十六 訪れた限界
翌日、詩鸞は朝いちばんに、偵察のために出かけるのだという令雅を見送った。副官の佑祥は一緒だったが、どうやら羽姫は参加しないらしい。京城衛からあと二人、兵卒が同道するということだった。
その後は特にすることもなく、きたる試験に向けての準備を、と、そう思って取り組みかけた。が、集中できるはずもなかった。自分がやきもきしても仕方がないとはわかっているのに、気づけば東の空を見詰め、溜め息をついてばかりの一日だった。
切羽詰まった佑祥の声が聞こえてきたのは、もはや日も暮れようかという刻限だ。
「詩鸞! 詩鸞はいるか!? 将軍が……!」
令雅の副官のそんな声を耳にするなり、詩鸞は部屋を飛び出した。すぐに目に飛び込んできたのは、蒼白な顔をした令雅の姿だ。その肌には、これまで以上に濃く、赤黒い痣が這いまわっていた。
「令雅!」
詩鸞は弾かれたように令雅に駆け寄った。
「いったい、なにが……」
息を呑みつつつぶやくと、令雅がうっすらと目を開けた。
「だ、いじょうぶ、だ……たいしたこと、ない」
口許を無理にゆるめて、途切れ途切れに言う。嘘をつけ、そんなわけがあるか、と、詩鸞は眉を吊り上げた。
「とにかく部屋へ……治療します」
「たのむ。将軍を助けてくれ」
「いったい何があったのですか? まさか、太風と?」
今日は様子を探りにいくだけだと言っていた。だが、不測の事態で、太風と対峙することにでもなったのだろうか。令雅の酷い有様を前に詩鸞が佑祥に問うと、佑祥は、そうではない、と、
「出たのは
狙如は巨猿の姿をした妖魔だとされていた。比較的よく聞く妖魔で、普通の兵卒であっても倒せるようなものである。令雅ならなおのこと、退治に苦労などしなかったものと思われた。
それなのに、これはどういうことなのだろう。
きっと討伐が度重なっているからだ。
令雅の痣が濃くなるたび、詩鸞はそれを和らげてきた。だが、根本の問題が解決したわけではない。きっと詩鸞のしたことは、令雅の身を
こちらには悟らせなかっただけで、ほんとうは、すこしずつすこしずつ、彼の状況は悪化していた。いつのまにか、呪詛は令雅を深く蝕んでいた。
だって彼は、日々、神気を練って使っていたではないか。まるで自分などどうなっても構わないとでもいうかのように、ひとり、妖魔と戦っていたではないか。
こんなことを続けていては、考えるまでもなく、身体は悪くなるだろう。
「ねえ、佑祥どの……わたしは地方出身ですから、わからないのだけれど……京城って、こんなにも頻繁に、妖魔が出るものなんですか? ほとんど毎日、京城衛が討伐に出なければならないほどに?」
詩鸞が令雅の屋敷に厄介になるようになってから、いったい幾度、令雅は妖魔との戦いに出向いていっていただろうか。それが京城衛の職務とはいえ、いつもここまで、頻繁なのだろうか。
これでは令雅の身体がもたなくても当然だ、と、そう思いつつ、泣きそうに眉をひそめて詩鸞は令雅の副官に問うた。
「いや……前はこんなんじゃなかった。太風が出る前あたりからだ。太風の出現が関係しているのかもしれない。あるいは、鳳凰の結界がゆるんだからか」
こんなにも妖魔の襲撃が度重なることなどなかった、と、佑祥は難しい顔をして言った。
そのとき、ふと、詩鸞の頭に
「あ、のときと……おなじ」
詩鸞はつぶやいた。
十五年前、詩鸞の故郷である
「太、風……?」
翼ある妖魔など、普通はいはしない。けれどもたしかに、詩鸞は見ていた。焔が舌のように詩鸞の廬を舐め、容赦なく
――くそっ。
次いで、記憶の中で、誰かが毒づく声が聞こえた。
男だった。赤い髪をしていた。憎々しげに鳥のかたちの妖魔を睨んでいた。巨鳥は傷を負っていた。そこから滴り落ちる血を、詩鸞は頭から浴びた。
内からじくじくと焼かれるように全身が熱かった。死ぬかもしれない、と、思った。けれども男は、目の前のそんな憐れな子供には目もくれず、顔を歪め、鳥の妖魔だけを見据えていた。
――太風の血を得る時、鳳凰を得る。この手に玉座を得るまで、わずかだったものを。
そうだ。この男が詩鸞の廬を焼いたのだ。火をつけろ、と、兵卒に命じた、禁軍の将軍。あの妖魔を逃がすな、囲い込め、生け捕れ、そのためならどんな手段をつかってもいい、と、そう
どうして忘れていたのだろう。男の目的は、ほんとうに、人民を妖魔の害から救うことだったのだろうか。
「おい、お前!」
佑祥に呼びかけられて、詩鸞ははっと我に返った。
「ぼんやりしていないで、はやく将軍の治療を」
求められ、ああそうだ、いまは令雅の無事がなによりの優先事項ではないか、と、己に言い聞かせた。寝台に力なく横たわる令雅に口づける。身体の奥に熱が移り、表皮へ浮かび上がる感覚とともに、例によって、詩鸞の肌からは
プゥルゥグィ、プゥルゥグィ、と、鵑は啼きながら飛び廻る。
「……し、らん……もう、いい」
しばらく口づけを続けていると、意識を取り戻したらしい令雅がこちらを押し止めるようにした。
「だいじょうぶだ。だから、もう、いい」
「いいわけないでしょう! こんなになって!」
「これ以上は……あんたの体力を、削る」
「それこそ平気です、すこしくらい」
「でも、あんたには、試験、が」
「いまそんなこと言ってる場合ですか! 黙って……おとなしく、治療されなさい」
令雅を押さえつけ、詩鸞は口づけを続けた。
それからしばらくして、気が遠くなるのを感じる。まだもうすこし、もっと呪詛をやわらげなければ、と、そう思うのに、意識が深淵に沈み込んで落ちていくような感覚に
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