十八 後朝の誓い
部屋の外はまだ暗いようだ。寝台に横たわった詩鸞は、隣で目を瞑っている令雅のほうにゆっくりと手を伸ばした。
その頬に、そっと触れてみる。
陽に焼けた肌。これまでは、ずっと痣が這いまわっていた。
けれども、その鎖のような赤黒い紋様は、いま、すっかり消えていた。
よかった、と、ちいさく息をつく。
「……よかった」
ぽそ、と、口に出していう。自然と笑みがこぼれた。
そのとき、不意に令雅が瞼を持ち上げた。詩鸞はびっくりして彼に触れていた手を引こうとした。が、令雅はそれを許さず、詩鸞の手指をつかまえた。
そのまま、こちらのてのひらにくちづけるようにして懐いてくる。
「あんたの献身に……感謝する」
そう言って、令雅は詩鸞のほうへと長く逞しい腕を伸べると、こちらの身体を引き寄せて抱き締めた。
令雅にやさしく抱き込まれながら、詩鸞は胸が詰まるのを感じる。目頭が熱くなって、無意識に、相手の肩口に額をこすりつけていた。
「よかった、です。呪詛、解けて」
「うん。――ありがとう。すまなかった」
「無闇にあやまるなって、言ったでしょ」
詩鸞はわざと、すこしだけ口を尖らせる。すると令雅は眉根を下げ、ややばつの悪そうな顔をした。
「でも、結局あんたにだけ犠牲を強いる形になってしまった」
「ああ、もうっ! 犠牲になったつもりなんか、わたしにはないですよ。これは、そう……先行投資です。先行投資! だって、これであなた、わたしの一生の生活を面倒みてくれるのでしょう? そのためにも……ちゃんと、無事に戻らないと、許さないんだから」
つん、と、そっぽを向いてみせると、令雅は困ったような表情をみせた。
けれどもそれ以上は何も言わず、ただこちらの機嫌を取るかのように、詩鸞の髪をやさしく梳きあげながら、額やら頬やらに口づけた。
「……あんたで、よかった」
ちゅ、と、軽くこちらのくちびるを
「神託の相手が、あんたでよかった」
真摯な眼差しで告げられて、詩鸞はどうしていいかわからなくなった。
「な、なに、急に、馬鹿なこと言ってるんですか」
しどろもどろに言い募ると、令雅は首をゆるく振った。
「急にじゃない。あんたは前に俺を気高いと言ってくれたけど……俺に言わせれば、あんたの心根のほうが、よっぽど気高い。――思えばあんたをはじめて見たときから、俺の目に映るあんたは、とても綺麗だったんだ」
まるでそのときに一目惚れでもしたのだとでもいうふうにしみじみと言われて、詩鸞は面食らって、言葉を失う。
「そ、そんなのっ」
気恥ずかしくてうつむこうとする顎を掬い上げるように掴まれ、くちびるを重ねられた。もう和らげるべき呪詛などないのに、そういえば、この接吻にはどんな意味があるのだろうか。
「令雅……?」
「太風を倒して、生きて帰る……京城の安寧も、あんたとの約束も、守るよ。必ず」
「……はい」
詩鸞はうなずいて、口づけを受けながら、令雅の首の後ろに腕をまわした。
*
ギィイ、ギィ、と、低く唸るような鳴き声が聴こえたのは、そんなときだ。
「天翔?」
どうやらこれは令雅の乗騎の声らしい。聞いたことのないようなそれだった。令雅は寝台から降りると、乱れた短袍を整え、扉のほうへと歩み寄った。
どうしたのだろう、と、詩鸞もすこし気怠い身体を引き摺るようにして令雅の背に続く。令雅が扉を開け放つと、やはり外はまだ暗く、しんと寝静まっているようだった。
が、見上げた東の空には、わずかに黎明の気配が透けてきている。
「もう朝か」
令雅が白みはじめている
なんだろう、と、詩鸞が訝って音の出所を探るように耳を澄ませるうちにも、令雅は驚愕に目を瞠っていた。
「鳳凰の結界が……消え、た?」
結界に異常があるときには鐘で知らされる、と、そういえば以前にそんな話を聞いていた気がする。いったいどういうこと、と、詩鸞が訊ねようとする前に、令雅はまたしても息を呑んでいた。
視線の先は、夜明けを迎えつつある東の空である。
今度は、詩鸞もまた呆然と目を
「あれ、な、に……?」
夜の
その姿は巨大な鳥のようだった。
だが、こんな時刻に鳥船は飛ばない。乗騎の鳥にしては大きすぎる。
赤黒いその影が、詩鸞の中で、燃え盛る故郷の廬でかつて対峙した何ものかの姿と二重映しのように重なった。
「妖、魔……?」
「――太風」
令雅は厳しい声でつぶやくと、即座に動いた。
「誰か! 京城衛の屯所へ使いを! 佑祥を呼べ! 全員に出撃準備をさせて東の郭壁へ向かわせろと伝達を!」
主の声に部屋から飛び出してきた家人には、将軍の正式な使いであることを証明するための
引き出した天翔の手綱を取り、一気に空へと舞い上がった。
「令雅!」
詩鸞は令雅の姿を追って、中庭の中央まで出て行った。上を仰ぐと、空中で旋回した令雅が、こちらを見下ろした。
「あんたは屋敷で待っていろ。――こちらが行く前に、あちらからの御出座しだ。片付けてくる」
「令雅、でも!」
「行ってくる。――必ず、帰る」
そう言うや、天翔を羽ばたかせる。あっという間にその後ろ姿はちいさくなった。
詩鸞はくちびるを噛む。
令雅の呪詛は解けた。詩鸞が令雅に同行する理由はもはやないし、行ってもまるで役に立たない、むしろ邪魔かもしれないことはわかっている。それでも、ただおとなしくここで待っているなんて、いまさら出来るわけもなかった。
「わたしも行きます」
令雅の命を受けて京城衛の屯所へ向かおうとする家人に同行を申し出ると、詩鸞は共に京城衛を目指した。
さほど遠くない屯所に駆け込むと、こちらでも異変は察知されていたのか、すでに兵卒らがめいめいに出撃準備を整えはじめている。詩鸞は佑祥の姿を探した。ほどなくして、あちらが詩鸞を見つけ、近づいてくる。
「さっき飛んでいったのは汪将軍だな。あの妖魔は太風だろう? 将軍は何と?」
「全員、準備を整えて東の郭壁へと」
「わかった。――みな、行けるな!」
佑祥の声に、おう、と、力強い声が応じた。
「佑祥どの、わたしも連れて行って」
「は? もちろん、嫌でも行ってもらう。将軍は良い顔をされないかもしれないが、将軍の呪詛を和らげられるのはお前だけなんだ」
そう苦々しくこぼして、佑祥は詩藍を自らの乗騎である大鷲の上に引き上げた。
本当は、もう、令雅の呪詛は解けている。けれども詩鸞は、敢えてそのことを佑祥には黙っていた。知れば、足手まといとなりかねない詩鸞を、佑祥は伴ってはくれないかもしれない。だったら、騙まし討ちだと後で文句を言われようがなんだろうが、構うものかと思った。
大鷲が舞い上がる。
空の上、令雅の姿はもう、遠くに小さくしか見えなかった。
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