おい、待てっ!」


 佑祥が後ろから引き止めるように声をかけてきたが、詩鸞は立ち止まらなかった。


「令雅!」


 令雅の傍へ辿り着くと、倒れた相手を抱え上げる。


「令雅、しっかりして!」


 生きて帰ると約束したでしょう、と、泣きそうな声で相手を叱咤した。令雅は答えない。きゅう、と、眉をひそめた詩鸞は、身体を傾けて、令雅のくちびるに己のそれを寄せた。


 ほととぎすが湧き立ち、飛び去っていく。口づけながら、お願いだから目を開けて、と、必死で祈っていた。


「詩、藍……」


 令雅が、ほう、と、長く吐息する。気がついたのか、と、詩鸞は一瞬、顔に喜色を浮かべた。


 そのときである。詩鸞たちがいる近くに、数頭の霊鳥が降り立った。


 顔を上げてみれば、先頭の鳥を操っていたのは羽姫である。彼女は乗騎の背から下りると、つかつかと詩鸞と令雅のほうへと歩み寄ってきた。


 後ろに続くのは、先程見かけた、羽姫の家の私兵だろうか。彼らはなぜか、詩鸞や令雅、羽姫がいるあたりと、佑祥率いる京城衛の一隊がいるあたりとの間に陣取って展開した。


「……詩、鸞……」


 荒い呼吸とともに、令雅がこちらの腕を掴む。


 彼は眉根を寄せ、必死にこちらに何かを訴えようとしているようだった。が、呼吸がままならないらしく、言葉は続いていかない。一刻も早く休ませてやらねばならない状況なのは一目瞭然だった。


 自分たちの前に立った羽姫を、令雅を抱えたままで、詩鸞は見上げた。


「羽姫さま、お願いです。令雅を運ぶのを手伝ってください。わたし、神気がなくて……」


 傍には令雅の霊鳥である天翔が、主を憂うように離れずにいてくれている。けれども、純潔の誓いを破ってしまった反動で神気を失ったいまの詩鸞では、令雅の霊鳥を操ることがかなわなかった。


 一刻も早く令雅を安全なところまで離脱させたい。だから手を貸してほしい、と、詩鸞は羽姫にそう頼んだ。


 羽姫は、ふ、と、笑う。


 軽い足取りで、もう一歩、こちらとの距離を詰めた。


 そのことに、詩鸞が、ほ、と、息をつきかけたときだった。屈んだ羽姫が、何のつもりか、地面に転がっていた令雅の剣を手に取った。


「――残念だけど……その必要はないわね」


 そう言うやいなや、剣を振り上げた。

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