十五 誤解

「なんであんな態度をとってしまったかな」


 大きな溜息をついた詩鸞は、中庭から、ちら、と、正殿のほうを振り返った。居間の扉はぴしりと閉じられている。


 その様は、まるでこちらの存在を拒んでいるかのようだ。そんなことを考えてしまって、詩鸞は重い気分になった。


 部屋の中ではきっとまだ、令雅が佑祥とともに、羽姫から話を聞いているのだろう。京城を脅かす妖魔、太風の討伐は、いったいいつになるのだろうか。


 そっと中庭を抜けた詩鸞は、そのまま鳥小屋に近付いた。中から、ピルル、ククルル、と、鳴き声がする。天翔が詩鸞の存在に気がついて、声をあげているようだった。


 詩鸞は小屋の戸を開けて中に入った。


「天翔」


 昨日、詩鸞を乗せて飛んでくれた令雅の乗騎の名前を呼ぶ。奥には令雅が保護している鷹の霊鳥の姿もみえていたが、詩鸞の姿をみてもわずかに首をもたげただけで、そのままおとなしくしていた。


 詩鸞は天翔のほうへ歩み寄った。


 近づいていくと、大きな隼は、その巨躯とはうらはらに、鋭い目を細めて甘えるように詩鸞に顔を寄せてくる。かわいいな、と、おもうと自然と笑みがこぼれて、詩鸞は天翔の首のあたりを撫でてやった。


「おまえはいいね。いつも令雅といっしょにいられて」


 思わずつぶやいてから、詩鸞ははっとした。


 いったい何を言っているんだ、と、思った。これではまるで、自分が令雅の傍にいたがっているみたいではないか。


 詩鸞は巻き込まれただけなのだ。なぜか自分の口づけで令雅の呪詛がやわらぐから、それで、仕方なしに協力してやっている。それだけのはずなのに、どうして、除け者にされてこんなにもやもやとした重い気分になってしまっているのだろうか。


 詩鸞はまた、長い溜め息をついた。


「ねえ、おまえは知ってるの? 令雅と羽姫さまは、どんな関係なんですか?」


 問いかけてみたところで、天翔が答えてくれるわけもない。けれども、だからこそ、詩鸞はそんな埒もない問いを口に出してみていた。


「いとこだって言ってたけど……仲、良さそうだったな。信頼できる、仕事仲間? おまえと令雅みたいに、相棒なだけ? それとも、やっぱり……恋人だったり、するのかな。そうじゃなくても、令雅は羽姫さまを……好きなのかもしれないものね」


 この屋敷のとう廂房しょうぼうには、婚礼衣装が用意されていた。結婚の予定があったようなことを、令雅は口にしてもいた。


 諸事情でなくなったというその婚礼の相手は、もしかしたら、羽姫だったのかもしれない。令雅が太風との戦闘で受けた呪詛のせいで駄目になったのだろうと勝手に思っていたが、相手方の事情だった可能性もあったのだ。彼女が行方知れずになって、それで、予定されていた婚儀が出来なくなっていたのではなかったのか。


「だって、令雅……わたしを羽姫さまに、会わせたくないんですって」


 治療のためとはいえ、令雅と詩鸞とは、何度も口づけを交わした間柄である。恋人や許婚にそれを知られるのが気まずい、と、令雅はそう思ったのだろうか。


 あるいは彼女のほうだって、自分の恋人や夫となるべき人間が、どこの馬の骨とも知れない人間と口を契っているのを知ったなら、きっと、良い気はしないだろう。


 だから令雅は詩鸞を羽姫のいる場に伴わなかったのだろうか。


 もやもやする。


 ひどくいやなきもちだ。


「ああ、もう、やだなあ」


 詩鸞は天翔の羽毛に額をこすりつけた。天翔もまた労わるように、こちらに頭をすりつけてきた。


「ふふ、くすぐったい」


 天翔の仕草にすこし心慰められて、詩鸞はちいさく笑った。そんなときだった。


「――ここにいたのか」


 入ってきたのは令雅だった。詩鸞は、は、と、息を呑む。


「ご、ごめんなさい……あなたの鳥に、勝手に」


「いや、いい。天翔はあんたを気に入っている。天翔が嫌がらないなら俺が口を挟む筋じゃないし、あんたが天翔を愛でてくれるのは単純にうれしい」


 令雅は天翔の首を撫でて、ふ、と、目を細めた。


「訪ねたら部屋にいないから、どこへ行ったのかと思った」


「すみません……ちょっと、気分転換がしたくて」


「そうか。いろいろ気苦労をかけて悪いな」


「いいえ。――あの……令雅」


「ん?」


「えっと、その……羽姫さまとの話は、もう、終わったんですか? 太風の件は?」


 彼女はあなたの何、と、そう訊ねてしまいたい衝動をかろうじて押さえて、詩鸞は訊ねた。


「羽姫が言うには、東の森の中にやつの巣があったらしい。明日、羽姫の言っていたあたりを探りに、少数で森に出ることになった。それで判明すること次第ではあるんだが、早ければ数日内にも、今度は京城衛のみなを率いて本格的な太風討伐という流れになるだろう」


「そ、う、ですか……お気を、つけて」


「うん」


 ことは伝説の妖魔の討伐だというのに、令雅はごくてらいなく頷いた。


「……わたしも……連れていって、くれますか? 太風討伐の、とき……」 


「いや。だめだ」


「っ、どうして!?」


 だって、神気を練って戦えば、令雅は途中で倒れてしまうかもしれない。相手は太風なのだ。そんなことになっては、共に出撃するのだろう兵卒たちや、それこそ最悪、京城である瑛洛自体にも危険が及ぶかもしれないではないか。令雅の呪詛がひどくなったときのために、詩鸞は傍にいるべきではないのだろうか。


「危険だから」


 令雅は、ふう、と、嘆息した。


「そんなのわかってますけど、でも……!」


 言いかけて、詩鸞は口をつぐんだ。うつむいて、ぎゅっとてのひらを握り込む。


 危険だということくらい、わかっている。令雅が詩鸞の身の安全をおもんぱかってくれているのも、わかる。それでも、同道を拒まれると、どうしたって、つらかった。中途半端な立ち位置なせいで、ちゃんと令雅の役に立てない自分が、口惜しい。


「……羽姫さまは?」


「羽姫がなんだ?」


「彼女は、あなたといっしょに行くんですか?」


「そうだろうな。いま迎えがきて、いったん朱家の屋敷へ戻ったが、明日はさておき、出撃の際にはおそらく共に出るつもりでいるだろう。――あとは、禁軍が、どう動くか」


 令雅はつぶやき、何やら思案するふうに難しい表情をした。


「禁軍?」


 聞き咎めて、詩鸞は訊ねる。


 禁軍とは皇帝直属の軍のことである。十五年前、東の辺境に妖魔の大群が出たとき、皇帝の命で妖魔討伐のために動いたのも禁軍だった。すなわち、妖魔の害を最小限に押し止めるという大義名分のもと、詩鸞の故郷、芝蒼しそうに火を放ったのが禁軍なのだ。


 それがいま、太風の討伐と、なんの関係があるのだろうか。


「ああ……羽姫の父親は皇帝の異母兄、禁軍将軍だ」


 令雅が諦めたように息を吐いて、すこし言いよどむようにしながら言った。


「あんたの廬を焼くことを命じた張本人……羽姫はその娘だから、さっきはあんたを同じ場にいさせたくなかった。もし気付けば、あんたがつらい想いをするかもしれないと思って」


 令雅の思わぬ言葉に、詩鸞は目を瞬いた。


 なんだ、と、思う。さっき詩鸞を遠ざけたのは、詩鸞への心遣いだったのだ。


 なんだ、そっか、と、もう一度たしかめるように思ったら、心が軽くなって、自然と口許がほころんでいた。


「どうした? 何を笑っている?」


「いいえ。羽姫さまは、あなたの想い人なのかと思って……だからわたしに会わせたくないのかなって思っていたので、自分の勘違いがおかしくて」


 詩鸞が言うと、こちらの言葉がどうも意想外だったものと見えて、令雅は目をぱちくりと瞠った。


「羽姫が俺の想い人? どうしてそうなるんだ?」


「だって、仲、よさそうだったし」


「単なるいとこで、仕事の仲間だ。――そう……監察使としてのあいつの腕こそ、信頼してはいたが……」


 令雅はそこで、複雑な含みをもたせるように黙り込んだ。


 不思議な沈黙に、詩鸞は小首を傾げる。すると令雅は、はっと我に返ったようだった。


「なんでもない。――とにかく、あんたは気にせず、自分の試験のことに集中してくれ」


 いまあからさまに何か隠したな、と、そう思って、詩鸞はむっとした。どうせ詩鸞は令雅にとって、治療薬をかねた単なる居候だ。なにもかもを打ち明ける必要も義理もないのだろうとは思うのだが、かといって、わかりやすく蚊帳の外に追い出されれば腹も立つのだ。


 こちらの不機嫌を読み取ったらしい令雅は、すこし困ったように眉根を下げた。


 令雅が一歩、詩鸞との距離を詰める。その逞しい腕が、こちらへと伸びてくる。


 気付けば詩藍は、令雅の胸へと抱き寄せられていた。


 おおきなてのひらが頬に添えられる。節ばった指がするりとそこを撫でた。まるで天翔を撫で慈しむときのような手つきだった。


「令雅?」


 いぶかる声で呼んで相手を見上げた。端整な顔が近づいて、影が差す。


 ぼうっとしていたら、そのまま掠めるように口づけられていた。


「どうしたんです? もしかして苦しいの? だったら、部屋で治療を……」


 突然の接吻に戸惑って言い募ったら、令雅は苦笑して、ちがう、と、首を振った。再び、詩鸞を腕の中にやさしく閉じ込める。


「やっぱり、案外にぶいな」


「令雅……?」


「なんでもない。――大丈夫だ。これ以上あんたに迷惑はかけないようにする。もうすぐ、すべて、終わる。この手で、終わらせる」


 そう覚悟を籠めて言った令雅は、ほう、と、息をついた。そしてまた――苦しくないと言っていたくせに――詩鸞に口づけをした。


 詩鸞は詩藍で、治癒行為ではないらしい相手からの口づけを、なぜかそっと目を瞑っておとなしく受けとめていた。

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