十七 詩鸞の決断

 夢を見た。


 目の前が真っ赤に燃えていた。


 夜空を舐める巨大な赤い舌のようなほのおを前に、詩鸞は血を吐かんばかりに泣いていた。


 否、泣いているのは、詩鸞ばかりではない。はたして、泣き続けて声もれんかという頃に、巨大な鳥が詩鸞の前に現れた。


 禍々まがまがしいほどにうつくしい鳥だ。身体には無数の矢が突き刺さって、巨鳥は血に塗れていた。


 その巨大な鳥もまた詩鸞と同じように、この世の終わりかというような悲痛な声で、カァン、カァアァン、と、高く切なく啼いていた。


 やがて鳥はくちばしから血を吐いた。八千はっせん八声やこえを啼き続け、ついに血を吐いて死ぬというほととぎすの伝承のようだった。鳥は、ばさり、と、最後の力を振り絞るようにひとつ大きく羽ばたくと、そのままその場に座り込んでしまった。風が発ったのを覚えている。


 詩鸞は鳥の血を全身に浴びた。身体が熱かった。全身に、なにか、いままでになかったものが宿ったかのような感覚だった。


 焔が詩鸞の廬を焼く。


 大切な場所を、ものを、人を、全て呑み込み蹂躙しながら燃え盛っている。


 そして、詩鸞の近くには、この悲劇の元凶となった男が立っていた。


「くそっ」


 男は毒づいた。


「近づけん。太風を得るまで、あとわずかだというのに……」


 そんな声が聞こえたかと思うと、また、ばさり、と、大きな羽音がした。紅い巨鳥が必死に立ちあがり、必死に飛び立とうとしていた。


 風が起こる。


 鳥の身体が宙に浮き、舞い上がった。


 大きな紅い鳥は、そのまま真っ直ぐに天を指して飛んでいく。けれどもその途中で、身体の輪郭がぐにゃりと歪んだ。そして、やがて空に融けるかのように、その姿は消えてしまった。


 あの鳥はどこへ飛び去ったのだろう。


 天上だろうか。あるいは、彼岸へと渡ってしまったのだろうか――……本来出逢うべきだったかたわれに、巡り逢えぬ無念を抱いたままに。

 


 はっと目を覚ましたとき、詩鸞はどうやら自分が令雅の寝台に寝かされているようだと気が付いた。


 治療中に気を失って、そのまま、誰かがここへ寝かせてくれたのだろう。反射的に身を起こそうとすると、けれど、それをやさしく押し止める手があった。


「れい、が……」


 令雅は目覚めて寝台の横に腰掛け、ひどくつらそうな、あるいはすまなそうな眼差しで、詩鸞を見詰めていたのだった。


「すまん。また、迷惑をかけた」


「いえ……へいき、です」


 部屋は暗い。令雅の顔が良く見えない。


 詩鸞はちゃんと令雅の身を蝕む呪詛を和らげてやれただろうか。


 でも、きっと、今回も気休めだ。呪詛の影響は、日々、確実にひどくなっている。このまま太風討伐に出て、はたして、令雅は無事に戻ってきてくれるのだろうか。 


 やがて薄闇に目が慣れてきた。詩鸞はじっと令雅を見た。


 肌を這う、鎖のような痣が見える。暗闇の中でもそうとわかるほどそれは赤黒く、令雅の肌の上を縦横にのたうっていた。


「痣……消えて、ない」


 詩鸞は愕然がくぜんとつぶやいた。


 令雅が諦念をふくんだちいさな苦笑を見せた。


「たぶん、限界なんだろう。遠からずこうなるとは思っていた」


「そんな……!」


 詩鸞は起き上がって、令雅の頬に手を伸べる。


「口づけ……もう一度、治療、しましょう。すこしはましになるかも」


「いや、もう大丈夫だ。だいぶ楽にはなったから」


「うそ。そんなはずないです。わたしなら平気だから、もうすこし……!」


 言って詩鸞は、強引に令雅にくちびるを寄せた。相手の首の後ろに腕をまわして引き寄せ、ふたりして寝台に倒れ込む。


 いつもなら令雅が――たぶん呪詛をやわらげるため、無意識がそうさせているのだろうが――すぐさま舌を入れてくる。けれどもいまは、詩鸞のほうが、焦るように令雅の口に舌を差し込んで絡めた。


「ん……ん、ぅ……はぁっ」


 ちゅく、くちゅ、と、くちびるを深く重ね合う湿った音が夜の中に響く。もっと、と、詩鸞は必死になって、令雅のくちびるをむさぼった。


 相手から痣がこちらに移るたび、身の奥に火がともる。その熱が、じわ、と、表皮へと浮かび上がるような感覚とともに、プゥルゥグゥイ、プゥルゥグゥイ、と、高啼く鳥の声がする。


 ほととぎすは数を増し、いつの間にか部屋中を飛び交っていた。

 そしてやがて、一羽、また一羽と、わずかにかされている窓の隙間から外へ飛び出して行った。


「ん……楽になったよ。ありがとう」


 もういい、と、令雅が詩鸞の上から退く。ふ、と、笑う。


 詩鸞は相手の顔を、薄闇の中で再びじっと見つめた。


「……うそ、つかないで」


 眉をひそめて、相手を責める。


「痣、まだぜんぜん、薄くなってない。楽になんてなってないんでしょう?」


 詩鸞は、きり、と、紫黒の眸で令雅を睨んでいた。相手が、ちら、と、苦笑する。やっぱりそうか、と、そう思った。


「まだ、痛むのですよね。呪詛、だんだんひどくなってる……どう、したら……どうしたら、いいんですか」


 初めて令雅と接吻した後、痣は肌にうっすら残るという程度まで薄くなっていた。それがいまは、そのときよりずっと長くくちびるを合わせあった後だというのに、ほんのすこし薄まったという程度なのだ。


 浄化が、まるで、追いついていない。


 いつからこうだったのだろう。


 そして、いつまで、大丈夫なのだろう。


「――あなた……その状態で、まともに戦えるの……?」


 詩鸞はたまらなくなって、己のうちにある不安を口にした。すると令雅はまた、ちらり、と、ちいさく笑って見せた。


 その、どこか老成した、諦めを滲ませた笑みに、詩鸞は息を呑む。


「戦えないと、思っているのですか……?」


 愕然として、つぶやいた。


 令雅は、いま己の身体の状態が、とてもではないが太風と対峙できる状態にないことをわかっている。わかっていて、それでも当たり前のように出撃しようとしているのだ。


 あるいは、なんとか差し違えるつもりでいるのかもしれない。


「できれば、最後までもってくれるとありがたいとは……思っているんだが」


 自嘲するような相手の言葉で、詩鸞は己の想像が正しいことを知った。


 令雅は京城の安寧のために、自らを犠牲にしようとしている。太風を倒すつもりはあっても、その後、生きて戻れるとまでは考えていないのだ。


「……死ぬつもり、なんですか?」


「どうかな……太風を倒して無事で済むと思えないのは確かだ。討伐できたとしてもこの命はないものと覚悟している。たぶん、最初から。相打ちに持ち込めれば御の字……そこまでなんとか、身体がもってくれればいい、と」


「なに、それ。最初から……死ぬつもりでいたってことですか?」


 それでは詩鸞は、何のために令雅と共にいたのだろう。苦しみの果てにいつか死なせるために、治療を繰り返していたのだろうか。


「俺は、京城衛の将軍職にある者だから」


 なんでもないことのように令雅は言った。


 命をなげうつことなど当然だ、と、そのことに対してすこしの迷いも感じさせない調子だった。


 そんな令雅の態度に、詩鸞はなぜかひどく腹が立った。そしてなぜか同時に、悲しくなった。くやしくもなった。馬鹿やろう、と、思い切り罵ってやりたい気持ちだった。


 い交ぜになったさまざまな感情が、詩鸞の腹の底で蜷局とぐろを巻く。そしてふいに、喉から迫り上がってくる。


 湧き起こった衝動のままに、詩鸞は令雅の身体に圧しかかるように乗り上げていた。そして、再び相手のくちびるにむしゃぶりついた。


「っ、詩鸞……!」


 令雅が驚いたような声を出す。そして、詩鸞の身体を押し戻そうとした。


「もういい。これ以上は、あんたの身体に負担がかかりすぎる。さっきだって気を失ってからぜんぜん目覚めなくて心配したんだ」


「人の心配なんかしている場合?」


「だが」


「べつに……気を失うくらいのこと、何だっていうんですか」


 命を捨てる気でいる人間に比べたら、何のことはない。負担どうこうと、令雅に言われる筋合いはないように思った。


 こちらの烈火のごとき怒りを感じるのか、令雅は困ったように眉を下げる。


「だが、あんた、じきに実技試験じゃないか。それまでにもし身を損ないでもしたら……」


「ははっ、そんなの……」


「大丈夫だ。試験までに太風の件は片づける。なんの憂いもなくあんたが試験に臨めるように、俺が必ずなんとかするから」


「っ、でも!」


 詩鸞は叫んだ。


「そのときには、ぼろぼろの身体で太風に挑むことになったあなたは、伝説の妖魔と差し違えて、死んでるって?! ふざけるな……っ!」


 顔をしかめ、泣きそうに言ってから、詩鸞はまた令雅に口づけた。


「ん、んぅ、うんっ」


「っ、おい、詩鸞、あんたなにして……!」


 令雅が慌てた声をあげた。相手の身体にまたがったままの詩鸞が、接吻しながら令雅の短袍の帯に手をかけたからだった。


「なにって? まぐわうのです。だってそうしたら、あなたの呪詛、解けるのですよね? 鳳凰の神託だと言って、最初にあなたがわたしに求めたことじゃないですか」


 なにを今更、と、据わった目をして、詩鸞は有無をいわさず令雅の帯を解いてしまった。そして、自らも着物をはだけた。


「っ、だが、あんたには純潔の誓いが」


「ええ、そうですね。でも、それが何?」


 せせら笑うように言いつつ、顕わにした令雅の性器をてのひらで包み込んでこすり立てる。


「っ……だって、神気を失えば、監察使になれない。あんた、故郷に帰れなくなるんだぞ」


「ええ。でも、だからそれが何だっていうんですか」


 詩鸞は今度は、己の後ろの蕾を指で探って無理にほぐした。引きれるような感触に顔をしかめる。でも、やめる気などなかった。


「っ、詩鸞……! 俺はあんたに犠牲を強いたくないんだ!」


 令雅が詩鸞を強引に押しのけようとしてくる。けれども詩鸞は暴れて拒み、き、と、令雅を睨み据えた。


「そんなのっ!」


 声を荒らげる。


「そんなのね、わたしだって同じなんですよ! もう……ひとごとじゃ、いられない。ほうってなんて、おけない……だから……」


 詩鸞はさすっていた令雅のものを、自分の後ろに宛がった。


「や、めろ……詩鸞……そんなことしたら、だめだ」


「黙って……わたしの、好きに、させて」


 ぐぅ、と、体重をかけようとする。歯を喰いしばる。腰を落とそうとするのに、でも、ぜんぜん、うまくいかなかった。それでも、詩鸞はふるえながら、必死で令雅とつながろうと努めた。


「やめ、ろ……だめ、だ……あんたにそんなことをさせたら、俺は……」


 令雅がうめくように言った。そんな令雅を詩鸞はちらりと窺った。

 相手はひどくつらそうに顔をしかめている。眉を寄せ、くちびるを引き結ぶ相手に、詩鸞はふと、自嘲みたいにわらっていた。


「だって……仕方がないじゃ、ないですか。わたしがどれだけ願ったって、もう、故郷は、もとにはもどらない。どうやったって、過去は戻らないんです……でも……現在いまなら……未来さきなら……わたしは、大事にできるんだ。あなたの、命なら……っ」


 だから仕方がないじゃないですか、と、詩鸞は泣き笑った。


「ね、令雅……して。ちゃんと、して……呪詛が、消えるまで……朝まででも、わたし、つきあいます、から」


「詩鸞」


「だってね、ここであなたを死なせたら、きっと後悔する……一生、です。たとえ監察使になって、故郷へ帰れる日がきても、心からは、喜べない。もう……むりです。わたしにはいま、あなたを助ける手段が、あるのに……それを、しないで、それでもし、あなたが死ぬようなことがあったら……あなたを、見殺しになんて、したら……」


「詩鸞、聞け。あんたに見殺しにされたなんて、俺は思わない。だいたい、最初から、あんたは勝手に巻き込まれただけなんだから」


「っ、あなたがどう思うかなんて関係ない! わたしが思うんですよ! 見殺しにしたって! わたしが……」


 詩鸞は声を荒らげた。感情が昂る。それは、ほろ、と、熱い滴になって、ついにまなじりからこぼれおちた。


「いま、あなたを、放っておいたら……あなたをこのまま、死なせたりなんかしたら……わたしには、救う手段があるのに、あなたの犠牲を、容認してしまったら……わたしの廬が犠牲にされたのと、同じ、だ。百を救うために一の犠牲は仕方がないって……納得しなきゃ、ならなく、なる……仕方なくなんかなかったって言ってくれたあなたの言葉を、わたしは、うれしいと思ったのに……その、わたしが……」


「詩鸞、聞くんだ。それは……ぜんぜん、ちがうことだから」


 令雅の宥めるような言葉に詩鸞はかぶりを振った。ぽろぽろとこぼれおちる涙は止まらなかった。肩をふるわせ、嗚咽おえつする。


「詩鸞……詩鸞、泣くな」


 令雅の手が伸びてきて、詩鸞の目許をそっとこすった。涙を拭ってくれるそのやさしい仕草さえも、いまの詩鸞にはなぜかひどく頭に来た。


「泣かせてるのは誰ですか!? あなたですよ、あなた! 責任とれ! 抱いて! 抱きなさい、わたしをっ! それで神気を失って監察使になれなくても、あなたが生きて帰ってくれるなら……わたしは、後悔なんかしない。ぜったいに、しない……令雅……おねがい……わたしを、だいて」


 詩鸞は令雅の胸に額を押しつけて――……声を殺して、呻くように泣いた。


 令雅は詩藍の背中に腕をまわして、宥めようにそこを撫でさすった。そのおおきな手のやさしいあたたかさが、また、詩鸞を堪らないきもちにさせた。また、嗚咽がもれる。


 しばらく部屋には詩鸞がすすり泣く声だけが響いた。いつもほととぎす不如帰プゥルゥグィとしきりに啼き続けるときのように、詩鸞は泣き続けた。


 その間、令雅はずっと詩鸞の背を抱き、やさしく撫でていた。そのやさしさがかえって悲しかった。


「――俺は、京城衛だ」


 やがて令雅が静かに言った。


京城みやこの民のために身をなげうつのが俺の職責だ。京城に暮らす誰かのために命をかけるのが、俺の仕事だ」


 しんとした声だった。


 詩鸞は答えなかった。答えられなかった。


 ただ、だめなのか、と、思った。やはり彼の心を変えることはできなかったのだろうか、と、そう思って、またしゃくりあげた。


 その途端、ぐるりと視界が回転する。


「……え?」


 詩鸞は戸惑った。涙に濡れた目を瞬く。


 視野はひっくり返っていた。天井が見えている。そして、こちらの身体をかかえ込み、しとねに押し付けている令雅の、詩鸞を見下ろす金茶の眸が見えていた。


 たくましい身体に、覆いかぶさられている。


「……れい、が……?」


 凛々しい眉が苦しげしかめられているのを見付けて、詩鸞は痣の浮く彼の頬に手を伸ばした。そっとそこを包み込む。


 令雅は詩藍のてのひらにすこしばかり懐いた。


 それから、何かを堪えるかのように、つらそうに歯を喰いしばった。


「覚悟は、ある。誰かのために命をかける覚悟は、とうに、あった。でも……誰かの、ために……」


 呻くように、もらす。


 ぜい、と、ひとつ、わずかに荒い息を吐いた。


 令雅は己の頬に添えられた詩藍の手指の先を握った。


 詩鸞は瞬きながら令雅を見詰めていた。


「……誰かの、ために、生きて帰りたいと思ったのは……はじめて、だ。――詩鸞……詩鸞、泣くな」


 そう言うや、令雅は詩鸞に深く口づけた。


「ゆるしてくれ。いや、ゆるしてなんてくれなくてもいい。あんたに犠牲を強いる。その犠牲の分は、一生かけて詫びる。――生きて……帰って」


 熱っぽく言うと、再び接吻する。詩鸞は呆然としたままそれを受けた。


 身体の奥に熱がともる。その熱が、これは現実だと教えてくれる。何か言いたいのに、言葉がうまく出てこなかった。くちびるをわななかせる。想いは涙になってあふれこぼれる。こちらの肌に移った痣は、じんわりとにじみ、やがて鳥のかたちに成った。


 プゥルゥグィ、プゥルゥグィ、と、鵑は啼く。


 不如帰かえるにしかず、と、ひたすらに繰り返す。


 帰るに如かず、帰るに如かず――……なによりも、帰りたい、と。なによりも、帰ってほしいのだ、と。


 胸が熱くなって、詩鸞は令雅の背中を抱いた。ぎゅう、と、力を籠める。必ず帰ってきて、と、そう願う。応えるように、口づけは深くなった。


「ん……んぅ、っ……」


「……泣くな」


「だって」


「泣くな」


「……ん……」


 泣き濡れた詩鸞のまなじりに口づけながら、令雅は詩鸞の身体をまさぐった。

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